投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月24日(金)10時50分11秒
近藤成一氏は「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっている」と言われますが、例えば近藤氏と研究上の接点が多い佐藤雄基氏(立教大学教授)は、「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)の注(58)で、
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(58) 承久の乱像に関しては長村祥知『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、二〇一五)。後鳥羽挙兵目的をめぐる論争(倒幕か北条義時追討か)がある。残存史料からは後鳥羽の真意は不明であるが、実朝暗殺後、北条政子が事実上鎌倉殿となり、義時がその奉行となっていたこと(『愚管抄』巻第六、三一三頁)、京方が勝利した場合、寺社権門と同様に、有力武士が個々に院によって統率され、幕府というまとまりは解体していた蓋然性が高いことなどを考えれば、倒幕と義時追討は現実には区別し難かったのではなかろうか。この点に関して、拙稿「鎌倉北条氏の書状 序説─北条時政・義時・泰時の書状について─」(『国立歴史民俗博物館研究報告』掲載予定)も参照。
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と書かれています。
「残存史料からは後鳥羽の真意は不明」ですが、後鳥羽は相当楽観的というか、ハイテンションだったでしょうから、やはり「幕府というまとまり」の「解体」を狙っていたのでしょうね。
ただ、戦後体制は戦争の具体的経過によって決定され、それは後鳥羽を含め、開戦時には誰も正確には予想できないものです。
従って、後鳥羽の当初の「真意」が何であれ、例えば三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して北条を打倒したならば関東中心の「幕府というまとまり」は「解体」されず、「北条幕府」が「三浦幕府」に変っただけ、という後鳥羽にとってあまり愉快ではない結果に終わったかもしれません。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されて官軍が勝利し、その勢いを維持したまま鎌倉に突入して関東武士を蹴散らしたなら、あるいは関東ではなく中京を中心とする「山田幕府」が成立したかもしれません。
ま、仮に官軍が勝ったとしても開戦時の「後鳥羽の真意」が実現されるかどうかは不明であって、「後鳥羽の真意」が倒幕か北条義時追討かを議論すること自体にあまり意味がないのかもしれません。
さて、さんざん悪口を言っておきながら今さらという感じがしないでもありませんが、私は長村著を極めて高く評価していて、第二章の後半とそれに関連する部分に疑問を抱いているだけです。
そもそも思想史までカバーする長村著の全体を評価する能力は私にはありませんが、私が一番面白いと思ったのは「第七章 『六代勝事記』の歴史思想─承久の乱と帝徳批判」です。
この点、白根靖大氏も長村著の書評(『歴史評論』813号)で、
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また、承久の乱の総合的研究という意味では、思想史的研究に挑んだことも特筆できよう。たとえば、『六代勝事記』の帝徳史観に着目し、これは無常観に基づく歴史観とは異なる人間起因の歴史観であり、後鳥羽個人に承久の乱の責任を負わせ、乱後の後高倉・後堀河の権威を保つ言説の一つとして機能したと指摘する。神国思想の神孫君臨思想ともに、新たに推戴された皇統を支えたこの観念は、鎌倉後期の公家政権を見るうえで鍵となりそうである。
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と高く評価されていますね。(p95)
研究史上の評価ではなく、あくまで個人的関心からの感想ですが、私は第七章を読みながら細川重男氏の『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』(日本史史料研究会、2007)を連想しました。
そして、長村氏の見解は、私がもともと抱いていた細川著の根幹部分に対する違和感をある程度説明してくれるように感じました。
『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』は私にとってちょっとした因縁の書で、同書が出版される前に行われた細川氏の研究発表と、同書出版後の書評会において、私は細川氏の「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」説に疑念を呈し、私の批判の痕跡は同書に微かに記されています。
ま、別に長村氏が細川著に言及されている訳ではありませんが、「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」が生まれた当時の精神的風土を考える上で、長村論文は大変参考になりそうです。
なお、冒頭で紹介した論文で、佐藤雄基氏は細川説にかなり好意的な評価をされていますね。
