goo blog サービス終了のお知らせ 

プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★地域のポテンシャル

2007-01-19 09:48:37 | 日記・エッセイ・コラム

 16日の小ブログ「近代化と郷愁」にコメントを頂戴した。金沢市中心部の開発計画に対する評価が間違っているとの指摘だった。

 都市開発の必要性は認めるし、否定するつもりも無い。ただ、その都市が持つ財産ともいえる伝統文化を含めたポテンシャルを高める長期ビジョンに立脚して、都市創りを進めないと後悔すると思う。

 17日に「美しい国づくりは国民の手で」と題して、ニセコの例をあげたのも、地域特性を最大限に発揮する努力が大切だと言いたかったもの。その意味では、表現力不足で誤解を与えたことをお詫びするが、孤老のたわ言と受け止めて頂ければ幸甚だ。

 さて、加賀百万石の石川県は、人間国宝の数が京都市に次いで2番目に多い。人口当たりの日展入選者数にいたっては、二位の京都を2倍以上引き離してダントツのトップだ。地域や会社には、謡曲・茶道・華道などのサークル活動が活発だし、生涯学習に関するカルチャースクールも盛んだ。

 その土壌は、前田家が外様大名ゆえの宿命と悲哀にある。輪島塗や九谷焼、加賀友禅や金箔・象嵌細工等々、いずれも世に知られた高度な技術に支えられた文化だが、町民のパワーを結集する大きな祭りは無い。百万石祭りは戦後誕生したものだ。そして、県都金沢は、その象徴として頂点に立つ都市だ。

 1962年4月、第四高等学校跡の戸田講堂での入学式。「世界で、城の中に大学があるのは3つだけ。その一つで学ぶ諸君は誇りを持って欲しい」との学長の言葉を今も忘れない。私の卒業後、学校は郊外に移転し、四高跡が中央公園と文学館に変貌した。自動車の普及に伴い、名物の市電も撤去された。片町・香林坊にあった古本屋・喫茶店・映画館等は衰退の一途を辿り、学生街の風情はかけらも残っていない。

 当時、移転や市電撤去反対運動に加わったが少数意見は無力だった。それが、30数年を経た今、四高跡を保存すべきだとの主張が復活している。一度失った都市形態が元に戻ることは無い。数年前、ハイデルベルグを訪れた時、14世紀に建てられたお城の中で学ぶ学生の姿がまばゆく羨ましかった。金沢に生まれ育った私が、金沢を嫌いになったのはその時からだ。