風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

夏目漱石 『虞美人草』

2014-04-02 23:33:05 | 



古い京をいやが上に寂びよと降る糠雨が、赤い腹を空に見せて衝いと行く乙鳥(つばくら)の背に応えるほど繁くなったとき、下京も上京もしめやかに濡れて、三十六峰の翠りの底に、音は友禅の紅を溶いて、菜の花に注ぐ流のみである。「御前(おまえ)川上、わしゃ川下で……」と芹を洗う門口に、眉をかくす手拭の重きを脱げば、「大文字」が見える。「松虫」も「鈴虫」も幾代の春を苔蒸して、鶯の鳴くべき藪に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀たれた。綱が捥ぎとった腕の行末は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。

(夏目漱石 『虞美人草』)

漱石の職業作家としてのデビュー作にして偉大なる失敗作、『虞美人草』。
あまりにも装飾過多な文体に、力任せとしか言いようのないラストの収束。色々とメチャクチャ、笑。
そして吾輩な猫を未練なく殺してしまうように、ヒロインもさくっと殺してしまう漱石先生でありました。


「君は本当の母でないから僕が僻んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」

ここの甲野さんと宗近君の会話、好き^^
甲野さんの話し方が好き。
親友同士なのに「さん」付けで呼び合っているところも好き。


「こう云う危うい時に、生れつきを敲き直して置かないと、生涯不安で仕舞うよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮だけで生きている人間は、土だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。(中略)僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存(げんそん)していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」

ラスト数ページで突如京極堂(キャラ的に榎さんか?)のような大活躍をみせた宗近君。
しかし小野さんは救えても、藤尾を救うことはできませんでした。てか救う気も大してなさそう^^;
最後は外交官になって倫敦へ。

漱石自身が後に“芸術的失敗”と呼び書棚から消してしまいたいとまで言った本作ですが、私は嫌いじゃないです。
というか漱石の作品で嫌いなものは一つもないのです。

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