ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

選択できるから気付きもある

2014-09-26 09:03:00 | 精神世界

 

昨日も「選択」ということに思いを馳せた記事を書きましたが、ほんとにつくづく思いますが、私たち人間に「選択の権利」というものが与えられている、ということが、この世に人類というものが存在してからの一番のヒットだったんじゃないか、って思います。

 

そのことに気付いたことも、ここ数年での一番大きな私自身のヒットだったように思います。

 

なので、今日は改めてそのことを、最近の思いとも混ぜながら少しまとめてみようと思います。



そもそも、聖書の創世記にアダムとイブが楽園を追われる、という有名な話が出てきます。

 

で、ここで私は不思議に思いました。

 

「生命の木と善悪の木があって、生命の木の実はいくらでも食べていいけれども、善悪の木の実は決して食べてはいけないよ、と神がアダムとイブに言い置いていた、というのだけれども、どうして神はそんな面倒なことをしたのだろう?

 

神は全能のはずだから、本気で善悪の木の実はアダムとイブに食べさせたくないのであれば、彼らが善悪の木に近づこうとしたときに結界でも張ってあって、あるところからはどうしても近づこうとしても近づけない、というようにしておけばいいだけのことではないか。

 

いや、それ以上にそもそも彼らが住む楽園のなかに善悪の木なんて植えなければいいのではないか。

 

どうしてこれ見よがしに植えて置いて、この木の実は食べてはいけない、なんてアダムとイブを試すような真似をする必要があるのだろう?」

 




そしてこの疑問に対する答えが、大元をたどるとオーラソーマの創始者ヴィッキー女史のお父さまがマスターだったと言われるカバラの教義だったのです。

 

いわく、

 

「神は自分に似せて人間を作った。そして神は自分と同様に、人間にも選択ができる、という力をお与えになった。」

 

だから、神は「約束だよ。」と言って善悪の木の実は食べないこと、としたから約束といった限りには一応罰を与えるけれども、アダムとイブが神の約束を破ったことについては何も悪いことでもないし、神は怒ってはいないと解釈している、とのことでした。

 

この教義は旧約聖書を信じるユダヤの人々に受け継がれ、彼らはこのアダムとイブが楽園を追われるという話を決して悲惨なものとも思っていない、というのです。

 

なるほどー!

 

すごく納得しました。

 

このときの気付きがずーっと今の私の根底をなしているような気がします。

 

この解釈に何かひずみを感じたことも全然ないし。



そして、この前私にゲシュタルト療法についてちょっと調べてみようというきっかけをくれたJ-Fariyさんが、コメント欄にメッセージをくれました。

 

それがまた新たな気付きを与えてくれました。

 

それは、私が読んだ「気づきのセラピー」という本を書いた著者、百武正嗣さんの言葉です。

 

今の自分に気づいたらOK・・・それだけでいい。
  苦しいのは無理に変えようとするから。
  自分が何かに気づいてるからこそ選択(表現)できる。

 

というものです。



無理に変えようとしなくていい。気付いたらそれだけでいい。

 

気付いていれば選択できるのだから、という言葉は胸に沁みますね。

 

気付けば選択ができる。

 

では、気付くにはどうしたらいいのか?と言えば、「今ここ」を大切にすることです。

 

これは前にも書いたことですが、“過去”に原因を求めて理由を探すことは、思考の領域に入ってしまうことであり、思考の領域とは過去の経験や体験から積み上げられたものなので、決して“過去”を乗り越えられない、ということになってしまうからです。

 




そっか~

 

じゃあ、これまでにインナーチャイルドのワークとか、過去に受けたトラウマを癒そうというようなワークをやってきたけれど、あれらはみんな無意味だったのね、というとそうではありません。

 

“過去”を“過去”のものとせず、“今ここ”で体験すればいいのですから、過去の辛かったこと、痛みなどをただ過去の出来事として話すだけでは意味がないけれども、言葉や記憶による「~であった」という状態から、その過去のことを「今ここ」で再体験することにより、「今まさに~しつつある」という経験へのシフトを起こせばいい、ということなのです。

 

ですからやってきたワークは無駄でも何でもありません。

 

むしろ、「今ここ」のワークをまさに体験したワークだったことでしょう。

 

「今ここ」という成長した自分の立場から再体験することにより、「あれはしょせん過去のことだった」と理解することが大切だということです。



百武さんの「自分が何かに気付いているからこそ選択(表現)できる。」という言葉にあえてその先を付けくわえるとするならば、

 

「そして選択できれば、人は必ず行動に移す」と言ってあげたいですね。

 

「今日のお昼は○○のパスタにする!」と決めた人が、「いや、とりあえず決めただけであって、ほんとうに○○に行くかどうかは別モノだよ。」と言うでしょうか。

 

口の中には○○のパスタの味がよみがえり、そそくさと席を立ち、早く○○に向かいたいと思うばかりのことでしょう。

 

「将来は医者になる」と決めた人が、ボイラー管理士になるためのマニュアルを読んで過ごすでしょうか。

 

そりゃ国家資格の必要なものはなるかならないか以前にまずは試験を受からなくちゃなりませんから、1年では目標に到達できなかったり、途中で挫折することも考えられるでしょう。

 

けれども少なくとも「医者になるためにはどこの大学に行くのがいいんだ?」とか、その大学の入試問題を取り寄せて検討するとか、行動は起こすはずですよね。

 

その先にはまた新たな選択が待ち受けているかもしれません。

 

でも、私たちはこのように選択と行動、その間を行き来しながら生きていく権利を有している。

 

その間にある悩みなんて塵ほどのものだ、という気になってきます。

 

あぁ、素晴らしきかな、人生よ!

 

・・とつくづく思うわけであります。







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