学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その3)

2023-01-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本の特徴の一つに山田重忠(慈光寺本では「重定」)の活躍があります。

山田重忠(?-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%BF%A0

野口実氏の「承久の乱の概要と評価」(野口編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』、戎光祥出版、2019)には、「幕府東海道軍の先鋒が尾張国府(愛知県稲沢市)に至ったことを聞きつけた山田重忠が大将軍の藤原秀澄に、全軍を結集して洲俣から長良川・木曽川(尾張川)を打ち渡って尾張国府に押し寄せるべしとの献策を行った」経緯が簡潔にまとめられていますが、少ない戦力を分散させて個別に撃破されてしまった藤原秀澄案に比べれば、実現可能性はともかく、戦略としては山田重忠案の方が優れているのかもしれません。

慈光寺本『承久記』を読む。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26f779297c2163cdb0576f9070a37cb1
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3914c11d525267ba7501ed247c806478
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4893cecdbe17efd08552b2c196e1a35

この山田重忠案と比較してみると、三浦胤義の三人の子の首を北条義時の前で斬って義時を油断させ、多くの御家人が京都に向かう中、義村だけは鎌倉に残してもらって義時を討つ、という三浦胤義案はどうなのか。
古活字本の最後の方に描かれた胤義の子供の運命を考えると、胤義が幕府を裏切ったという一報が鎌倉に届いた時点で胤義の子供は斬罪と決定され、仮に義村が胤義の三人の子の首を斬ったとしても、当たり前のことを当たり前にやっただけ、と評価される可能性は高そうです。
また、仮に義時が胤義の策略に乗って、よくやってくれた、さすがは義村殿は信頼できる、と思ったとしても、では大将軍をお任せするから存分に活躍して下さい、と言われる可能性も高そうです。
まあ、山田重忠案に比べても、胤義案は余りに粗雑な、芝居がかった、ちょっと莫迦っぽい義時追討案ですね。
胤義はそこまで浅はかな人間だったのか。
ま、そんなことはおよそありえず、胤義は慈光寺本に記されているような奇妙な文章ではなく、熟考の上、義村を説得できそうなきちんとした手紙を義村に送ったものと私は想像します。
さて、慈光寺本では、三浦胤義が浅はかな猿知恵に満ちた「以前ノ詞、少〔すこし〕モ違ハズ、文委〔くはし〕ク書」いた手紙を使者に持たせて「兄ノ駿河守ノ許ヘゾ下シ」た後、「又十善〔じふぜん〕ノ君ノ宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「秀康、是ヲ承〔うけたまは〕レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺遣〔スカシやる〕ベシ」トゾ仰下〔おほせくだ〕サル。秀康宣旨ヲ蒙〔かうぶり〕テ、按察使中納言光親卿ゾ書下サレケル」として、長村祥知氏が本物と断ずる院宣が紹介されています。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

この部分、八人宛てに院宣を送ったとしながら「両三人」とあるのがちょっと理解しがたいのですが、『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)の脚注には、

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「両」は朱補入。「両三人」は時房・義村をさすか。とすると「武蔵前司義氏」の次に脱文あるか。
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とあります。(p323)
しかし、これだけ好意的に解したとしても、何だかよく分らない話ですね。
また、古活字本では、

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東国ヘハ院宣ヲ可被下トテ、按察前中納言光親卿奉テ、七通ゾ被書ケル。左京権大夫義時朝敵タリ、早ク追討セラルベシ、ケンジヤウ、請ニヨルベキ趣也。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西ニゾ被下ケル。
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とあり(p380)、「七通」の宛先はいずれも名の知れた有力御家人です。
しかし、慈光寺本では「武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村」の八人で、両者を比較すると、慈光寺本では千葉・葛西がない代わりに足利義氏・北条時房が入っています。
そして、一番不思議なのは「中間五郎」ですが、これはいったい誰なのか。
岩波・新日本古典文学大系の脚注には「中間五郎」について「豊前国下毛郡の中間氏の人か」とありますが(p323)、西国の人では不自然な上、およそ他の有力御家人と並置されるような存在ではなく、そんな人に院宣を送っても全く何の効果も期待できそうにありません。
長村祥知氏は「中間五郎」を長沼宗政に比定されていますが(『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』、p113等)、確かに「ナカマ」「ナガヌマ」で音は通じるものの、同時代史料で「長沼」を「中間」と書くような例が他にあるのか。

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