プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★日本サッカーの限界

2006-07-12 09:04:45 | スポーツ

 日本サッカーが強くなることは大歓迎だが、オシム監督候補は、現在のレベルを「W杯に出れるだけでも喜ぶべき」と語った。客観的なレベル評価だし、それを踏まえて強化策を考えて貰えると期待するが、私は楽観視できないと思っている。それは、外国と日本とでは、サッカーに対する考え方が根本的に異なるからだ。

 W杯で優勝したイタリアを3月に旅行した時、現地ガイドは、強さの秘密を「イタリア人にとってサッカーとは民族闘争だ」と説明してくれた。イタリアは、共和国制を採っている。平たく言えば、別々の独立した国が一緒になっているようなものである。

 サッカーの試合は、一つの国の中で国同士の勝負と同じ意味合いを持っており、歴史的に見れば異なる民族間の戦いに相当する。だから、サポーターは、地元以外のチームを応援しないし、他の都市との試合では熱くなってしまう。フーリガンではなくても、エキサイトする原因はそこにある。サッカーという競技を通して祖国を思う気持ちが強いから、国際舞台でも勝負に対する執念は日本などの比ではないのも当然だ。

 我々は、負けるとすぐハングリー精神が足りないと分析するが、豊かに成熟しきった日本では死語に近い。私が過剰な期待をすべきでないという根拠は、イタリアに限らず、外国チームにとっては、民族歴史上、サッカーが持つ意味合いが日本とは決定的に違うことを知らされたからだ。


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