電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
歴史学者のホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という人間観は、人間の本質を理性ではなく「遊び」にあるとする。人間が一番生き生きしているのは遊んでいるときだろう。遊びのなかにこそ人間の最も創造的で豊かな部分が発現されるということもできる。ホモルーデンスは、森政弘博士のいう非まじめな人に当たる。だから、森博士は「遊ぶように仕事し、仕事するように遊べ」と説く。
◆遊ぶように仕事し、仕事するように遊べ
『「非まじめ」のすすめ』
( 森政弘、講談社 (1984/2/1)、p219 )
遊びと仕事も、二つを分けるとまずい、まじめ精神だと、遊びは遊び、仕事は仕事。まじめ屋さんはそういう。遊びもけっこうだ、だが仕事をするときは遊びのことなど忘れて、一生懸命仕事しよう、勤務時間が終わったら遊びに行きなさい、それを悪いとはだれもいわない。これはまじめ精神である。
だがそれ以上にレベルの高い姿勢がある。クールになって考えると、遊びも仕事も結局は人間の活動のサマなのである。もともと人はものすごい活動力を持っているからピチピチしているし仕事もピチピチしている。生命力のない人は、仕事もでれんとしていてよくできない。勉強もできないが遊びも下手である。活動とか生きざまという意味では、遊びも仕事も同じである。遊びは即仕事。
だから、遊びだ、仕事だと分けない人は、遊びは仕事だと思い、仕事は遊びだと思っている。まじめ精神から見るとこれはとんでもないことで、遊ぶようにぐうたらに仕事をしてくれては困る、遊びでは冗談いっていてもいいが仕事のときは冗談もまかりならん、仕事はとにかく真剣にやるものだということだろう。
それはけっこうだが、しかし遊ぶがごとくに楽しんで仕事をする人が一流で、くそまじめにやる人はいくら努力してもまあ二流の仕事しかできない。
話をするときは楽しんでやる、これが最高で、メクジラたててやる人は楽しんでやる人に勝てない。昔から諺があって、「努むるは好むにしかず」。努力してやるのは好きでやるやつにかなわない。「好むは楽しむにしかず」。好きでやるもいいが楽しんでやる人には勝てない。
だから仕事は遊びのごとくに楽しんでやると最高の仕事になるわけである。事実、世界に誇り得る日本の何人かの大実業家にしても、そういうレベルの人はみな、苦しい仕事を楽しんで来られた方々だ。苦しい仕事を苦しんでいるだけではないのである。
それから遊ぶときも、仕事をしているときのように充実して遊ぶと、あとでスカーッとする。遊びと仕事を分けない人は、百仕事すると――遊びは仕事だから――百遊ぶことになり、合計人生を2百生きることになる。ところが遊びと仕事は別だと思っていると、人生の時間が百しかないときに、50仕事をすれば残りの50しか遊べない。ふつうは超過勤務なんかが入ってくるから、60仕事すれば40しか遊べない。80仕事をすると20しか遊べない。するとさびしい。あるいは全部遊べば一つも仕事にならないから、遊ぶための金も入らないのでこれもできない。結局、それくらいのことになってしまう。
そうではなく、遊びは仕事だと思うと、人生2百生きられるのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
歴史学者のホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という人間観は、人間の本質を理性ではなく「遊び」にあるとする。人間が一番生き生きしているのは遊んでいるときだろう。遊びのなかにこそ人間の最も創造的で豊かな部分が発現されるということもできる。ホモルーデンスは、森政弘博士のいう非まじめな人に当たる。だから、森博士は「遊ぶように仕事し、仕事するように遊べ」と説く。
◆遊ぶように仕事し、仕事するように遊べ
『「非まじめ」のすすめ』
( 森政弘、講談社 (1984/2/1)、p219 )
遊びと仕事も、二つを分けるとまずい、まじめ精神だと、遊びは遊び、仕事は仕事。まじめ屋さんはそういう。遊びもけっこうだ、だが仕事をするときは遊びのことなど忘れて、一生懸命仕事しよう、勤務時間が終わったら遊びに行きなさい、それを悪いとはだれもいわない。これはまじめ精神である。
だがそれ以上にレベルの高い姿勢がある。クールになって考えると、遊びも仕事も結局は人間の活動のサマなのである。もともと人はものすごい活動力を持っているからピチピチしているし仕事もピチピチしている。生命力のない人は、仕事もでれんとしていてよくできない。勉強もできないが遊びも下手である。活動とか生きざまという意味では、遊びも仕事も同じである。遊びは即仕事。
だから、遊びだ、仕事だと分けない人は、遊びは仕事だと思い、仕事は遊びだと思っている。まじめ精神から見るとこれはとんでもないことで、遊ぶようにぐうたらに仕事をしてくれては困る、遊びでは冗談いっていてもいいが仕事のときは冗談もまかりならん、仕事はとにかく真剣にやるものだということだろう。
それはけっこうだが、しかし遊ぶがごとくに楽しんで仕事をする人が一流で、くそまじめにやる人はいくら努力してもまあ二流の仕事しかできない。
話をするときは楽しんでやる、これが最高で、メクジラたててやる人は楽しんでやる人に勝てない。昔から諺があって、「努むるは好むにしかず」。努力してやるのは好きでやるやつにかなわない。「好むは楽しむにしかず」。好きでやるもいいが楽しんでやる人には勝てない。
だから仕事は遊びのごとくに楽しんでやると最高の仕事になるわけである。事実、世界に誇り得る日本の何人かの大実業家にしても、そういうレベルの人はみな、苦しい仕事を楽しんで来られた方々だ。苦しい仕事を苦しんでいるだけではないのである。
それから遊ぶときも、仕事をしているときのように充実して遊ぶと、あとでスカーッとする。遊びと仕事を分けない人は、百仕事すると――遊びは仕事だから――百遊ぶことになり、合計人生を2百生きることになる。ところが遊びと仕事は別だと思っていると、人生の時間が百しかないときに、50仕事をすれば残りの50しか遊べない。ふつうは超過勤務なんかが入ってくるから、60仕事すれば40しか遊べない。80仕事をすると20しか遊べない。するとさびしい。あるいは全部遊べば一つも仕事にならないから、遊ぶための金も入らないのでこれもできない。結局、それくらいのことになってしまう。
そうではなく、遊びは仕事だと思うと、人生2百生きられるのである。