昨夜は、夜桜能に行ってきました。といっても雨天のため会場は新宿文化センターに変更でございましたが・・・。名前から想像していたよりはきちんとした会場で、立派な桜が舞台左右に置かれていました。こちら↑は舞台右側の桜。
しかしこれほど観ていてストレスの溜まった公演は初めてでした。。。
ジャンパーを着た運営スタッフの人たち(バイトくん?)のマナーが酷すぎ。。。
後方のお席(五千円也)でしたが、お能の最中にパタパタと通常の足音で歩き回る、普通の大きさの声で話す、幾度も出入りしてその度に扉を思い切りバタンッと閉める・・・。
歌舞伎座のスタッフさん達がいかにマナーが宜しいかを痛感いたしました。
まぁそれはいいとして(よくないけど)。
今回改めて感じたのは、やっぱり能というのは屋外の芸能なのだなぁ、ということ。
そもそもお能を観たのは人生2度目で、1度目は昨年秋の鎌倉薪能。
そのときに強く感じたのが、自然が能舞台にいかに大きな効果をもたらすかということでした。
風や木々のざわめき、薪のはぜる音、それ自体が極上の音楽で。
同時に、ほんの時折聞こえる車のエンジン音など現代の人工音がいかに美しくない音であるかを実感させられました。
同じ人工音でも、鼓や笛は自然の音と対立しません。どころか、まるで自然の一部のように感じられました。鼓や笛と自然の音のアンサンブルの素晴らしかったこと――。
照明もまた同様で、絶えず色と姿を変える薪の炎の美しさ。対する、人工のライティングの風情のなさ。
私達は文明の発達とともに、自分たちが思っている以上に貴重なものを失ってしまったのだなぁ、と感じたものです。
今回は屋内会場でしたので、そういう自然からの効果が当然ながら一切ありませんでした。
防音壁による不自然な静けさと無粋な人工音(上の非常識スタッフの音ですよ)の中で、客は座席からじっと舞台を見つめる。
何かが違う違和感。
歌舞伎でこの違和感を殆ど覚えないのは、歌舞伎が元々芝居小屋で行われてきた屋内の芸能だからではないかと思います(出雲阿国まで遡れば別ですが)。
でも能は違う。能は自然とともにあることが大前提にある芸能なのだと思います。
花や木や風とともにある。それは能のアイデンティティといっても過言ではないように思うのです。
昨年の薪能で演じられた演目は『高砂』(シテは金春安明さん)でしたが、その地謡の中にこんな詞がありました。
有情(うじょう)非情のその声、みな歌に漏るることなし。草木土砂、風声水音まで、万物の籠もる心あり。春の林の東風に動き、秋の虫の北路に鳴くも、みな和歌の姿ならずや
自然の風を肌で感じ、木々や虫の奏でる声を聴き、薪の炎と月の光に照らされた舞台を観ながら、私は閑吟集の序文を思い出しました。
小歌の作りたる、独り人の物にあらざるや明らけし。風行き雨施すは、天地の小歌なり。流水の淙々たる、落葉の索々たる、万物の小歌なり
人と自然がこんな風に付き合うことが当たり前であった時代の感覚が、今も能の中には息づいているのではないでしょうか。だからそうではない人工的な環境で能を観ると、体が本能的に違和感を覚えてしまうのではないか、と。
前置きが長くなってしまいましたが、昨夜観た『二人静』は大変に美しい演目でした。
後シテは梅若玄祥さん。体格のいい方なので観る前は「ちゃんと二人の静に見えるのかしら…」と不安でしたが笑、見えました!すごい!
玄祥さん、お声が素晴らしいですね~。ちょっと独特で、この世にあらざるモノの凄みを感じました。
シテが橋掛かりで気配なく佇んでいるところ、二人の静が向かい合って立ち尽くすところ、ゾクっとするような空気感だった。そこだけがこの世ではないような、何か無限の静寂のような。
そして、静の面のなんと表情豊かなこと。笑っているようにも、泣いているようにも、怒っているようにも見える不思議な美しさ。私は能に関する知識は皆無ですが、能ってこの面の存在だけでも世界遺産になる理由は十分なのではないかしら。
うーん、つくづく満開の桜の下で観たかった。
★舞囃子 「安宅」
シテ 梅若紀彰
笛 松田弘之 小鼓 大倉源次郎 大鼓 大倉慶乃助
地頭 松山隆之 副地頭 谷本健吾
地謡 川口晃平 土田英貴
★狂言 「蚊相撲」
シテ 野村萬 アド 野村万蔵 アド 野村太一郎
★能 「二人静」
シテ 梅若玄祥 ツレ 角当直隆
ワキ 宝生閑
笛 松田弘之 小鼓 大倉源次郎 大鼓 大倉慶之助
後見 梅若紀彰 山中迓晶
地頭 山崎正道 副地頭 小田切康陽
地謡 谷本健吾 松山隆之 川口晃平 土田英貴