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特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

夢の跡(前編)

2025-05-12 06:38:12 | 自殺腐乱死体
渋滞を案じた無休GWが終わり、肌に夏の前味が感じられるようになってきた今日この頃。
雨のない土日祝日には、会社近く、江戸川の河川敷グラウンドでは少年野球や草野球の練習や試合が行われている。
で、私は、現場に行き来する車の窓から しばしば その光景を見かける。
そして、
「趣味がある(できる)っていいなぁ・・・」
「スポーツで汗をかくって気持ちよさそうだなぁ・・・」
と、少し羨ましく思う。

元来、私はスポーツへの興味は薄く、縁もない。
かろうじて、中二・中三のときに陸上部に所属していたものの、もちろん、好きでやっていたわけではなく、学校の方針で“帰宅部”は認められなかったため、仕方なくやっていただけ。
他のメンバーも似たようなもので、教師を含めて真剣にやっている者はおらず、個々人も学校も地域で最弱レベルだった。
(ちなみに、中一のときは美術部だったが、中二になるタイミングで廃部になってしまった。)
高校は“帰宅部”、大学はサークルには入らずアルバイト&遊興三昧。
その嗜好は今でも変わらず、オリンピックやワールドカップ等、ビッグイベントもほとんど興味がない。

しいて言えば、プロ野球には興味がある。
生まれて初めて抱いた将来の夢も「プロ野球選手」。
後にも先にも、職業に夢らしい夢を持ったのはその一度だけ。
ま、それも10歳に満たない頃のこと。
現実の冷淡さも知らない男児で、今思えば無邪気な戯言。
小学校の高学年になる頃には、自然と消えていた。
ただ、ウキウキするようなワクワクするような、いい気分だったのは間違いない。
ささやかながら、あの時の自分は輝いていた。

熱狂的なファンではないけど、好きなのは広島カープ。
2016年~2018年、リーグ三連覇したときは気分がかなり揚がり、反面、昨夏の大失速には気分が一気に沈んだ。
応援したくなる要素は色々ある。
設立の経緯、市民球団という組織体、
かつては、「セリーグのお荷物」と言われていた程の弱小球団、
樽で募金を集めて球団を維持した歴史もある貧乏球団、
今でも金満ではなく、何億も稼ぐようなスター選手は雇えず、
活躍する選手はFAで軒並み他球団にさらわれ、逆にFAでやって来る選手はおらず、
また、本拠地は地方の田舎街、他球団ほどの隆盛感はない。
オンボロだった「広島市民球場」(1957年~2008年)もいい味を出していた。
今の球場建設にあたってもドームにはせず(できず?)、市民からも募金が集められたそう。
そんなチームでも、他球団と互角に戦っているわけで、そんなところに親近感というか愛着というか、共感・好感が持てるのである。

これまで、東京ドーム・横浜スタジアム・QVCマリンフィールド(現・ZOZOマリンスタジアム)に行ったことはある(所沢と神宮には行ったことがない)。
あぁ~・・・でも、いつか、マツダスタジアムに行ってカープの試合を観てみたい。
のんびりと、美味いモノを食べたり、ビール飲んだりしながらね。
海外の秘境に行くわけでなし、他人から見れば容易に叶いそうな夢かもしれないけど、私を取り巻く現実を考えると実現性は極めて低い。
悲しいかな、儚く遠い夢である。



出向いた現場は、1Rの賃貸マンション。
そこで不慮の死が発生。
亡くなったのは部屋の居住者、30代前半の男性。
死因は自殺。
暑い季節だったこともあるうえ発見にも時間がかかり、遺体は相応に腐敗。
床を深刻に汚しながら、高濃度の悪臭とウジ・ハエが量産されていた。

