植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サンクトペテルブルグ

2008年02月10日 22時27分34秒 | 国:ロシア
 TBSの世界遺産で2週に渡ってロシアのサンクトペテルブルグを見ました。世界遺産は好きで良く見るのですが、その中でもこのサンクトペテルブルグとエルミタージュ美術館は凄かったです。

 まあ、建築物の凄さや美術品の素晴らしさの紹介は番組に譲るとして、サンクトペテルブルグの歴史を少し書きたいと思います。

 サンクトペテルブルグのあたりは16世紀までスウェーデン領でした。その頃はあたりというよりバルト海の沿岸はほぼスウェーデンが支配しており、バルト海はスウェーデンの内海と称されるほどでした。
 この状況を打開し、バルト海に面する領地を獲得し、西欧に通ずる港を欲したのがロシアのピョートル大帝でした。
 ピョートルは、同じくスウェーデンに苦渋を強いられていた、デンマーク・ポーランドと同盟し、スウェーデンに戦争を仕掛けます。これが1700年から1721年まで行われた大北方戦争です。
 しかし、当時のスウェーデン王は「北方のアレクサンドロス」の異名を誇るカール12世で、ロシア軍はナルヴァの戦いで僅か半数のスウェーデン軍に壊滅的打撃を受け敗退。さらにスウェーデン軍はポーランドに侵攻し、ワルシャワを陥落させるなど破竹の勢いでした。
 この状況下で、ロシアはバルト海に通じるスウェーデン要塞ニエンシャンツを攻略、そして1703年にそこにロシアの要塞を作ったのがサンクトペテルブルグの始まりでした。
 一方、戦争の方はこのロシアの反撃にロシアの息の根を止めるべく、スウェーデン軍はロシア内部まで進軍し、ロシアは町を焼く焦土作戦でスウェーデン軍の補給を絶ち、1709年にピョートル大帝が自ら軍を率いたポルタヴァの戦いでスウェーデン軍に勝利します。
 この戦争に勝利したロシアはバルト海の沿岸を手に入れ、サンクトペテルブルグに王宮を移すと、西洋化に取り組み大国へとのし上がって行く、まさに歴史の転換点でした。

TBS 世界遺産 サンクトペテルブルグ

オリジナルカードゲーム 植民地戦争
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http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~usa_neko/
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第二次クリミア戦争 プレイレポート

2007年11月28日 12時12分24秒 | 国:ロシア
 先週末、セルフコンにてクリミア戦争と植民地戦争を行いました。まずはクリミア戦争のプレイ報告から。

 前回、ここに掲載して是非やりたいと手を上げた知り合いと、その友人の方と、セルフコンの参加者で、2回目のクリミア戦争を行いました。今回は、私はトルコ(なのでブログもトルコ視点です)。前回、サルデーニャで何も出来ず空気だったのですが、今回のトルコではまさに「瀕死の病人」の気分を十分に味わいました。
 ロシアからのスタートで、ロシアは様子を見たのか正教徒の保護(トルコにとっては絶対飲めない条項)について強く抗議をしてくるののみで最後通牒を行わない事に疑問を持ちましたが、それがロシアが手薄なカフカスに兵を移動させる時間稼ぎと言うのが判り焦ります。そこで至急、キプロスの割譲を条件に英国に接近。色よい返事が返って来たのでひと安心し、次はフランスに聖地管理権を条件に接近しますが、こちらはあまり良い返事が来ず雰囲気的に英土VS露(仏)と言う構図が出来そうな感じでした。
 しかし、ロシア・トルコがどちらも開戦に踏み込めないで居る間に、英国が両国の平和を口実に艦隊と陸軍を派遣しては、トルコにカトリックや正教徒の保護を求め、ロシアには黒海艦隊への牽制を行うと、トルコ・ロシア両国の間に英国に対する警戒感が強まります。その中、ロシアから両海峡の通行権を条件に同盟を組もうと言う誘いがあり、一挙に英(仏)VS露土と言う構図が頭に浮かび上がります。
 ここで問題となったのが、ロシアの本気度と旗色が鮮明でない(と思われる)フランスの動向でした。ロシアと水面下で何度か交渉を重ねると、英国よりは信頼できる感じが出てきました。あとはフランスですがこちらは固く、聖地管理権を与える代わりに、対トルコの債権放棄を引き出すに留まり、本来の同盟もしくは対英戦への中立は引き出すことが出来ずに終わります。しかし、少なくとも英国と同盟関係に無いことだけを確認したので、対英戦を決意します。
 一方、ロシアはフランスと対プロイセン同盟を結んだ上で対英戦に踏み切り、トルコ・ロシア両国は両海峡の通行権の条約に調印し、対英路線をハッキリさせました。
 当然、これに対して英国は抗議します。しかし、開戦には踏み切らずフランスを抱きこんでその調印の撤回とロシアの黒海艦隊を解体することを強く求めます。これで英仏の同盟がほぼ成立したと考えました。
 そして遂にロシアが英・仏に最後通牒を突きつけ開戦に突入。後を追うように、トルコも英国のみに宣戦布告を行います。

