投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 2日(木)10時39分55秒
「諸国の惣追捕使」の議論、意外に分かりにくいかもしれないので、佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)から少し引用しておきます。(p108以下)
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尊氏の要求
前代同様、京・鎌倉の至急伝令が三日三晩かかったとすれば、直義敗北の報が京都に達したのは七月二十五、六日のはずである。
尊氏はただちに時行討伐に東下することの許可をもとめたが、それには重大な意味を持つ二つの要求がついていた。総追捕使と征夷大将軍の任命である。鎌倉幕府創立の経過をかえりみれば明らかなように、この二つは武士政権が成立するに必要かつ十分な官職名である。源頼朝が日本六十六国の総追捕使(または総守護)とよばれ、各国におかれた守護が最初は某国の総追捕使とよばれたように、総追捕使は一定の領域を一定の権限で支配する官職である。また征夷大将軍は、平安時代は別として、頼朝以来の例でいえば、全国の武士を従属させる地位、いわゆる武家の棟梁たる地位を象徴する官職である。両者の性質のちがいをはっきりさせるために抽象的な概念を用いるならば、総追捕使の権能は領域的な支配権であり、征夷大将軍のそれは対人的もしくは主従的な支配権である。
ところで領域的支配権は本来、天皇のもつ(あるいは、もつ建前になっている)全国統治権の中に含まれる性質のものだから、天皇は一定の領域的支配権を特定個人に与えることができる。したがって与えられた者は、それだけの領域的支配の正当性を主張することができる。
しかし、主従的支配権は、個人と個人が主従関係を結ぶことによって主人の側が取得するものである。したがって、総追捕使の任命は一定の権限を付与する意味をもつけれど、征夷大将軍の任命は、そういう意味をもたない。ただ天皇のもつ伝統的な権威の力が、主従的支配権の維持・強化にプラスの影響力を与えることができるだけである。前に、必要かつ十分といったけれども、極端な言いかたをすれば、武士政権の支配者にとって征夷大将軍という職名はかならずしも不可欠ではないわけで、現実に全国の武士を従属させて、武士の棟梁となることができればよいのである。全国の武士によびかけて、服属をもとめるのに、この職名は極めて有効であるというにすぎない。
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いったん、ここで切ります。
尊氏が「重大な意味を持つ二つの要求」、即ち「総追捕使と征夷大将軍の任命」を求めた、という記述は『神皇正統記』に依拠していますが、この二つの官職の性質には大きな違いがあり、「総追捕使の権能は領域的な支配権」であるのに対し、「征夷大将軍のそれは対人的もしくは主従的な支配権」に過ぎず、「総追捕使の任命は一定の権限を付与する意味をもつけれど、征夷大将軍の任命は、そういう意味をもたない」訳です。
とすると、これから北条時行との戦争に向かう尊氏にとって、どちらが重要かといえば、もちろん総追捕使に決まっています。
佐藤進一氏も、「極端な言いかたをすれば、武士政権の支配者にとって征夷大将軍という職名はかならずしも不可欠ではない」とまで言われるならば、もう一歩進んで、中先代の乱という緊急事態に巻き込まれた尊氏が本当に征夷大将軍など要求したのだろうか、という疑問を抱いてもよさそうなものですね。
ま、それはともかく、続きです。(p109以下)
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このように考えれば、尊氏が二つの官職を要求したのは、たんに時行の討伐を効果的にするためではなくて、これを機会に武士政権を樹立するためであったといえる。ただ問題なのは、総追捕使の支配領域である。つまり鎌倉幕府のばあいと同じく、日本六十六国の総追捕使なのか、もっと限定された地域のそれなのか、である。もし直義の構想が鎌倉脱出後にわかに生まれたものでなく、それ以前に尊氏と連絡ずみであったと仮定すると、尊氏の求めた総追捕使は東国に限定されたものと見るほうが自然である。ある時期までのかれの行動には、直義と同様、尾張以西には手を触れまいとする考えがみえるから、この観察はいっそう有力である。
