日本の医学系大学院でもあまり興味がないようですが、キリスト教国、特にイギリス、フランスの中世期から現代に存続している大学では未だに宗教心理学に基づいた心理療法の研究は盛んなようです。特にウイーン辺りのセラピストのクライエントは現代でも一神教の信徒の精神病は多神教よりも多いと言われています。一概には断言できませんが一神教の患者さんの方が精神作用として<all or nothing>的な傾向があります。厳しい倫理・道徳から自分を裁く深い悩みと身体症状が散見されます。光と影が強いのはそれだけに真理性が高いのかもしれません。さて私の長年の心理療法上の信念は聖パウロの言葉<人の身体は神の神殿>です。つまりどんな患者さんの場合でも、病理論の話ですが、その医学的、心理的な治療目標上の回答は医者やセラピストの側に存在しているのではなく、必ず患者さん(クライエント)の深層心理、身体、魂の中に存在している、という確信です。ですからセラピストは患者(クライエント)との共同作業としてのセラピーをする事が重要だ、という考え方で仕事をしてきました。この手法を用いながら生き甲斐とは何か、その答えを生き甲斐探索をしている人の深層心理から発見しよう、という方針でこの講座を展開しています。答えは私の方にはありません。生き甲斐を探索している人の心の奥深い中から、現代心理療法の理論を応用しつつ、共同作業をしながら、答えを見つけましょう、という方針がこの講座の特色です。
<困った時の神頼み>で昨夜は久しぶりで夜のクリスマスイブのミサにあずかりました。アフリカ等をオートバイで走り回った知人が病で倒れたり、若い少年の交通事故から立ち直った両親が洗礼を受ける今夜のミサを、神様と自問自答したくなったからでしょう。台湾生まれの私は寒い夜は苦手ですが、神様と自問自答したい情熱の方が強かったに違いありません。人間の悲劇、哀しみを、直接神様に文句を思い切り、言いました。一夜、あけた今、昨夜の自問自答を振り返り、咀嚼すると、その神様との自問自答は実に美しく甘く切ない楽の音に合わせたようなミサ祭典でした。私の不安感も、最後は全知全能の神様に委ねざるを得ない自分を知りました。人間の力では、どうにもならない事が地上には多すぎます。私の不安、怒り、憂鬱な事、これら全てのストレスを誰かに一度安心して委ねてしまいたい想いがありましたが、何か、逃避してしまうようで、嫌でしたが、クリスマスイブのミサの中でなら、いいか、神様になら、いいか、思い切って一度委ねてしまえ、と委ねてしまいました。結果として、楽になって、またやるぞ、と勇気がわいてきた自分を知り、卑怯にも神様に全てを委ねた自分を褒めてあげる事にしました。問題から逃避する、という事ではなく、1時間のミサの間だだけでも、全てを誰かに委ねたこの安心感、平安感、幸福感の明るい感情は、自分の力では得られないものだなあ、としみじみ感謝しながら寒い寒い苦手の夜のミサに感謝しました。どんなに努力しても得られない感情がクリスマスイブのミサで得られました。これぞ、神に感謝です。自分の心を神様につなげて生き抜く知恵はどこから生まれるのかなあーーー。