このところの3日間書いたことは、どうも持って回った表現というか、我ながらよくわかんないな~と思いました。
私はいったん書いたものはそんなに読み返したりしないほうなので(いったん自分の手から放れるともう自分のものではないような気がする、っていうか)これまではブログにしても読み返して振り返る、なんてことはしてこなかったのですが、今回この3日間についてはなんだかお尻のすわりが悪いっていうか・・
気になったので読み返してみました。
そうしたらやっぱり何が言いたいのかよくわからない。
わからないときというのは3つのパターンがあります。
自分自身でも自分の身に起こったことに整理がついていないとき。
整理がついていることを自分で認めたくないとき。
その両方。
今回に関しては2.かなぁ・・
結局、シンプルなことだったんだよ、ということを自分で認めたくなかったんですね。
なんで認めたくないか、っていうと、「は? たったそれだけのことを理解するのにあなたの場合、それだけかかったわけ?」ってもう1人の自分が自分をあざ笑っているような気がするから。
どうしてもう1人の自分が自分をあざ笑っているなんていうふうに思うのか、といえば、結局自意識が妙に高いんでしょうね。
そんなはずはない、私と言う人間はそんなところでうじうじせずにもっとスイスイ人生自由に泳ぎ回れるはずだ、とか思ってるんでしょうね。
いや、そうでなくてはならぬ、というように。
で、そんな自分もまた認めてしまえ、というわけで。
ちょいとこれまでのことをシンプルに振り返ってみます。
どこから始めればいいのかよくわかりませんが、今年の2月に新ボトルB111「大天使ダニエル」が誕生して、そのボトルをさっそく塗ってみたときから、あれが転機だったように思います。
あのボトルにはいろんな意味がありますが、私はただ1つ、
「自分の夢に向かってまっしぐらに脇道にそれずに進みたいとき、あなたの人生において余計なものを排除してくれます。」
というメッセージにフォーカスしたくてワークしたのでした。
そうしたらこれが実になんと、厳しかった。
そのいろんな“脇道”たちを、
「ほらほら。これらをお前は“脇道”だと思ってんだろ?
“脇道”なら排除したっていいんだよなぁ?
それならそれでお望みどおり排除してやるぜ。
きれいさっぱり“排除”でいいんだろ?
そのほうが王道に集中できるものなぁ。
ん? まさか・・ おまえ・・ すみません、やっぱりこれ“脇道”じゃありませんでした、“排除”もしたくありませんでした、って言うんじゃないだろうなあ?」
ということを試される、ということが次々と起こったんです。
具体的には、オーラソーマそのものも私にとっては”王道”ではなく”脇道”なのかどうかさえよくわからなくなっていました。
試される、テストを受ける、という感じは決して嫌いなほうではありません。(厳密に言うと、試された結果、自分らしいと思える答えを提出できた、と思う瞬間が好き)
しかし今回はそこでハタ、と停まってしまったのでした。
「すみません・・
どちらが王道でどちらが脇道なのか、っていうところから出直さなくてはいけないかもしれません。
まだわたし、B111のテストを受けるところまでも行ってなかったかもしれません。」
という感じで萎縮してしまったのです。
ほんとうはテストそのものが厳しいわけではなくて、そのテストを勝手にややこしいものにしてしまっているのは自分なんですけれどね。
たとえば
「1+1= 」というテストがあったとします。
テストそのものは簡単です。
けれど、この解答欄に「2」と記入するのか、1分の2と書くのか、「3」という場合だってあります、それはこういう解釈をすればです、なんていうことまで書くのか、それで悩むのはその人の勝手ということになります。
そんな感じ。
私はオーラソーマを始めたときから一貫して、「オーラソーマは自己探求するに最適のツールだけれど、最高かどうかはそれはわからない。
肩を並べるほどのものもまだまだありそうに思う。
そしてそれは人それぞれ出会うタイミングの問題などもあるだろうし、それでいいんだ。」
というように言ってきました。
