〈中勘助〉。どんな作家ですかと、きかれると、わたしは〈作品〉は無論のことですが、〈人間〉がすばらしいですとこたえることにしていました。言ふだけならどんなことでも言へる活字の世界にひきずられることなく、日々の生活の中でききとられた爽やかな心裏の声を、しぼったうへにもしぼっての氷のやうな文章、だからどんな断章、小節も氷のもっている虹の光彩を秘めもっています。その光彩も晩秋の雑木林の木漏れ日の揺れではなくて、初冬の竹林に見られる葉漏れ日のたゆたひなのです。
〈一年を仕事にいそしまふよりは、一日を浄くしやう〉と、作家、詩人といふよりも、御自分には修道僧のやうにきびしかった八十年に近い生涯をすごされた中せんせ。
(塩田章「中勘助先生のこと」六六・二・二六(土)梅の午后記〉
中勘助がどういう人間であったかは私には知りようはないけれど、その文章に対する私の印象は「暖かで優しい」感じではなく、といって「冷たい」というのともちょっと違う。敢えて言うなら「冷たく優しい」、そんな感じ。
これってどう表現すればいいのだろ~とモヤモヤしていたところ、ああ、この塩田の表現がまさにピッタリ。
氷のような文章、それのもつ虹の光彩、初冬の竹林の葉漏れ日。
キリスト教徒の塩田章と勘助との付き合いは、1939(昭和14)年~1965(昭和40)年までの26年間。
その間の談話を塩田が記した手帳は、先日の中勘助展で展示されていました。
どんな派であらうと、つまりキリスト教でもホウヨウできる仏教が、ホントなんじゃないかとおもふ。…私は空といふことをおもつているんですが…辞書をひきましたら施物も亦空とありましたよ。沢山施物をすればめぐみも沢山あると考へられた仏教に、それはまた大変な考へ方ですね。しかしこれはホントですね。といつても施しをしなくともよいのではないですね。それを知つての上での施しが大事なんですね。キリスト教でも伝道の書なんかで空の空といふことをいひますが、両方にこのやうな思想のあるのがおもしろいです。
(勘助。1954(昭和29)年6月10日)
仏教もキリスト教も包容するなにか。それが言うなれば勘助にとっての宗教であり、言い換えれば真の仏教もキリスト教もそういうものであるべきだ、というのが勘助の意見でした。仏教の呪術的要素を嫌ったのも同様の理由によるのでしょう。
「信者に神仏が大切なやうに不信者には不信が、懐疑者には懐疑が大切なのである」
「信念は危うい。演繹は危うい。主義はうつる。信も不信もいけない。肯定も否定もいけない」
(全集より)
キリストにしても釈迦にしても一隅を照らしたわけで、その光が本物だつたから、一隅だけだつたのに現在まで光つているわけでせう。釈迦など八十迄生きたといふから、どんなにか広いところを沢山あるいたわけだらうが、しれたものですからね。一隅を照らせばいいんですね。
(勘助。1956(昭和31)年2月8日)
そしてこちらは、やはり先日手帳が展示されていた、最後の談話より。この対談の翌日早朝、勘助は激しい頭痛に襲われ入院。意識の戻らぬまま、5月3日、世を去りました。
四月十四、五日と岩波からの招待で、伊豆山(熱海駅から車で二、三分)の岩波の別荘に家内と行つてきました。これはよかつたです。安倍もかりてますが、岩波らしい作りでした。崖の下まで買つてあるらしいので、隣近所に煩はされず各へやから海がみおろせて、たゞ昔は櫓でこぐ舟で、かけ声もきこえたのに、海を通る舟はポンポンセンで、是がつまらないでしたが。庭に中がうつろになつた櫟がありました。建築士が伐りませうといつたら、岩波は伐らせなかつたといふ。そして惜櫟荘とつけたといふ。岩波とはさういふ男ですね。そこを力んでみせるところが岩波らしいです。
(中略)皆さんがお元気だお元気だと言つて下さるが、空元気でだめです。(中略)長く生きやうとおもふとつい欲がでますけどね。ムリをせずに、今のことを今してます。それが好きな読書と習字といふことでせうね。
(勘助。1965(昭和40)年4月29日)
ところで勘助とはあまり関係がありませんが、1937年10月、塩田が召集令状を受け取ったときのことを回想している文章も印象的でした。
奥さんは覚悟していたとはいえショックで、母乳が止まってしまったそうです。
召集の電報をうけてからの時間は、惜しむあとからあっけなく燃えて行った。それは「マッチ売りの少女」が最後に残った一本のマッチのもえきるまでのわずかな時間を惜しむにも似た気持ちだった。
(塩田。1963年に回想)
最後の一本のマッチがもえきるまでの時間という表現はすごくリアルだな、と。
惜しんでいる間もなく、マッチはあっけなく燃えきってしまう。