 これによって、英国は軍事行動を行い、イズミト沖の海域でロシア艦隊と交戦し、さらにイスタンブールに陸軍を進め沖合いからの艦砲射撃を行いつつイスタンブール攻略を行います。準備万全の予定だった露土両軍は、不調で次々英国軍に負け戦況が不利な状況になります。
 仕方なく、トルコは特殊カードの「プロイセンの和平調整」を使い、全ての国に和平を求めますが、英・仏は勝利ポイントをマイナスにしても交戦を行い続けます。
 さらにイスタンブールへの攻勢を続ける英国に対し、遂にフランスが動きます。陸軍をイスタンブールに向け、さらに海軍も海上を封鎖する形で進軍を行い、各国に圧力を掛けた上で外交交渉を行います。
 そこで締結された条約は、ロシアに黒海艦隊の解体を求めることで、これに対してロシアは英仏両国からの軍事支援を見返りを求め、英仏がそれに同意し、クリミア戦争は終結に至ったのでした。


 結局、両海峡の通行権と、英仏両国からの軍事支援が効いてロシアが6ポイントとダントツトップ。フランスはこの軍事支援が誤算で2ポイントと2位となりました。英国は、ロシアに黒海艦隊の解体で両海峡の通行権をほぼ相殺し-1ポイント、トルコは大きなマイナス無く1ポイントで3位で着地したと思ったのですが、よくよく見直し見ると、ロシアへの英仏両国からの軍事支援がマイナス1づつとなり結果-1でと言う結果でした。
 せめて、ロシアが軍事支援を求めた際に一方の支援をトルコが受けるように上手く話を持っていくべきでした。

 後々話を聞いてみると、英国は最初から3カ国でのトルコ解体を狙っていたそうで、その結果からもロシアと組んだのは正解でした。一方、ロシアは対プロイセン同盟でフランスとしっかり不戦の約束を結んでおり、他の国が1歩も2歩も上手ということを実感し、下手の横好きを暴露したゲームでした。

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グルジア

2007年08月13日 12時00分56秒 | 国:ロシア
 Yahooのニュースで、コーカサスのグルジア共和国にロシアがミサイルを投下した疑惑が上がっているみたいです。
 グルジアはアケメネス朝ペルシア(非イスラム)の支配の後、4~6世紀にローマ、その後の東ローマ帝国の影響を受け、キリスト教(正教)の国となります。しかし、東ローマ・ビザンチン帝国が滅亡すると、オスマン帝国やペルシア帝国のイスラム教国の支配を受けることになります。
 最終的には、この地域はクリミア戦争から露土戦争に掛けて、ロシア帝国(正教)の支配下に入るのですが、黒海沿岸の一体にはイスラム教の住民が残ることになり、これが現在の禍根となります。
 グルジアはソ連崩壊後、独立しますが国民の9割がキリスト教(正教徒)で、残り1割がイスラム教徒です。この1割のイスラム教徒は黒海に面した良港を持つバトゥミに多数住んでいます。すると分離独立を求めるのも自然の成り行きですが、グルジア政府としては、経済的にもっとも豊かなこの地域を手放す訳には行かず、ごたごたが続きます。
 さらにグルジアがEUに加盟を希望したことによって、EUの拡大を懸念するロシアとの関係を悪化させます。ロシアは、親米・親欧路線をいく現在の政権に不満をもっており、その政権を揺さぶる為に、バトゥミを首都とするアジャリア自治共和国に支援しているとされています。今回のミサイル投下疑惑も、この様な背景から起こったものと推測されます。
 正教徒のロシアが、イスラム教徒のアジャリア自治共和を支援し、正教徒のグルジア政府と対立する様は、まさに「経済はイデオロギーを超越する」を感じさせずにはいられません。


