プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★ゼロ金利解除の影響

2006-07-15 09:26:55 | 日記・エッセイ・コラム

 日銀が、14日、ついにゼロ金利解除を決定した。ゼロ金利政策は、バブル崩壊後、低迷した景気回復策として採られた以上、景気が回復すれば解除するのは当然といえば当然のこと。それ自体に驚きはしないが、解除のタイミングと国民生活への影響は、立場によって微妙に異なる。

 政府は、不良債権を抱えた銀行に20兆円の血税を投入し、金融機関を救済した。企業は、リストラによりスリム化を図り筋肉体質になった。が、副産物として、派遣社員やパート等の非正規雇用形態が市民権を得、所得格差が拡大した。一方、不適切なハコモノ行政は、累積赤字を膨張させているし、特別会計に集まったお金の目的外使用は今なお続いている。更には、小刻みな増税が、どんどん進行している。

 これらはすべて、直接・間接的に国民に負担を強いている政策だ。そういった状況下でのゼロ金利解除が意味するものは、低所得者の困窮化以外の何ものでもない。

 銀行の預金利子が100倍になったとしても、預けるお金が無いからローンを組んでいる人には無関係だ。金持ちは益々財産が増え、貧乏人は借金が膨らむ構図だ。住宅等の長期ローンを抱えている人は、金利が1%上がると、桁違いの金額の負担増になる筈だ。(ex,3000万円の35年ローンの場合で600~700万円の負担増とか)

 我々が低利子で銀行に預けたために、金融機関が潤った利益は測り知れない。一説には、5年間で280兆円とも300兆円とも言われる。国民が全員で痛みに耐え、下支えをしたから景気は回復したといえる。政府は、業績が回復した企業に対する法人税の優遇措置を真っ先に解除すべだと思う。次は消費税アップで国民生活を圧迫するのが目に見えているのだから。


★ジダン退場の賛否に思う

2006-07-13 08:19:40 | スポーツ

 サッカーファンならずとも、W杯決勝戦でジダンが退場したシーンを観たら、「何故?」と不思議に思ったに違いない。「退場処分を喰らった選手がどうしてMVPに選ばれたの?」との疑問も頭をかすめた。後の方は、記者投票とのタイムラグが原因とのことだが、暴力行為の真相は依然として不明だ。FIFAが本格的な調査に乗り出すとも報道された。フランスのテレビ取材に応じたジダンの口からは具体的な言葉はなかった。

 一方、暴力行為を受けたマテラッツィは、11日付のイタリア紙の取材に対して、「私は彼に対して尊大な態度を取ったかもしれないが、差別的な発言はしていない」と答えたとか。

 昨日の小ブログで、イタリアの民族間の闘争について述べたが、単一民族の日本人には理解できない奥深い価値観が存在することだけは確かだ。ジダンがアルジェリア移民の息子であることは事実だが、フランスが移民政策を重要視している国であり、上手くバランスをとって成功していることも事実だ。

 ジダンの軽挙は許しがたい行為だとは思う。だが、一旦引退を決意した選手が代表に復活し、決勝戦にまで残った時の心中は、並大抵ではなかったはず。その大切な決戦の場で、暴力行為に及んだ心の怒りに思いを馳せたい。

 新聞社やテレビ局に、「子供にジダンの行為をどう説明したらよいのか?」との問い合わせが多く寄せられているとか。子供に入り口と出口の両方を教えないと気がすまないらしい。それよりも、入り口を教えて、親子で対話するプロセスを大切にした方が、教育上、はるかに建設的だ。暴力行為自体の是非論だけでは片付けられない人種差別問題を学ぶ良い機会だと思うのだが。


★日本サッカーの限界

2006-07-12 09:04:45 | スポーツ

 日本サッカーが強くなることは大歓迎だが、オシム監督候補は、現在のレベルを「W杯に出れるだけでも喜ぶべき」と語った。客観的なレベル評価だし、それを踏まえて強化策を考えて貰えると期待するが、私は楽観視できないと思っている。それは、外国と日本とでは、サッカーに対する考え方が根本的に異なるからだ。