だから人の目には「あぁ、この人はオーラソーマにこだわらずにそういった探究ツールとして自分がこれだ!と思ったものがあれば、そういう他のものもやっていく人なんだろうなぁ。」
と映っていたと思います。
実際、自分自身そう思っていたし。
しかし実際は、口ではそう言いながら私はいろんな制限を勝手に自分にかけて勝手に自由ではなくなっていたんですね。
だからわたしは「ぴーちゃん」のようなティーチャーに惹かれるんだろうなぁ。
姜尚中さんが言っているような「これからの時代、突き抜けた人が必要」と言っているのはぴーちゃんのような人ではないか、と思います。
前にも書きましたが、「突き抜けた人」というのは織田信長のように「血も涙もなかろうと、とにかく既成概念を突き破ることが先決」、という人の事ではなくて、二次元の世界しか知らなかった人間に「あ? ここ、飛び越えられるよ?」と空間の概念をひょいと持ち込めるような人のことだと思うんです。
たとえば、ぴーちゃんはポマンダーをぐるりと輪っかを描くようにして施してくれる。
掌の決まった位置に3滴落とす、なんてことをしない。(もちろん、通常そうするときもあるだろうけれども)
私にとってはそんなことがすっごく新鮮で「!」な発見なわけだけれども、もし施す側が私なら、マインドで考え込んでしまうことでしょう。
「こういうのもいいじゃない! けれど、一応オーラソーマでは三位一体ということは大きな重い概念だし、“たまには”いいよね、とか、“コースというわけじゃないから”いいよね。」
とかそこに何らかのエクスキューズを入れて、実行しようとすることでしょう。
でも多分ぴーちゃんは、
「え? そんな風に考えるなんて、これ、いけないことなの?」
ってきょとんとするだけなんだろうなぁ。
一気に突き抜けちゃってる。
ま、このことをして突き抜けちゃってる、っていうのはあまりに大げさかもしれないけれど、一例ですよ、一例。あくまでもね。
オーラソーマという組織が巨大化してきたからこそ、統制をとるんじゃなくて、こういう突き抜けた人が必要な時代になっていると思う。
そう考えたとき、なんて私はちっぽけな概念のなかで「あれをどうすべきだろう?」「これをどう捉えるべきか?」と悩んでいたんだろう、と思いました。
そもそも私はもっと自由に私のすべてのライフワークのなかの1つとしてオーラソーマを捉えてきたんじゃないか、と原点に返ることができました。
そう口では言いながらいろいろなものに囚われすぎだった自分がいた、ということに気付かされました。
オーラソーマとどう向き合っていけばいいのかがちょっとわからなくなっていたために、「大いなる意思とは?」とか「マイクの言動をどう捉えたら?」と言うことも持ち出していたんだと思います。
そして、「色」にのみ惹かれてオーラソーマに飛び込んだ人たちは幸いだ、そこが明確だから「カバラと72の天使」にも「クリスタル」にも心は動かないでしょう? そのほうが原点にいられるよねぇ、と自分もそこにいよう、と思ったりしたこともありました。
けれどそんなことよりなにより“突き抜け”ちゃって、自分も、オーラソーマも、もっともっと大きいもののなかの1つに過ぎないんだ、って思ったらもっと自由に考えればいいや、って思いました。
だから「オーラソーマの気付き 第一章」が修了したのか、気付きが統合してきたのか、これまでの自分がしてきたことをひとまず集大成するときがやってきたのか、それはもう少し年月を経てみないと今の私にはわかりません。
ただ1つだけ言えることは、私の人生が少しだけ違うステージに突入したな、ということなんです。
そうしたらあら、不思議。
あまりにもB111が辛かったので、「よし、リベンジだ!」とばかりに2本目に突入し、やっぱり討死にしていたのですが(途中まで使って使えなくなった。)、最近ようやく「また塗ってもいいかな。」という気持ちになってきて、ずいぶん何か月かほったらかしにしていたB111の2本目を塗りだすことができるようになりました。
面白いですね~
このようにボトルは常に自分の“いま”を表し、寄り添っていてくれるわけです。
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