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総追捕使は「時行の討伐を効果的にするため」に必須ですが、征夷大将軍はそうでもない訳で、それにもかかわらず「尊氏が二つの官職を要求したのは」、「これを機会に武士政権を樹立するためであった」というのが佐藤氏の論理ですね。
逆に言えば、尊氏が総追捕使だけを要求したのだとしたら、尊氏には「これを機会に武士政権を樹立する」意志はなかったと考えることになりそうです。
さて、「ただ問題なのは、総追捕使の支配領域である」以下の記述は、「尊氏の要求」の直前に記された内容を前提としています。
これは、
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直義、三河に逗留
直義が成良および甥の義詮(尊氏の嫡子)とともに三河の矢作宿に到着したのは八月二日であった。直義はここに軍をとどめ、使者を京都に送って軍情を報告するとともに、幼主成良を京都へかえした。
直義が三河にとどまったのにはわけがあった。【中略】
こう見ると、直義が今まで戴いていた成良親王を京都へかえして、三河にとどまったというのは、建武政府と手を切って、三河以東に独立の政権をつくる決意のあらわれではなかろうか。尊氏は別として直義だけについていえば、これが足利政権樹立の意志表示である、とわたくしは解したい。
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というもので(p106以下)、まあ、「建武政府と手を切って、三河以東に独立の政権をつくる決意」云々は些か考えすぎで、亀田俊和氏が言われるように、直義が三河にとどまったのは「自らの勢力圏内で時行軍の追撃を食い止める自信があっただけのことであろ」し、「成良を京都に帰還させたのも、単に彼の安全を保障したにすぎない」(『足利直義 下知、件のごとし』、p25)と思われます。
後醍醐との関係については、尊氏と直義との間に方向性の違いがあったことは明らかですから、佐藤氏がここだけ、特に理由も示さずに尊氏が直義の「三河以東独立政権構想」に同意していたかのように述べるのは私には不可解です。
「諸国の惣追捕使」の議論、意外に分かりにくいかもしれないので、佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)から少し引用しておきます。(p108以下)
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尊氏の要求
前代同様、京・鎌倉の至急伝令が三日三晩かかったとすれば、直義敗北の報が京都に達したのは七月二十五、六日のはずである。
尊氏はただちに時行討伐に東下することの許可をもとめたが、それには重大な意味を持つ二つの要求がついていた。総追捕使と征夷大将軍の任命である。鎌倉幕府創立の経過をかえりみれば明らかなように、この二つは武士政権が成立するに必要かつ十分な官職名である。源頼朝が日本六十六国の総追捕使(または総守護)とよばれ、各国におかれた守護が最初は某国の総追捕使とよばれたように、総追捕使は一定の領域を一定の権限で支配する官職である。また征夷大将軍は、平安時代は別として、頼朝以来の例でいえば、全国の武士を従属させる地位、いわゆる武家の棟梁たる地位を象徴する官職である。両者の性質のちがいをはっきりさせるために抽象的な概念を用いるならば、総追捕使の権能は領域的な支配権であり、征夷大将軍のそれは対人的もしくは主従的な支配権である。
ところで領域的支配権は本来、天皇のもつ(あるいは、もつ建前になっている)全国統治権の中に含まれる性質のものだから、天皇は一定の領域的支配権を特定個人に与えることができる。したがって与えられた者は、それだけの領域的支配の正当性を主張することができる。
しかし、主従的支配権は、個人と個人が主従関係を結ぶことによって主人の側が取得するものである。したがって、総追捕使の任命は一定の権限を付与する意味をもつけれど、征夷大将軍の任命は、そういう意味をもたない。ただ天皇のもつ伝統的な権威の力が、主従的支配権の維持・強化にプラスの影響力を与えることができるだけである。前に、必要かつ十分といったけれども、極端な言いかたをすれば、武士政権の支配者にとって征夷大将軍という職名はかならずしも不可欠ではないわけで、現実に全国の武士を従属させて、武士の棟梁となることができればよいのである。全国の武士によびかけて、服属をもとめるのに、この職名は極めて有効であるというにすぎない。