依頼者は、マンションの管理会社。
賃貸借契約の連帯保証人は故人の父親。
ただ、特殊清掃や遺品整理を進めるにあたっては、故人や家族のプライベートな部分について、他人(業者)に見られたくないものを見られ、知られなくないことを知られることになる。
また、深い事情を業者に話さなければ事がうまく運ばない局面に遭遇することもある。
そうなると、プライド・世間体・羞恥心・・・そんなものがキズついたり、刺激されたりすることになる。
既に負いきれないほどの悲哀に襲われているのに、更に、心の傷口に自分で塩を塗るようなことにもなりかねない。
であれば、現場とは一定の距離を空けておくのが無難。
そんな事情があってか、父親は、得体の知れない特掃屋である私とは直接的には関わらず。
見積書や契約書のやりとりや、報告・連絡・相談も、すべて管理会社を介して行われた。

汚染も異臭も重症。
しかも、真夏の猛暑で部屋はサウナ状態。
そんな特殊清掃は、慣れたものであってもキツイものはキツイ!
効率よく合理的にやれる自信はあるけど、ツライものはツライ!
ただ、私には、「故人と二人になる」という特異な秘策がある。
同情や悲哀をよそにして、まだ生きているかのような感覚で故人の人生を想うと、無駄な力が抜けて、逆に必要なところに力が入る。
そうしてメンタルが支えられることによって、どんなに悲惨で凄惨な現場であっても過酷さは随分と和らぐのである。


アルバイト応募のために何枚も用意したのだろうか、書き損じたまま放られていた履歴書には、これまで歩いてきた故人の道程があった。
故人は、北陸某県の出身。
高校を卒業し地元の芸術系専門学校を経て上京。
志望動機の欄には、「将来は音楽関係の仕事に就きたいので、そのために一生懸命働きたい」といったことが書かれていた。
それを裏付けるかのように、部屋には、楽器や音楽系の機材、楽譜やCD等、熱心に音楽活動をしていたことを伺わせる物品がたくさんあった。
とはいえ、やはり、それで食べていけていたような形跡はなし。
主な収入源は飲食店でのアルバイトで、乱暴に破られた給与明細書の金額からは、故人が親のスネをかじり続けていたことが伺えた。

部屋には、地元の求人情報、就職ガイドのパンフレット、就職支援のリーフレット等々、就職に関するものもたくさんあった。
ただ、それらは、本人が収集したものではなく、大半は両親が送ってきたもののよう。
一連の情報は紙で集めるよりネットで探した方が合理的なはずだったが、故人は、自らの意志でそれをすることはなかったのだろう。
書類の間に挟まれたメモ、端々に貼られた付箋・・・両親のメッセージからそれがわかった。

言葉を変えながらも、書いてある内容は ほぼ一辺倒。
「音楽の道は諦めて、正規の仕事に就きなさい」
「親の方が先に逝くわけだから、いつまでも面倒みてやることはできない」
「支援に尽力するから、故郷に戻って一からやり直したらどうか」
なだめたりすかしたり、諭したり叱ったり、父親と母親が、それぞれに、それぞれの言葉(文字)で そういった旨のことを綴っていた。
そして、故人が逝っても尚、そこからは、不安、焦り、ジレンマ・・・悩める親心が、涙のように滲み出ていた。

人生は思い通りになることより思い通りにならないことの方が多い。
自分自身でさえ思い通りに生きることができない、ましてや、別の人間(息子)を思い通りに生きさせることなんてできるわけがない。
理屈では、それがわかっていても、欲望ともとれる感情がそれを許さない・・・
両親の中にも大きな葛藤があっただろう・・・
ひょっとしたら、故人が決行してしまった最悪のシナリオも、生前から頭に浮かんでは消え、消えては浮かんでいたかもしれず・・・
そして、「そんなことあってたまるか!」「そんなこと絶対にさせない!」と、必死に、懸命に息子の生きる道を整えてやろうとしていたのかもしれなかった。


