風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

マリア・ジョアン・ピリス ピアノリサイタル @サントリーホール(11月29日)

2022-12-01 18:44:30 | クラシック音楽




2018年の引退公演以来、4年半ぶりのピリス。
彼女自身は割とすぐに活動を再開していたけれど日本まで来てくれそうな気配はなく、活動はヨーロッパ限定なのかしら…と悲しく思っていたので、今回のアジアツアー(韓国→日本→台湾)は本当に嬉しい。
おかえりなさい&戻ってきてくれてありがとう〜~~

【シューベルト:ピアノソナタ第13番 イ長調 Op.120 D 664】

彼女の演奏には恣意的な表現はない。楽譜から作曲家の言葉を丁寧に読み取り、作曲家との対話の中で彼女はありのままの自分自身を語り、真摯に作品に対峙する。彼女の音楽の構築はすぐれて理知的であるが、同時に、その流れは実に自然であり、精妙なフレージングも大きな魅力である。なかでも、彼女の演奏の要となっているのは、息遣いの繊細さであろう。研ぎ澄まされた感性と細やかな音楽の呼吸を通して、作曲家の内奥に深く分け入り、多彩な情感をデリケートに描き分けていく。ピリスは、その音の一つひとつに鮮やかな息吹を注ぎ込む。彼女は、演奏の一回性に信念をもっているという。このようなピリス特有の表現は、シューベルト演奏にも通じる。彼女が自ら語っているように、「内省的な思索」は彼女のシューベルトにおける真骨頂である。
(公演プログラムより。道下京子)

公演プログラムのこの言葉、本当にそのとおりだと思う。
前回のリサイタル以降色々なピアニストでシューベルトを聴いてきて、そのどれもが素晴らしい演奏だったけれど、一方でピリスのシューベルトだけがもつ唯一無二の音も懐かしく感じていたこの数年間でした。もう一度聴きたいと強く思っていたので、今回聴くことができて本当に嬉しかった。
ピアニストの色を感じさせない。でも温かな体温は感じる。ただそれだけのことがどれほど貴重か、彼女の演奏の真の魅力&他に代わりのいない個性というものを今夜も改めて感じました。
その繊細な演奏は考え抜かれた末のもののはずなのに、作為的なものを全く感じさせない、今そこで生まれたような自然な音楽の流れ。そのさりげなさが、シューベルトの音楽に凄く合っている。
この13番のソナタ。全楽章素晴らしかったけど、例えば三楽章のこの動画の0:15のドソーシラーのようなフレーズの繊細かつ”自然”な息遣いなどはピリスの真骨頂だと思う(他のピアニストだと作為的になりやすい部分)。
今回もピアノはYAMAHA。前回の引退公演と同じものかどうかはわからないけれど、このメーカーの素朴で親密な音色はシューベルトにとても合っているように思う。温かで繊細なピリスの演奏と相まって、まるでシューベルティアーデにいる錯覚を覚えました。今回の演奏会は録音録画がされていなかったので、その時間と音楽をその場にいる人だけで分かち合う親密さも、シューベルティアーデ感を高めてくれていました。
そして何よりピリス自身が、前回の公演時と比べて、吹っ切れたような自由さを感じさせて、纏う空気も音もとても良い。あの引退は彼女にとって必要なことだったのだなと、今夜の姿を見ていて感じました。

【ドビュッシー:ベルガマスク組曲】
公演プログラムによると、ドビュッシーはこれまでの彼女のレパートリーにはなかったけれど、彼女がいま最も演奏してみたい作曲家の一人なのだそう。
ピリスとドビュッシーの組み合わせは、思っていたより悪くないというか、意外に合っているように感じました。
ドビュッシーの作品の自然さが、やはり客観的で自然体のピリスの個性と合っている。ピリスらしく温かみのある音色のドビュッシーだったけれど、これはこれで良い。特にメヌエットと月の光が良かったです。
ただYAMAHAのピアノと澄んだ色彩感が欲しいドビュッシーとの相性はイマヒトツだったような

(20分間の休憩)