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いったん、ここで切ります。
尊氏が「重大な意味を持つ二つの要求」、即ち「総追捕使と征夷大将軍の任命」を求めた、という記述は『神皇正統記』に依拠していますが、この二つの官職の性質には大きな違いがあり、「総追捕使の権能は領域的な支配権」であるのに対し、「征夷大将軍のそれは対人的もしくは主従的な支配権」に過ぎず、「総追捕使の任命は一定の権限を付与する意味をもつけれど、征夷大将軍の任命は、そういう意味をもたない」訳です。
とすると、これから北条時行との戦争に向かう尊氏にとって、どちらが重要かといえば、もちろん総追捕使に決まっています。
佐藤進一氏も、「極端な言いかたをすれば、武士政権の支配者にとって征夷大将軍という職名はかならずしも不可欠ではない」とまで言われるならば、もう一歩進んで、中先代の乱という緊急事態に巻き込まれた尊氏が本当に征夷大将軍など要求したのだろうか、という疑問を抱いてもよさそうなものですね。
ま、それはともかく、続きです。(p109以下)
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このように考えれば、尊氏が二つの官職を要求したのは、たんに時行の討伐を効果的にするためではなくて、これを機会に武士政権を樹立するためであったといえる。ただ問題なのは、総追捕使の支配領域である。つまり鎌倉幕府のばあいと同じく、日本六十六国の総追捕使なのか、もっと限定された地域のそれなのか、である。もし直義の構想が鎌倉脱出後にわかに生まれたものでなく、それ以前に尊氏と連絡ずみであったと仮定すると、尊氏の求めた総追捕使は東国に限定されたものと見るほうが自然である。ある時期までのかれの行動には、直義と同様、尾張以西には手を触れまいとする考えがみえるから、この観察はいっそう有力である。
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総追捕使は「時行の討伐を効果的にするため」に必須ですが、征夷大将軍はそうでもない訳で、それにもかかわらず「尊氏が二つの官職を要求したのは」、「これを機会に武士政権を樹立するためであった」というのが佐藤氏の論理ですね。
逆に言えば、尊氏が総追捕使だけを要求したのだとしたら、尊氏には「これを機会に武士政権を樹立する」意志はなかったと考えることになりそうです。
さて、「ただ問題なのは、総追捕使の支配領域である」以下の記述は、「尊氏の要求」の直前に記された内容を前提としています。
これは、
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直義、三河に逗留
直義が成良および甥の義詮(尊氏の嫡子)とともに三河の矢作宿に到着したのは八月二日であった。直義はここに軍をとどめ、使者を京都に送って軍情を報告するとともに、幼主成良を京都へかえした。
直義が三河にとどまったのにはわけがあった。【中略】
こう見ると、直義が今まで戴いていた成良親王を京都へかえして、三河にとどまったというのは、建武政府と手を切って、三河以東に独立の政権をつくる決意のあらわれではなかろうか。尊氏は別として直義だけについていえば、これが足利政権樹立の意志表示である、とわたくしは解したい。
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というもので(p106以下)、まあ、「建武政府と手を切って、三河以東に独立の政権をつくる決意」云々は些か考えすぎで、亀田俊和氏が言われるように、直義が三河にとどまったのは「自らの勢力圏内で時行軍の追撃を食い止める自信があっただけのことであろ」し、「成良を京都に帰還させたのも、単に彼の安全を保障したにすぎない」(『足利直義 下知、件のごとし』、p25)と思われます。
後醍醐との関係については、尊氏と直義との間に方向性の違いがあったことは明らかですから、佐藤氏がここだけ、特に理由も示さずに尊氏が直義の「三河以東独立政権構想」に同意していたかのように述べるのは私には不可解です。