 W杯で優勝したイタリアを3月に旅行した時、現地ガイドは、強さの秘密を「イタリア人にとってサッカーとは民族闘争だ」と説明してくれた。イタリアは、共和国制を採っている。平たく言えば、別々の独立した国が一緒になっているようなものである。

 サッカーの試合は、一つの国の中で国同士の勝負と同じ意味合いを持っており、歴史的に見れば異なる民族間の戦いに相当する。だから、サポーターは、地元以外のチームを応援しないし、他の都市との試合では熱くなってしまう。フーリガンではなくても、エキサイトする原因はそこにある。サッカーという競技を通して祖国を思う気持ちが強いから、国際舞台でも勝負に対する執念は日本などの比ではないのも当然だ。

 我々は、負けるとすぐハングリー精神が足りないと分析するが、豊かに成熟しきった日本では死語に近い。私が過剰な期待をすべきでないという根拠は、イタリアに限らず、外国チームにとっては、民族歴史上、サッカーが持つ意味合いが日本とは決定的に違うことを知らされたからだ。


★視聴率という魔物

2006-07-11 09:06:03 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日10日のサッカー・ワールドカップ決勝戦「イタリア対フランス」の延長戦開始前までの平均視聴率が、11・6%だったとか。テレビ中継の時間帯(午前2:30~5:00)を考えると、凄い数値だ。6月12日夜に生中継された「日本対オーストラリア」戦の平均視聴率は49・0%。18日のクロアチア戦は52.7%だったという。

 一方、プロ野球の視聴率は、ゴールデン・タイムでも数%しか稼げず、3月21日のWBC決勝「日本対キューバ」戦でさえ、43・4%だったそうだから、サッカー人気の高さを見た気がする。

 ところが、この視聴率というのは極めていい加減なスケールで、調査母体と標本数等のカラクリを知ると、馬鹿らしくなる。テレビ局や企業スポンサーが視聴率一辺倒で視聴者の反応を測定するのは危険だ。ITツールが高度に発展した現代において、いまだに視聴率の高低によってスポンサー料を決める広告宣伝業界というのも原始的な社会だと思う。

 数年前、広告業界の最大手会社の役員にNTTグループ会社が開発したマーケティング・ツールを紹介した時、「画期的な評価測定方法だが、我々自身の首を絞めることになる」とのコメントが返って来た。そのとき、客観的な数字で解明されると困る世界なのだと実感した。それも道理で、広告宣言業界とは人間の信頼関係で成り立っている世界なのだ。だから、視聴率という気紛れで捉えようの無い魔物が説得力を持っているようだ。


★W杯サッカーでみた日本人のメンタリティ

2006-07-10 08:37:30 | スポーツ

 サッカーの第18回ワールドカップ決勝は、イタリアがPK戦の末にフランスを破って24年ぶり4度目の優勝を果たし、1カ月間の熱戦が幕を閉じた。

 この間、深夜のテレビ中継を何度か観たせいで睡眠不足の日が続いたので、ようやく規則正しい生活に戻れそうだ。今までに無く、サッカーを身近に感じるようになったが、日本のレベルがどの程度かを思い知らされた大会でもあった。また、他のスポーツと比べると、異常なほどのサポーターの熱狂振りにも考えさせられた。

 もう一つ、戸惑いを感じたのは、日本代表チームを牽引してきた中田の引退表明のコメントが教育関係者の間で評判を呼んでいること。彼のホームページに載った文章を教材に利用したいというものだ。読んでみたが、ごく普通のことを書いているとしか思えず、大きな反響を呼ぶ理由が分からなかった。老いとともに、ひたむきな感動を忘れた私の感性のせいだろう。

 ただ、私には技術的な話を語る資格はないが、彼が目指したサッカーの志しと実力は別問題だということを見せ付けられた気がした。中田はジダンとは違うし、ロナルジーニョ、ロナウド、フィーゴといった選手達のレベルでもない。野球の王、長嶋やイチロークラスでもない。その選手に過剰なまでの期待をかけて一喜一憂するのは、コマーシャリズムにどっぷり浸かった、現在の日本人の精神的な卑しさを見るようで寂しい。