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「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)

2021-09-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月29日(水)12時41分59秒

ウィキペディアの承久の乱の項目は詳しいことは詳しいのですが、「独自研究」色も強くて、「大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている」などとあります。


しかし、「父広元の嘆願」は史料で裏付けることは無理ですね。
御家人であるにもかかわらず後鳥羽に従った武士たちへの処分は峻烈で、殆ど死罪ですが、京都守護という重職にありながら幕府を裏切った大江親広だけが処刑されず、広元の所領である出羽の寒河江荘でのんびり余生を送ったのは確かに不思議です。
そしてその理由を考えると、上杉和彦氏の言われるように「幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざであるというしかない」のですが、しかし、それは「父広元の嘆願」と直結する訳ではありません。
鎌倉幕府の法を一身に体現するが如き存在の「大官令禅門」広元が作成した「事書」には息子の親広も原則通り死罪とし、それを義時等の広元以外の幕府首脳が宥免したか、あるいは正式には死罪のまま、親広の逃亡を事実上見逃した可能性も充分あると私は考えます。
さて、承久の乱の戦後処理が革命的だったなどと書くと、あるいはウィキペディアにあるような山本七平氏の見解(『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理』、PHP研究所、1982)を連想する方がおられるかもしれません。
私は同書は未読ですが、ネットで検索してみたところ、

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後鳥羽院は1221年5月 義時追討の「院宣・宣旨」を下す。大江広元を大将に京都へと出撃する。(手兵わずか18騎)


といった記述があるそうで、ここまで事実関係が雑であれば、理論面でもそのまま賛成できる内容ではなさそうです。
ただ、三上皇配流・今上帝廃位は律令法の大系では説明できない事象であり、これがいかなる事態かをきちんと法的観点から分析する必要があるはずですが、そのような分析はあまりなされていないようです。
多くの歴史研究者が、鎌倉幕府開創期の朝幕関係については法的観点から詳しい分析を加えているのに対し、承久の乱については、東国国家論に立つ佐藤進一氏の『日本の中世国家』(岩波書店、1983)ですら極めてあっさりした記述に留めています。
それは高橋典幸氏(東京大学教授)や佐藤雄基氏(立教大学教授)等の直近の論文でも同様で、例えば高橋典幸氏は「鎌倉幕府と朝幕関係」(『日本史研究』695号、2020)において、

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第二章 九条道家の登場
(1)道家の権力基盤

 承久の乱は鎌倉幕府の存在感を飛躍的に高めることになった。新補地頭の設置を通じて、鎌倉幕府の影響は西国各地へと空間的にも拡大していった。朝幕関係についても、幕府は承久の乱以前の政治姿勢を超える行動をとることになった。すなわち、後鳥羽院以下を配流に処し、仲恭天皇に代えて茂仁(後堀河天皇)を擁立し、その父守貞親王(後高倉院)を治天にすえたのである。頼朝さえなしえなかった皇位継承に介入し、実現したのである。その後も譲位や摂関の交替等に際して、幕府に事前照会がなされるのが通例となる。ただし、これによって朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない。幕府の狙いはあくまでも朝廷から後鳥羽の皇統を排除することにあり、それが維持されている限りは、朝廷の運営は貴族社会による自律的運営に委ねて、朝政に関与しようとはしなかったのである。やや後の史料になるが、御成敗式目の制定にあたって北条泰時が六波羅の北条重時に示しているように、幕府の関わる領域を朝廷の関わるそれと弁別したいというのが、当時の幕閣(少なくとも執権北条氏)の基本的な政治姿勢だったと考えられる。
 むしろこの時期の朝幕関係で注目されるのは九条道家の動きである。【後略】
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とされていて(p46)、承久の乱によっても「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」のだそうです。
しかし、律令法の大系で全く説明できないのは三上皇配流・今上帝廃位だけではなく、幕府が天皇になったことが一度もない「守貞親王(後高倉院)を治天にすえ」たことも異常です。
更に幕府が天皇家の荘園群をいったん全て没収した上で、それを後高倉院に返還したものの、幕府はその判断でいつでも取り返すことができると定めた点も異常です。
高橋氏はこれらの事象を法的観点から分析される必要を感じておられないようですが、その態度は私にはどうにも不思議に思われます。
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