【シューベルト:ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D 960】
ピリスが舞台に出てきて椅子に座るか座らないかのとき、スマホなのかなんなのか?笑っちゃうほどの大きさで客席後方から朗々と響きわたる音楽。
おや?と少し首を傾げながらも、音が消えるのを待たずに弾き始めるピリス。こういう意外に神経質じゃないところ、ラテンの国の人だなと感じる。シフやツィメさんだったら絶対に弾かないだろうな笑(音を鳴らした奴は死んでよし)。
さて、21番。ピリスの個性には前半の13番のが合っているように思うけれど、個人的に、二楽章がとんでもなく良かった。今まで聴いたこの曲の二楽章の中で一番かもしれない。好みの問題ですが、この楽章、等身大の若いシューベルトが暗い道を一人でとぼとぼと歩いているような演奏が好きなんです。冒頭の左手から右手へ繋がるドのオクターブの4音のところ(シフがオスティナートと呼んでいた部分)、ピリスは音を長引かせないんですよね。ツィメさんもそう。この弾き方、孤独なとぼとぼ感が感じられて好きなんです。同動画の0:57~の自然な呼吸の変化も、まさにピリス。今夜の演奏でも泣きそうになってしまった。その後の顔を上げて歩いていこうとするような、あるいは天からの光を見上げているような長調の部分も、ピリスの演奏からは今まで聞いた中で一番等身大の青年の姿が見えました。
一方、4楽章の主題のところは滑らかに流れるように演奏されていて、あまり好みではなかったかも(子供が遊んでいるようなリヒテルのような演奏が好きなので)。また四楽章の和声の強音は、今夜のピリスはだいぶきつそうに演奏していましたね。こういう不安定さは2018年の引退公演でも感じられた部分で、手が小さく体重も軽いピリスには難しい演奏なのだろうな、と。
当時インタビューで引退理由の一つとして語っていた「自分の手はとても小さく、歳をとるに従いピアノという楽器との違和感が増してきている」というのはきっと本当だったのだろうと、今夜の21番を聴きながら感じました(今回の公演プログラムでは引退理由は「ヨーロッパのマネージャーとの不和」とのみ書かれてあったけれど)。今夜も、それらをカバーするために懸命に全体重をかけて弾いているのが近くで見ていてよくわかりました。78歳のいま、若い頃と同じようには弾けていないことは彼女自身がよくわかっているはずで、それでもこの曲を弾きたかったのだろうな、と。ただ先ほども書いたように、今夜の彼女自身はとても安定してリラックスいるように見えました。そして作為を感じさせない自然で誠実な彼女の演奏は21番でも変わらず、「ピリスからしか聴かせてもらえないシューベルト」を聴かせてくれたのでした。
たびたびこの言葉を引用してしまうけれど、ハイティンクがペライアの演奏に対して言っていた「彼の演奏を聴いていると人生は悪くないと感じる」という言葉を、今夜のピリスでも感じました。そういえばピリスもハイティンクの指揮で協奏曲を演奏していたな…。

【ドビュッシー:2つのアラベスク第1番 ホ長調(アンコール)】
このアンコールも、とてもいい演奏だった。
本音を言えば引退公演のアンコールで弾いてくれたシューベルトのD.946-2を聴きたかったのだけれど(素晴らしい演奏だったんです)、今夜のアンコールは彼女が今ドビュッシーを弾きたいと思っていることが、ドビュッシーを弾く喜びが強く伝わってくる演奏で、爽やかで温かな気持ちにさせてもらえたのでした。
そういえば今夜弾かれた2曲のドビュッシーのどちらからも、日本の音楽の響きを感じたな。ドビュッシーが日本の美術を愛好していたことは有名だけれど、彼は日本の音楽を聴いたことがあったのか、ただの偶然なのか。いずれにしても、ドビュッシーの感覚って日本人の感覚と通じるものがあるのだろうな、と改めて感じたのでした。

会場中からの温かな沢山の拍手を受けて、ピリス、とても嬉しそうだった
またぜひ日本に来てね~!!!

※”手の小ささ”で思い出したけれど、ピリス、「バレンボイム・マーネ・スタインウェイ」を弾かせてもらったらどうだろうか。鍵盤の重さはわからないけど、バレンボイムの手に合わせて既存のグランドピアノより鍵盤の幅が狭く作られているそうだし。まだ量産されていないのかしら。ていうか、バレンボイムも手が小さいのだろうか。アシュケナージやデラローチャは手が小さいピアニストで有名だそうだけど。と思ってググってみたら、「20 Famous Small-Handed Pianists」というリストが。なんと、ギレリスやペライアもsmall handsで有名だとは。全然知らなかったし、全くそうは感じさせない演奏ですね。ペライア、お元気かなぁ……。

※自分用覚書。これまでに聴いたシューベルトのピアノソナタ。
2番(レオンスカヤ)、4番(光子さん)、7番(光子さん)、11番(レオンスカヤ)、13番(レオンスカヤ、ピリス)、14番(光子さん)、15番(光子さん)、16番(レオンスカヤ)、20番(ツィメルマン、シフ、ヴォロドス、光子さん)、21番(ツィメルマン、シフ、レオンスカヤ、ヴォロドス、光子さん、ピリス)










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