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慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その1)

2023-01-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

野口実氏は「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要』18号、2005)において、

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 慈光寺本については、早く富倉徳次郎「慈光寺本承久記の意味─承久記の成立─」( 『 国語・ 国文』第一三巻第八号、一九四二年)が、その成立年次を「大体承久の乱の翌年の貞応元年以後貞応二年五月までの約一年間」とする説を提出していたが、これに異論をとなえたのが益田宗「承久記─回顧と展望─」(『国語と国文学』軍記物語特輯号、一九六〇年)である。すなわち、同本に「此君ノ御末ノ様見奉ルニ天照大神正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」とある記事をもって「此君」=土御門院の皇子後嵯峨天皇・皇孫後深草天皇の即位以降の成立と見るべきだとし、また作者を「鎌倉武士の立場」に求めたのである。
 これを批判・克服したのが、杉山次子「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」(『 軍記と語り物」第七号、一九七〇年)である。杉山は「末=すゑ」の用法を検討して益田の上記引用部分に対する解釈を難じた上で、成立の上限を「惟信捕縛」の記事から寛喜二年(一二三〇) 、下限は北条泰時に助命された十六歳の「侍従殿」=藤原範継の没年から仁治元年(一二四〇)としたのである。さらに、杉山は「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」(『日本仏教』第三一二号、一九七一年)において、慈光寺本に三浦氏の記述が詳しいことに着目して作者圏を源実朝室の側近だった源仲兼周辺の一団に求め、また「承久記諸本と吾妻鏡」(『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)では、慈光寺本は『吾妻鏡』とは無関係に、藤原将軍期に成立したと述べている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ac49db44731e38d2798af164b05c3c1

という具合いに杉山次子説を極めて重視されており、慈光寺本が「古態」だという野口氏、そして野口氏の影響を強く受けている長村祥知氏の見解の基礎を支えているのは杉山説ですね。
杉山説が親亀だとすれば、野口説は小亀、長村説は孫亀であり、親亀がコケれば皆コケる、という関係にあります。
そのため、長村説を批判する私としては杉山氏の三つの論文を確認する必要がありましたが、入手に時間がかかりそうだなと思っていたところ、昨日、「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」と「承久記諸本と吾妻鏡」は国会図書館の「個人送信」で読めることに気付き、ざっと目を通してみたところ、杉山論文には鋭い指摘はあるものの、諸本の成立時期に関しては重大な問題を孕んでいるように感じました。
「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」は後日入手することにして、まずは「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」と「承久記諸本と吾妻鏡」の内容を確認し、その問題点を検討したいと思います。
ところで、私は杉山次子氏のお名前も知りませんでしたが、1970年に発表された「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」の末尾に、

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 十五年間育児にかまけて勉学を怠った私に、つたない小論ながらまとめる機会をお与え下され、種々の御教導と御便宜を賜つた方々に厚く御礼を申し上げます。
 豊田武先生 松野純孝先生 辻彦三郎先生 飯倉晴武氏 山田昭全氏 村上光徳氏始め軍記物談話の皆さま お茶水大学研究室図書館の皆様
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とあり、お茶大の卒業生で、1930年生まれくらいの方でしょうか。
ま、それはともかく、まず「慈光寺本承久記成立私考(一)─四部合戦状本として─」の構成を見ると、

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(一)諸説と批判
(二)成立年代の推定
(三)他書との交渉─四部合戦状本として─
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となっています。
そして、1970年時点での杉山氏の問題意識を確認するため、「(一)諸説と批判」の冒頭を少し引用すると、

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 承久記の異本として彰考館所蔵の慈光寺本は、早く後藤丹治氏に紹介されてから冨倉徳次郎氏、村上光徳氏の成立論展開があり、原慈光寺本(以下慈光寺本承久記を慈光寺本と略称、流布本、前田本も同様「承久記」を略す)成立を貞応元年から二年五月迄の間に、現存本は寛喜以後の加筆説がほぼ定説であった。しかるに昭和三五年に益田宗氏の南北朝頃の他の承久記とは違う作品であろうとする見解が現われ、「四部合戦状の第四番闘諍」にあてようとする冨倉氏の説は敢無く潰えてしまったように見える。益田氏は承久記の引用する六代勝事記を鎌倉末期の書と見られたのであるが、近年平田俊春氏の精密な駁論によって、六代勝事記の貞応二年説は再確定したから、他の論点である土御門院に関する記述の、
 此君ノ御末ノ様見奉ニ、天照大神正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン
の「御末」を「子孫」と見、前田本や承久兵乱記が土御門院の御子孫の皇位継承者となる必然を揚げたものと同様だとされる見解について、再考してみたい。
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ということで(p72)、半世紀前の学説の状況はこんなものだった訳ですね。
続く「御末」についての益田説批判の論証は見事です。

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