風薫る道

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NHK「映像の世紀バタフライエフェクト 『戦争の中の芸術家』」

2023-05-03 00:46:39 | クラシック音楽




バレンさんの記事
へのアクセス数が最近増えているので「バレンさんの身にまさか何か…」と恐る恐るtwitterで検索してみたところ、NHK『映像の世紀バタフライエフェクト』の「戦争の中の芸術家」の回でバレンさんの映像が流れたそうで。
早速見てみました。
いやぁ、、、相変わらずこの番組は貴重な映像が盛りだくさんですね
バレンさんがエルサレムでワーグナーを演奏したときのエピソードは知っていましたが、その映像が残っていたことは初めて知りました。
番組の担当ディレクターによると、「ストーリー構成に悩んでいた最中、膨大な映像の中からバレンボイムの演奏を発見した時に、戦争の中を生きた芸術家たちの物語が一本に繋がりました」とのこと。

番組では第二次大戦前後のドイツやソビエトが今のロシアの状況と重ねられていて、ゲルギエフについても触れられていました。
この番組の押しつけがましくない客観的な距離感が好きだな。
この回で紹介された1942年ヒトラーの誕生日前夜の祝賀演奏会で演奏されたフルトヴェングラー指揮の第九の映像が、「ジェノサイド 虐殺と黙殺」の回の冒頭でも使用されていて、そういうバランス感覚も好ましく感じられます。

ベルリンフィルがヒトラーからあれほどの例外的扱いを受けていたことも、初めて知りました。
映像の中で流れていたフルトヴェングラーが指揮するワーグナー「マイスタージンガー」と、トスカニーニが指揮するヴェルディ「運命の力」。
これらの音楽をこれほどの重みをもって聴いたのは、今回が初めてでした。

以下、番組より。

(イタリア出身の指揮者トスカニーニは、ムッソリーニを嫌い、ファシズム政権下では演奏をしないと宣言していた。1937年、オーストリアの音楽祭で顔を合わせたフルトヴェングラーとトスカニーニは、激しい口論になった)

トスカニーニ:
今の世界情勢下で奴隷化された国と自由な国の両方で同時に指揮をすることは、芸術家にとって許されることではありません。


フルトヴェングラー:
音楽は、ゲシュタポも手出しできない自由な広野へと人間を連れ出してくれるのです。私が偉大な音楽を演奏する。それがたまたまヒトラーの支配する国で行われたからといって、私がヒトラーの代弁者だということになるのでしょうか。


トスカニーニ:
第三帝国で指揮をする者は、すべてナチです!


フルトヴェングラー:
では芸術は、たまたま政権を握った政府のための宣伝にすぎないというのですか。絶対に違います。芸術は政治とは別の世界に存在するのです。


・・・・・

ナチスを批判し亡命した作家トーマス・マン:
フルトヴェングラーの悲劇的な無知。彼はナチズムの本質を把握できない無能だ。フルトヴェングラーは演奏家としての生活を純粋に保つこと以外は何も考えていない。


・・・・・

(フルトヴェングラーは友人達から何度も亡命を勧められたが、ドイツに留まり続けた。軍需工場や軍人の慰問演奏会などを務め続ける限り、ベルリンフィルの楽団員は徴兵を免除されていた)

フルトヴェングラー:
亡命しようと思えばできただろう。そうすれば、国外からナチスを批判することもできただろう。しかし私の使命はドイツ音楽を生き延びさせることだと考えた。ドイツの演奏家たちとドイツ人のためにドイツ音楽を演奏し続けること。これを前にしては演奏がナチスの宣伝に使われるかもしれないという懸念は後退していった。

・・・・・

(戦時中ドイツで演奏を続けたことを振り返って)

フルトヴェングラー:
あのような時期に立ち去ることは、恥知らずな逃亡でありました。所詮私はドイツ人なのです。およそナチスのテロのもとで生きていかねばならなかったドイツ人ほどベートーヴェンによる自由と人間愛の福音を必要とし、待ち焦がれた人々はいなかったでしょう。外国でどう考えられようと、私は自分がドイツ国民のためにしたことを悔やんでいません。


・・・・・

(一方、ソビエト連邦ではスターリンが「形式において民族的、内容において社会主義的」を標榜する社会主義リアリズムを掲げ、労働者達が楽しめないような難解な表現や前衛的な芸術を志す者は排斥の対象となった)

ショスタコーヴィチ:
(交響曲第七番「レニングラード」に込めた意味を友人に語り)ファシズムは単にナチズムを意味するのではありません。この音楽は、恐怖、屈辱、魂の束縛を語っているのです。交響曲第七番はナチズムだけでなく、今のソビエトの体制を含むファシズムを描いたのです。


(1953年スターリン死去)
ショスタコーヴィチ:
いったい我々ソビエトの芸術家は自分の芸術をソビエトの社会体制から疎外することができるだろうか。我々はすべて時代の子にほかならず、それと切っても切れない関係をもっている。国家の運命が常に自分自身の運命でもあるというのが、ソビエト芸術家の最も重要な特徴である。

・・・・・

(ユダヤ人のバレンボイムは、11歳の時にフルトヴェングラーに才能を認められ、世界に羽ばたいた。それ以来、フルトヴェングラーを師と仰いだ。2001年、イスラエルでのシュターツカペレベルリンの演奏会で、バレンボイムは予定されていたプログラムを演奏後、アンコールとしてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の演奏を聴衆に提案した。ワーグナーがユダヤ人に対して差別的思想をもっていたこと、そしてヒトラーがナチスの宣伝にワーグナーの音楽を利用したことから、ワーグナーの音楽はイスラエルではタブー視されている)

バレンボイム:
演奏するかどうかを決めるのは皆さんです。ここにワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の楽譜があります。


観客:
おいバレンボイム!ワーグナーを裏口から入れるのと同じだぞ!こんなやり方は不当だ。


バレンボイム:
この中に聴きたくないという方がいらしたら、静かに立ち去ります。


観客:
ダメ!そんなことをしたら、少数に屈することになる!

演奏に反対する観客:
お前はファシストだ!

演奏に賛成する観客:
私に聴かないことを強制するのか!プログラムは終わったんだから出ていけよ!


(演奏を認めるか否か、30分にわたって観客同士の議論が続いた。結局反対派は会場を去り演奏は決行されることとなったが、演奏中も客席から「ダメ!」という声が上がる)

後日、バレンボイム:
ワーグナーの音楽を聴いておぞましい連想をする人もいるでしょう。そうした人々に聴くことを勧めるべきではありません。それは当然のことです。しかしおぞましい連想をする人たちは、他の人々から音楽を聴く機会を奪う権利があるのでしょうか。私はそうは思いません。私はただ心から音楽を演奏するために来ました。




Staatskapelle Berlin / Daniel Barenboim Jerusalem 2001 Tristan und Isolde
2001年のエルサレムの演奏会の「トリスタンとイゾルデ」の演奏部分。演奏後には盛大なブラヴォーの声も上がっていますね。
wikipediaによると「45分近く続いた話し合いの後、コンサートホールにいた3000人近い聴衆の中で、出て行ったのは20人ほど、ヤジを飛ばしたのは5人程度で、残りは演奏を聴くためホールに残った」とのこと。
イスラエルといってもすべてがユダヤ人なわけではないけれど、この街の人口比率からするとホールにいた聴衆はやはりユダヤ人が多かったはず。当たり前だけれど、政治的意見は本当に人それぞれなのだなと今更ながら感じます。

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