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「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)

2023-01-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

長く文部科学省教科書調査官を務め、現在は国学院大学文学部教授の高橋秀樹氏(1964生)の『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)は、長江荘の地頭が北条義時か否か、という問題を検討した際に一部を紹介済みです。

2020年6月の私は何故に慈光寺本『承久記』を信頼したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f7d97621d88d35d73046714ce3e72e5

改めて同書を眺めてみると、慈光寺本『承久記』の極端な重視、というか偏愛が溢れていて、ちょっとびっくりですね。

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有力御家人を次々と排斥した北条氏と、その唯一のライバル三浦氏、という通説は正しいのか。両者の武士団としての存在形態に留意し、『吾妻鏡』の記述を相対化する視点から検証。両氏の役割と関係に新見解を提示する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b593892.html

同書の「三 実朝暗殺事件と承久の乱」の「2 承久の乱と東国武士団」は、小見出しを順に拾うと、

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実朝の後継者問題
承久の乱
承久の乱の戦後処理
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と構成されていますが、二番目の「承久の乱」の冒頭から少し引用します。(p100)

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 慈光寺本『承久記』によると、後鳥羽上皇が北条義時追討を諮った公卿会議には、藤原基通(すでに出家している近衛流摂関家の家長)・左大臣藤原道家(九条流摂関家の家長)・前右大臣藤原公継・権大納言藤原忠信・前権中納言藤原光親・同源有雅・同藤原宗行・参議藤原範茂・同藤原信能と僧長厳・尊長が呼ばれた。このうち、道家は鎌倉殿三寅の父、忠信は源実朝御台所の兄、信能は頼朝時代に幕府と朝廷とをつないでいた能保の息、尊長はその弟である。後鳥羽上皇側近を中心とする顔ぶれではあるが、幕府と縁のある者が意外と多い。いっぽう、公卿のなかでも、北条時政の娘を妻とする中納言藤原実宣・参議藤原国通は入っていない。鎌倉殿三寅の父道家が入っていることからも、幕府そのものの存在を否定するための挙兵ではないことがわかる。狙いは義時を排除することにあったと考えていい。
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うーむ。
「鎌倉殿三寅の父道家が入っていることからも、幕府そのものの存在を否定するための挙兵ではないことがわかる」はちょっと理解に苦しみます。
承久三年(1221)の時点で、建保六年(1218)生まれの三寅ちゃん(四歳)は、将来は鎌倉殿になることを予定されてはいても、まだ元服前、征夷大将軍任官前です。
従って、三寅ちゃんは「幕府そのもの」ではないですし、三寅ちゃん追討を前面に出したら、官軍もあまり意気は上らないと思います。
要するに「鎌倉殿三寅の父道家が入っていること」は、後鳥羽の目的が倒幕にあったか、義時の追討にあったかという議論には関係ないですね。
ま、それはともかく、続きです。

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 卿二位の後押しもあって、義時追討を決めた後鳥羽上皇は、検非違使から受領を歴任し、上総介を経歴していて東国についての知識もある近臣藤原秀康を御所に呼び、義時追討の計略を尋ねた。秀康は、「三浦義村の弟の胤義が、検非違使として在京しているので、胤義に相談すれば義時を討つことは容易いでしょう」と申し上げた。秀康は自身の宿所に胤義を招いて酒盛りし、後鳥羽上皇にしたがうことを胤義に勧めた。胤義は「先祖伝来の三浦・鎌倉を捨てて上洛し、院に仕えることは心のなかにあったことです。なぜかといえば、胤義の妻は誰だとお思いか。法橋昌寛の娘です。故左衛門督殿(源頼家)の御台所となり、若君一人を生みました。督殿は時政に殺され、若君はその子義時に殺されてしまいました。胤義の妻となってからも、日夜泣き暮らしているのを見て哀れに思っています。都に上って院に召されて、謀反を起こして鎌倉に向かって一矢を報いることができれば、夫婦の心が慰められるだろうと思っていたところ、このような院の仰せを受けたのは面目だと思います。兄義村に手紙を出したならば、義時を討つことは簡単でしょう。義村に手紙を送り、義村が胤義の子三人を殺して異心なきことを義時に誓い、幕府軍が上洛した後、鎌倉に残った義村ら三浦勢で義時を討つように勧めます。急ぎ軍議をしてください」と答えた(慈光寺本『承久記』)。
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うーむ。
慈光寺本『承久記』を引用するにしても、例えば「軍記物語であるから創作的要素は含まれているだろうが」といった留保があればよいと思いますが、高橋氏は「義村が胤義の子三人を殺して異心なきことを義時に誓い、幕府軍が上洛した後、鎌倉に残った義村ら三浦勢で義時を討つように勧めます」という具合いに、丸々慈光寺本を信じ込んでいるかのような書き方ですね。
小説家やエッセイストならともかく、歴史研究者として、この態度はどうなのか。
酒を飲んでの藤原秀康と三浦胤義の密談は古活字本にも出てきますが、既に紹介済みの詳細な手紙の文面は慈光寺本だけに出て来る話です。
慈光寺本の作者はいったいどこからこの文面を入手したのか、といった疑問は、高橋氏の頭の中には浮かんで来ないのでしょうか。
まあ、一般常識があれば、少なくとも胤義の手紙は、慈光寺本の作者がストーリーにリアリティを出すために創作したものと考えると思いますが、それは高橋氏にとって常識ではないのでしょうか。
さて、少し後で、高橋氏は、

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【前略】後鳥羽上皇の義時追討の命令が下された対象として慈光寺本『承久記』が記載しているのは、武田・小笠原・小山・宇都宮・中間(未詳)・足利氏と三浦義村、さらに北条時房である。時房の名がみえることは、後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあったことを物語っていよう。ただし、古活字本『承久記』には時房や足利義氏・中間五郎の名はみえず、千葉・葛西が加わっている。
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と書かれていて(p103)、北条時房の名が慈光寺本にしか出て来ないことを充分承知した上で、「後鳥羽上皇の挙兵の目的が、幕府打倒や北条氏打倒でもなく、義時一人の排除にあった」とされる訳ですが、「義時一人の排除」で後鳥羽は満足、という純度100%の義時追討説は、近時有力な義時追討説の中でも意外と珍しい立場のように思われます。
私が2021年に数多くの義時追討説を調べたときには、「義時一人の排除」を超えて、何らかの幕府に対する「コントロール」を必要とすると考える人が多かったですね。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20b70186a2269eaf108c2e6f58a0e302
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3914c11d525267ba7501ed247c806478

ま、結論的に、高橋氏の慈光寺本『承久記』に関連する見解は、客観的な歴史叙述として教科書に載せられるようなレベルの話ではないですね。
私が教科書調査官だったら、こんな愚劣な見解は「検定不合格」です。

高橋秀樹(1964生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%A7%80%E6%A8%B9

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