学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

葉室光親が死罪となった理由(その4)

2020-06-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月23日(火)14時14分55秒

文治元年(1185)の高階泰経との対比のために、承久三年(1221)の葉室光親が『吾妻鏡』にどのように描かれているかを確認してみます。
まず、五月十九日、京を十五日に出立した伊賀光季の飛脚と西園寺公経の家司・三善長衡の飛脚が鎌倉に到着しますが、後者の報告の中に葉室光親が登場します。


正確を期すために、同日条を『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳で紹介します。(p102以下)

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十九日、壬寅。午の刻に大夫尉(伊賀)光季の去る十五日の飛脚が関東(鎌倉)に到着して申した。「このところ院(後鳥羽院御所)の内に官軍が召し集められています。そこで前民部少輔(大江)親広入道が昨日(後鳥羽の)召喚に応じました。光季は右幕下〔(藤原)公経〕の知らせを聞いていたため、支障があると申したので、勅勘を受けそうな情勢です」。未の刻に右大将(公経)の家司である主税頭(三善)長衡が去る十五日に遣わした京都の飛脚が(鎌倉に)到着して申した。「昨日〔十四日〕、幕下(公経)と黄門(藤原)実氏は、(後鳥羽が)二位法印尊長に命じて、弓場殿に召し籠められました。十五日の午の刻に官軍を派遣して伊賀廷尉(光季)を誅殺され、按察使(藤原)光親卿に勅して右京兆(北条義時)追討の宣旨が五畿七道に下されました」。関東分の宣旨の御使者も今日、同様に(鎌倉に)到着したという。そこで捜索したところ、葛西谷の山里殿の辺りから召し出された。押松丸〔(藤原)秀康の所従という〕と称し、所持していた宣旨と大監物(源)光行の副状、同じく東国武士の交名を注進した文書などを取り上げ、二品(政子)の邸宅〔御堂御所という〕で開いて見た。また同じ時に廷尉(三浦)胤義〔義村の弟〕の私的な書状が駿河前司義村のもとに到着した。これには「『勅命に応じて右京兆(義時)を誅殺せよ。勲功の恩賞は申請通りにする。』と命じられました。」と記されていた。義村は返事をせずにその使者を追い返すと、その書状を持って義時のもとに赴いて言った。「義村は弟の叛逆には同心せず、(義時の)味方として並びない忠節を尽くします」。
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注意すべきは、実際には義時追討の「宣旨」には光親の名前は一切現れておらず、奉者として光親の名前が出ているのは「院宣」の方です。
ただ、「宣旨」はあくまで三善長衡の報告の中の表現であって、緊急事態が勃発した直後ですから、ある程度の情報の混乱があるのは当然とも思われます。
しかし、幕府首脳には、当初から光親の存在が強く印象づけられたのかもしれません。
さて、この後は複数の公卿の名前が出てくる六月八日条(後鳥羽の比叡山御幸)、六月十二日~十四日条(瀬田・宇治等での合戦)にも光親は登場しないまま、十五日に京方が敗北し、十六日に北条時房と泰時が六波羅に移って、合戦が無事終わった旨の報告の飛脚を関東に送ります。
そして残敵の掃討とともに、合戦での勲功を定めるための事実関係の調査、戦死・負傷者リストの作成という膨大な事務作業が始まります。
六波羅からの飛脚は二十三日に鎌倉に到着し、鎌倉では直ぐに公卿・殿上人の罪名以下、朝廷への対応が検討され、大江広元が文治元年の処置の先例を勘案して事書を作成します。
翌二十四日、安東光成が北条義時から京都で措置すべき事項について直接指示を受けた上で、事書を持って京に向かい、二十九日に六波羅に到着し、洛中と洛外の謀反の者を断罪するよう、事書の内容を詳しく説明します。
他方、京では二十四日に「合戦張本公卿」四人の身柄が六波羅に移されますが、その中に「按察使光親卿」の名前が登場します。
残りの三人は「中納言宗行卿」「入道二位兵衛督有雅卿」「宰相中将範茂卿」ですね。
翌二十五日には、「合戦張本」として更に「大納言忠信卿」「宰相中將信能」「刑部僧正長厳」「観厳」が六波羅に移送されます。


光親自身は戦場には向かわなかったものの、幕府側から見れば「合戦張本」の一人と見なされていた訳ですね。
そして、これらの「合戦張本」の処分につき、北条時房と泰時は鎌倉から送られてきた事書を読み、三浦義村・毛利季光等と評議を行います。
七月一日には合戦の首謀者で公卿以下の者を断罪せよとの「宣下」があり、泰時はそれぞれの預り人に、彼らを連行して関東に下向するように指示します。
五日、一条信能が預り人の遠山景朝によって美濃で斬られますが、そもそも今度の首謀者で公卿以上の者は、洛中で斬罪に処するように関東の命があったのに、泰時の判断で、今は洛外で行うのがよいとされたのだそうです。
六日には後鳥羽が四辻殿から鳥羽殿に移され、八日に出家します。
また、同日、「持明院入道親王(守貞)」が治天の君となり、摂政が九条道家から近衛家実に交替させられ、九日には先帝(仲恭)が譲位し、新帝(後堀河)践祚となります。
そして十二日に光親が処刑されます。


ここもまた、正確を期すために、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』の今野慶信氏の訳を紹介すると、

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十二日、甲午。按察卿〔(藤原)光親。先月に出家。法名は西親〕は武田五郎信光が預かって下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会い、誅殺せよと伝えたので、加古坂で梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽の)並びない寵臣であった。また家門の長で、才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、頻りに君(後鳥羽)を正しい判断に導こうとしたが、諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽の)お考えに背いたので進退が窮まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」ということであろう。その諫言の申状数十通が仙洞に残っており、後日に披露されたとき、武州(北条泰時)はたいそう後悔したという。
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といった状況です。
ここも「書下追討宣旨」ですね。

>筆綾丸さん
長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「紙背」 2020/06/22(月) 14:32:30
「仮に後鳥羽が討幕を構想していたなら、鎌倉殿(九条三寅、あるいは代行たる北条政子)」の名を追討対象に挙げたはずであり、やはり後鳥羽の意図は義時追討にあったと考えねばならない」(『中世公武関係と承久の乱』114頁)
長村氏の学問的態度は、この表現が象徴するように、史料の文言に忠実な禁欲的実証主義で、紙背文書ではないけれど、眼光紙背に徹せず、悪く言えば、政治的想像力が欠如しているように思われますね。
小太郎さんが前に触れられてましたが、
「藤田讀院宣。其趣。今度合戦。不起於叡慮。謀臣等所申行也」(『吾妻鏡』承久三年六月小十五日戊辰)
について、史料の文言に忠実であれば、幕府は院宣を額面通り受け取って光親等の謀臣を処刑した、別に他意はなかった、という解釈で済むのではあるまいか、という気がしますね。そうか、なるほどね、と信じる小学生はいるかもしれないけれど、いじめで苦労している中学生は信じないでしょうね。
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