故人が上京したのは、おそらく二十歳頃。
行年は30代前半なので、音楽活動をしながらのアルバイト生活は十年余か。
故人は、夢を叶えたかっただろう。
両親は、不本意ではありながらも息子の夢は応援したのだろう。
しかし、「現実」という名の強敵は、誰の人生にもいる。
吉とでるか凶とでるか、やってみないとわからない。
挑戦しなければ成功も失敗もない。
二つを天秤にかけ、心の重心がどちらにかかるか、自分で量るしかない。

ただ、時間は、ときに優しく ときに厳しく、ときに温かく ときに冷たく、人の都合を無視して流れていく。
「〇才までやってダメなら諦める」
“夢の終着点”を自分で定め、また、親子で約束していたのかも。
両親もそれを条件に、息子(故人)の意志を尊重し、できるかぎりのサポートをしていたのかもしれなかった
しかし、“夢追人”が夢を諦めることは容易いことではない。
その時がきても諦めきれず、「もう少し・・・」「もうちょっとだけ・・・」と、ズルズル先延ばしにしてきたのかもしれなかった。
そうして故人は歳を重ね、唯一の味方だった“若さ”も いつの間にかなくなり、もう“若気の至り”では済まされない年齢になっていた。


世間からみたら故人はただのフリーター。
夢を追っていることは、表向きは評価されても本音のところでは評価されにくい。
「半人前」「無謀者」と、世間は冷ややかに傍観する。
そして、「いい歳をしても親の仕送りがないと生活できないダメ人間」と、自分が自分を見下すようになる。
故人は、そんな現状に限界を感じる中で、「生き方を変えよう」ともがき始めていたのかも。
しかし、音楽の道を諦めることができても、次の目的を持つのは簡単なことではない。
音楽以外にやりたい仕事、興味のある仕事があったかどうかは定かではないけど、往々にして、「やりたいこと」と「できること」は異なるもの。
どこかで、妥協や迎合、場合によっては慣れない忍耐を強いられることになる。
それを受け入れることができるかどうか、割り切れるかどうか、開き直れるかどうか・・・
新たな活路を見出せるかどうかはそこにかかっている。

生きるために不本意な仕事をしている人間は世界中にごまんといる(私も代表格の一人?)。
教育された感性や価値観のせいなのか、集団心理の一種なのか、本質的に、それが万民にとって正しい生き方なのかどうかはわからない中で、その様に生きる人間があまりに多すぎるため ほとんどの人は疑問に思うことも違和感を覚えることもない。
しかし、中には、「正常」とされるそんな生き方に疑問を抱き違和感を覚える人・・・勇気と希望を持って、挑戦的に人生を冒険できる人もいる。

故人は、冷たい現実に耐え得る熱量を持つことができなかったのか・・・
返ってくるのは“お祈りメール”ばかりで心が折れてしまったのか・・・
どんな生き方が正常で どんな生き方が異常なのか、どんな生き様が自然で どんな生き様が不自然なのか・・・
ホトホト疲れ、何もかもに嫌気がさすようになり、そんな日々が故人を深い闇に沈めていき、最終的に、「絶望」という名の刺客がトドメを刺したのかもしれなかった。



また別の案件。
付き合いのある不動産会社から、
「自社物件で自殺が発生」
「遺族と協議するので、そこに参画してもらえないか」
といった旨の相談が入った。

悲しみの種類、責任の度合、世間の目・・・自死というのは、多くの意味で“特別”な亡くなり方。
現場の処理は慣れたものながら、遺族との交渉・協議は、単なる孤独死とは一線を画すもの。
画一的な“慣れ”は通用しない。
心情はもちろん、協議に波風が立つことが多く、私は、ちょっと憂鬱な気分に。
ただ、悩ましい案件に挑むときは、開き直ることも必要。
私は、余計なことを考えるのは後回しにして、担当者に「Yes」と返答。

その後、故人の死に表面的な疑問を持ってしまう自分と、“生きる意味”というものをあらためて自問する自分が現れることを、この時の私は知る由もなかった。
つづく


コメント (1)
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