Yahooニュース <グルジア>安保理協議を要請へ 露ミサイル投下問題

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クリミア戦争プレイレポート

2007年07月19日 23時16分50秒 | 国:ロシア
 自分でも変わったゲームをコンベンションでやっているな~ってつくづく思うのですが、それに付き合ってくれる知り合いに感謝!感謝です。
 さて、ブログや掲示板で何度か予告したクリミア戦争を半ボードゲームのような感じで遊びました。

 ルールの大きな特徴は、

1.プレイヤーは、ロシア・トルコ・英国・フランス・サルデーニャのそれぞれの国になって、軍隊(陸軍・海軍)を動かして、戦争と外交を行う。

2.軍隊の戦いは、軍略カード・兵種カードを互いに出し合い、有利不利が決まり、その上で将官の能力とダイスで勝敗を決める。

3.自分の番に戦況を鑑みながら、他国と交渉し有利な条件で条約を締結し、戦争を終結させ、一番有利な条件を得たものが勝ち

 といったものです、単純にコマを動かしてのウォーゲームにせず、外交交渉で得たポイントで勝敗を分けることにしたのが特徴です。

 ゲームは、当然ロシアのプレイヤーさんが「トルコに喧嘩を吹っかけないとゲームが始まらない!」と言って、史実どおりロシアが無条件降伏を迫り開戦します。
 これに素早くトルコは聖地管理権をフランスに譲渡することを条件に、対ロシア戦への参戦をさせます。フランスはこれに大喜びで飛びつきます。
 さらにトルコは、勝利ポイントを減らして徴兵を行い、軍隊を増員します。当初、無謀とも思えたこの判断により、トルコはロシアの猛攻をイスタンブール近くのエディネルで防ぎます。
 これがフランスのトルコ参戦で苦境に立つロシア側に組しようと考えたサルデーニャの考えを砕くことになります。ロシアからコンスタンティノゴルスクの割譲を条件にロシア側に組して参戦したもののそのロシアの立場が危ういものとなってきました。
 その頃、英国はトルコからのキプロス割譲の要求と、ロシアからの一緒にトルコを分割しよう要求に揺らぎます。一旦は、トルコ側に参戦しますが、ロシアと戦うことなく単独講和し、逆にトルコ軍と交戦しだします。
 一旦はフランスの支援の元、ロシア軍を防いだトルコ軍も英国軍の攻撃にピンチになり、英国に対して和平の条件を打診しだします。これには各国の利害が絡むため、一時ロシア・フランス・サルデーニャとも戦争を中断し、各国が講和の為の条件を出し合います。
 英国が要求するロシア・トルコの両国が黒海に艦隊を配備しないなどで折り合いが付きそうな場面もありましたが、結局この講和ではロシアは我が国の国民が納得しないと言い、講和会議を離脱し最後の猛攻を掛けようとします。これに対して英・仏・土・サルデーニャは非難し、ロシアと戦います。
 こうなるとロシアに勝ち目はなく、オデッサを攻略され全面降伏で幕引きとなりました。

 結果、もっとも有利な条件を得たのが、聖地管理権とキプロス割譲を得たフランス、つづいてロシア艦隊が壊滅したことで英国、ロシア領の黒海沿岸を得たトルコでした。日和見だったサルデーニャは、コンスタンティノゴルスクから勝利条件にならないソーチを得ただけにとどまりました。

 この話だけ見ると、思ったとおり、軍隊の活躍と外交手腕によって勝敗が決まるという実際の戦争に近いゲームとなり、その点では満足だったのですが、主催者兼マスターとして参加したので、サルデーニャだった為、投入軍隊が少なく1戦も出来ず、1プレイヤーとしては残念なゲームでした。