新年のご挨拶(その2)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
近藤成一氏は「後鳥羽の意図が義時追討であって倒幕ではなかったことがほぼ学界の常識となっている」と言われますが、例えば近藤氏と研究上の接点が多い佐藤雄基氏(立教大学教授)は、「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)の注(58)で、
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(58) 承久の乱像に関しては長村祥知『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、二〇一五)。後鳥羽挙兵目的をめぐる論争(倒幕か北条義時追討か)がある。残存史料からは後鳥羽の真意は不明であるが、実朝暗殺後、北条政子が事実上鎌倉殿となり、義時がその奉行となっていたこと(『愚管抄』巻第六、三一三頁)、京方が勝利した場合、寺社権門と同様に、有力武士が個々に院によって統率され、幕府というまとまりは解体していた蓋然性が高いことなどを考えれば、倒幕と義時追討は現実には区別し難かったのではなかろうか。この点に関して、拙稿「鎌倉北条氏の書状 序説─北条時政・義時・泰時の書状について─」(『国立歴史民俗博物館研究報告』掲載予定)も参照。
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と書かれています。
「残存史料からは後鳥羽の真意は不明」ですが、後鳥羽は相当楽観的というか、ハイテンションだったでしょうから、やはり「幕府というまとまり」の「解体」を狙っていたのでしょうね。
ただ、戦後体制は戦争の具体的経過によって決定され、それは後鳥羽を含め、開戦時には誰も正確には予想できないものです。
従って、後鳥羽の当初の「真意」が何であれ、例えば三浦胤義の兄・義村への説得が成功し、三浦一族が総力を結集して北条を打倒したならば関東中心の「幕府というまとまり」は「解体」されず、「北条幕府」が「三浦幕府」に変っただけ、という後鳥羽にとってあまり愉快ではない結果に終わったかもしれません。
また、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」(野口実「承久の乱の概要と評価」『承久の乱の構造と展開』、15p)際に、山田重忠案が採用されて官軍が勝利し、その勢いを維持したまま鎌倉に突入して関東武士を蹴散らしたなら、あるいは関東ではなく中京を中心とする「山田幕府」が成立したかもしれません。
ま、仮に官軍が勝ったとしても開戦時の「後鳥羽の真意」が実現されるかどうかは不明であって、「後鳥羽の真意」が倒幕か北条義時追討かを議論すること自体にあまり意味がないのかもしれません。
さて、さんざん悪口を言っておきながら今さらという感じがしないでもありませんが、私は長村著を極めて高く評価していて、第二章の後半とそれに関連する部分に疑問を抱いているだけです。
そもそも思想史までカバーする長村著の全体を評価する能力は私にはありませんが、私が一番面白いと思ったのは「第七章 『六代勝事記』の歴史思想─承久の乱と帝徳批判」です。
この点、白根靖大氏も長村著の書評(『歴史評論』813号)で、
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また、承久の乱の総合的研究という意味では、思想史的研究に挑んだことも特筆できよう。たとえば、『六代勝事記』の帝徳史観に着目し、これは無常観に基づく歴史観とは異なる人間起因の歴史観であり、後鳥羽個人に承久の乱の責任を負わせ、乱後の後高倉・後堀河の権威を保つ言説の一つとして機能したと指摘する。神国思想の神孫君臨思想ともに、新たに推戴された皇統を支えたこの観念は、鎌倉後期の公家政権を見るうえで鍵となりそうである。
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と高く評価されていますね。(p95)
研究史上の評価ではなく、あくまで個人的関心からの感想ですが、私は第七章を読みながら細川重男氏の『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』(日本史史料研究会、2007)を連想しました。
そして、長村氏の見解は、私がもともと抱いていた細川著の根幹部分に対する違和感をある程度説明してくれるように感じました。
『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』は私にとってちょっとした因縁の書で、同書が出版される前に行われた細川氏の研究発表と、同書出版後の書評会において、私は細川氏の「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」説に疑念を呈し、私の批判の痕跡は同書に微かに記されています。
ま、別に長村氏が細川著に言及されている訳ではありませんが、「義時の武内宿禰再誕伝説という神話」が生まれた当時の精神的風土を考える上で、長村論文は大変参考になりそうです。
なお、冒頭で紹介した論文で、佐藤雄基氏は細川説にかなり好意的な評価をされていますね。
新年のご挨拶(その2)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704