慈光寺本を歴史研究者がどのように評価しているかをもう少し見ておくと、細川重男氏は『頼朝の武士団』(朝日新書、2021)において、「義時と対面した忠綱は、後鳥羽院の寵姫である白拍子(アイドル歌手)亀菊(伊賀局)の所領、摂津国長江荘・倉橋荘の地頭改易を命ずる院宣を突きつけたのであった。長江荘の地頭は義時自身であった(慈光寺本『承久記』)」とされていますね。(p330)
また、高橋秀樹氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、
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後白河法皇と源頼朝の時代から、朝廷が幕府に求めていたものは、朝廷の求めに応じて治安を維持し、費用の調進を請け負ってくれる、都合のいい存在としての幕府だった。院が地頭の停廃を要求しても、それを聞き入れてくれなければ、朝廷主導とはいいがたい。頼朝時代には、ほとんどの場合、地頭停廃要求は聞き入れられていた。
ところが、後鳥羽上皇が寵愛する舞女亀菊に与えた摂津国長江荘の地頭停止を義時に要求したところ、義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ。慈光寺本『承久記』はこのことが承久の乱のきっかけだったと記している。古活字本『承久記』は義時が地頭だったとは記していないが、亀菊に与えた摂津国長江・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭停止を義時が拒んだことを理由としている点は同じである。【後略】
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とされていて(p99)、「義時自身が地頭だったことから、これを拒んだ」と義時を地頭と断定しているような書き方でありながら、読みようによっては単に史料を紹介しているだけのようにも受け取れる微妙な書き方ですね。
坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)の場合、慈光寺本にも言及しつつ、義時とは断定しておらず、少し意外でした。
坂井著のこの点について、以前、何か書いたような微かな記憶があったので、自分のブログを検索してみたところ、2020年6月10日の投稿「慈光寺本『承久記』を読む。(その2)」において、私は、坂井著の、
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表向きは三寅が将軍予定者、北条政子が尼将軍として幕府を代表している。しかし、後鳥羽が鎌倉に送った弔問使藤原忠綱は、実朝の生母である政子に弔意を伝えた後、義時の邸宅を訪れて長江・倉橋両荘の地頭改補要求を突き付けた。実質的に幕府を動かしているのは義時だと、後鳥羽が認識していたことの表れである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/760ff0a9c4f366773d7be8bae1414821
という記述(p135)を引用しつつ、
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なお、長江庄は「故右大将家より大夫殿の給はりてまします所」、即ち源頼朝から北条義時が地頭職を得た荘園ですが、坂井孝一氏の『承久の乱』では、【中略】とあって、問題の荘園の地頭が北条義時であることに触れていません。
直接の当事者が義時なのだから、義時を相手にするのは当たり前、とも言える訳で、坂井氏の書き方は自分の立論に不利な要素を意図的に排除しているような感じがします。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6596f9364d5ed04b9b546d542014a272
などと坂井氏を批判しており、これを見たときは、思わず頭を抱えたくなりました。
ま、他人に指摘されるよりは自分で発見できたのが不幸中の幸いでしたが、2020年6月の私が何で長江荘の地頭が北条義時だと思っていたかというと、どう考えても特に深い理由はなく、みんながそう言っているから、程度の認識でしたね。
ということで、「歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?」などと他人を批判していたら、めぐりめぐって過去の自分自身を批判するというコントのような展開になってしまいました。
ただ、二年半前の私と今の私は、慈光寺本『承久記』の成立年代について、現時点で国文学の研究をリードし、歴史研究者に影響を与えているらしい日下力氏について、その方法論的限界を確認している点で、大きな違いがあります。
歴史学と国文学の狭間で、国文学が主に扱っている史料について、歴史学の立場からどのように利用できるのか、その際には何に注意したらよいのかを考え続けてきた私にとって、日下氏の『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)は、軍記物語の研究者でもこの程度の認識なのか、と落胆させるレベルの本でした。
「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1c8071a1e7f7a7ba567218ff7d624f5
そのため、まだ『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)を見てもいませんが、おそらく日下氏の慈光寺本の成立年代論は多くの欠陥を抱えているだろうと私は予測します。
ま、その予測ははずれるかもしれませんが、日下説の論拠は丁寧に整理するつもりなので、従来、漠然と慈光寺本が古態であるから信頼できそうと思っていた歴史研究者の方々にも、それなりの判断材料を提供できるものと思います。
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