 今度は、プロイセンでオーストリアやフランスと戦ってやるぞ!と思うこの頃でした。

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クリミア戦争の背景

2007年06月06日 20時30分48秒 | 国:ロシア
 前々回で露vs英仏土が行ったクリミア戦争の背景を探って見たいと思います。ロシアが戦争を行った理由は、


1.南下政策による不凍港の確保
2.スラブ人の保護
3.オスマントルコの弱体化に漬け込んだ国益確保



 の3つが言われています。2.は建前、1.と3.が本音と言ったところでしょうか。ですので、クリミア戦争では、2.を前面に押しつつも、1.3.をロシアは狙っていました※1。
 しかも、3.については強国英国に打診し、英国にも利を与えることを考えていました。

 カードゲームでの状況に置き換えると、オスマンが植民地を多く抱えていながら、兵力カードをあまり保持していない状況になったので、それに漬け込んでロシアが攻め、しかも英国に「今がチャンスだから、英国さんもオスマンを攻めて植民地を奪っちゃえ!」と言っている状況です。
 しかし、ロシアがオスマンを攻めて、ロシアが勝ち植民地を奪うと、英国はオスマンで無くロシアを攻めます。英国にとっては植民地を得て肥大するロシアが、TOPになる為にもっとも危険な存在だと感じた結果でしょう。

 ロシアにとって英国と戦いになってしまったのは、史実でもカードゲームでも良くある相手を見誤たことだったと思います。

 史実では、英国はロシアと共にオスマントルコの領土を割譲するよりも、地中海の通商路を守る方が重要だと判断しロシアとの開戦に踏み込みます。
 このクリミア戦争の敗戦によって、ロシアの野望は頓挫しますが、農奴開放などの内政改革に着手し国力を付け、再び1877年に露土戦争を行い勝利を掴みます。しかしこれも英国の強固な反対に合い、地中海航路の確保は断念せざるを得なくなり、ロシアは極東に矛先を向けるのです。
 という事で、こう言った背景で起きる日露戦争はまたいつか。


※1:クリミア戦争後に行われた露土戦争では、スラブ民族の保護を国内で喧伝しすぎたため、ロシア国民がそれを強く望みだし、ロシア政府も引くに引けない状況で開戦する事になります。

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クリミア戦争

2007年06月01日 23時33分42秒 | 国:ロシア
 現在、自身で行っているコンベンションでクリミア戦争を題材として、遊ぶ予定でおります。掲示板を中心に議論されておりますので、ここで少し戦争の経緯を書いてみたいと思います。

 18世紀末より衰退するオスマントルコに対して、ロシアは度重なる侵攻を繰り返し、クリミア半島を含む黒海北岸を手中に収めていました。
 19世紀に入り、さらに勢力を弱めるオスマントルコに対して、ロシアはバルカン半島の分割と、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡の艦隊の通行権を得ようと目論見ます。
 両海峡の通行権を得ることはロシア艦隊の地中海への進出になり、これは不凍港を獲得し、海外進出を図るロシアの悲願でした。しかし、地中海は英国にとって、大植民地インドと本土を繋ぐ生命線であり、そこにロシアが進出することは許されないことでした。

 しかし、ロシアはオスマントルコの領土を英国と分割することで了解が得られると考え、オスマントルコへの開戦に踏み切りますが、これはロシアの目測は見誤りで、英国は終始オスマントルコを支援します。
 1852年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を、同じ正教徒のモンテネグロが支援。これに対して、オスマントルコはボスニア人ムスリムに武器を渡し支援したことで、戦況は泥沼化。この状況に、スラブ人国家であるモンテネグロを支援する為にロシアが介入し、ロシア・オスマントルコ間で和平が模索されます。
 ロシアは、これを契機にトルコ解体を目論見、オスマントルコ領内の正教徒の保護を要求します。これはオスマントルコが正教徒を支配することを放棄しろと言う要求にも近いもので、オスマントルコにとっては飲めない要求でした。
 その為、両国はバルカン半島・黒海で開戦します。

