この作を公にするにあたって、自分はただ以上の事だけを言っておきたい気がする。作の性質だの、作物に対する自己の見識だの主張だのは今述べる必要を認めていない。実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派の作家ではなおさらない。自分はこれらの主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹くほどに、自分の作物が固定した色に染つけられているという自信を持ち得ぬものである。またそんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。そうして自分が自分である以上は、自然派でなかろうが、象徴派でなかろうが、ないしネオのつく浪漫派でなかろうが全く構わないつもりである。
自分はまた自分の作物を新しい新しいと吹聴する事も好まない。今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。
自分はすべて文壇に濫用される空疎な流行語を藉りて自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。手腕が足りなくて自分以下のものができたり、衒気があって自分以上を装うようなものができたりして、読者にすまない結果を齎すのを恐れるだけである。
(夏目漱石 『彼岸過迄に就て』)
好きな作家は山ほどいれど、一番好きな作家はと聞かれたら、私は迷うことなく漱石なのです。
「ただ自分は自分であるという信念を持っている」
胃潰瘍で生死の境を彷徨い、可愛がっていた五女ひな子を亡くし、古くからの弟子達は彼に背を向け去っていったこの時期。
ふんっと顎を上げ、きゅっと唇を引き結んで、向かい風の中をゆく坊ちゃんのような姿を、私は思い浮かべるのです。
淋しさと、それ以上の自負心。
最後まで地から足を離さず、大嫌いなものもいっぱいあるこの世界で、人間というものに向き合い続けた人。
東京大阪を通じて計算すると、吾(わが)朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている。
※写真:先日訪れた、修善寺温泉の桂川。菊花まつりが行われていました。