 戦争は、ロシア有利に進み、シノープの海戦でロシアがトルコに一方的な勝利を収めると、遂に英国はフランスと共にトルコと同盟し、ロシアに宣戦布告します。

 当初、英国・フランス連合軍は、ブルガリア東部に上陸し、ロシアの拠点オデッサの攻略を目指しますが、オーストリアが介入し国境付近に兵を集めたため、攻撃目標をクリミア半島の要衝・セバストポリへ変更し、ここで1年に及ぶ激戦を繰り広げることになります。
 結局、フランスに味方することで、友好関係を築こうとした、サルデーニャ王国の参戦により、セバストポリは陥落しますが、両陣営共に戦争継続することは困難になり、1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとでパリで講和します。

 結局、ロシアは両海峡の通行権を得ないこと、黒海の非武装化に合意せざる得なくなり、この結果内政改革を余儀なくされます。

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ロシアの歴史

2006年05月16日 20時17分22秒 | 国:ロシア
日本の隣国ロシア。ソビエト時代を知っていても、その前のロシア帝国を知る人は少ないかもと思い、少し紹介します。
ロシアの地は今のウクライナ・ベラルーシと共にルーシと呼ばれており、9世紀頃から今のウクライナの首都キエフを中心にキエフ大公国が建国し栄えました。しかし、モンゴルのキプチャク・ハン国に滅ぼされた後は、キプチャク・ハン国の支配下で各々公国として存続し続けます。
その中で、キプチャク・ハン国に貢物を集める役目を得ていたモスクワ公国が力を付け、1328年にイヴァン1世の代にモスクワ大公国として独立。また、イヴァン3世の代には、東ローマ帝国の滅亡時に皇帝の姪を救出し婚姻を結ぶことで、東方正教会(ギリシア正教)の擁護者としての地位を得ます。そして1547年イヴァン4世が大公の称号を廃してロシア皇帝を名乗りロシア帝国が誕生します。
その後、ロシアは領土拡張を続け、東方へのコサックの派兵と、シベリア探検によりアラスカまでを支配し、南は清とネルチングス条約を締結し領土を確定し、ペルシアとの戦争でカザフ一帯を支配におき、西方はスウェーデンとの北方戦争でバルト海沿岸まで支配し、プロイセン・オーストリアとのポーランド分割にも参加して領土を得ます。
18世になると積極的に南下政策を推し進めた為、これを懸念した西欧諸国の干渉に合いこの政策は頓挫してしまいます。
その後は、日露戦争・第一次世界大戦を経て、そしてロシア革命により帝国は終焉を迎えます。

ゲームでは、国力3、総生産5/5/6です。総生産が低いですが第3Qは6あるのであまり気になりません。もし可能なら+1できればかなり強力になります。あとは国力が3もあるので、そんなに植民地を取らなくても国力ポイントを稼ぐことが出来ます。初心者にお勧めの1国です。

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ロシア「強い軍があれば、外圧をはね返せる」

2006年05月12日 12時11分40秒 | 国:ロシア
ニュースにロシアが、「強い軍があれば、外圧をはね返せる」と発言したとありました。ロシアは経済の好景気と、高騰する石油の輸出でお金があるので、その使い道を軍備拡張にまわすことで、WTO加盟などを妨げるアメリカに牽制をするということですが、近隣諸国の1国としては困った話です。(*_*;

私の方で行っているカードゲームでもロシアの同じようなことが言えます。
A国が国力ポイントが高くなくても、兵力が少なければ、他国は自国の国力を上げる為に、A国を餌にすべく攻めてきたり、租借を行ってくることはままあります。
もし、A国が逆に兵力を蓄えた国なら、他国はなるべく敵対しないようにするハズです。(逆に同盟などで味方に引き込んで、その兵力を利用しようとすらするかもしれません)

是非、このカードゲームで、兵力を蓄える際に、「強い軍があれば、外圧をはね返せる」とセリフを行って遊んで欲しいものです。(#^.^#)

次回は、そのロシアの歴史かな・・・

【名言】強い軍があれば、外圧をはね返せる
 外圧を受けていた国が、兵力カードを蓄えだしたときに言う。


「強い軍があれば、外圧をはね返せる」 露大統領、大国構築を宣言 (産経新聞) - goo ニュース
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