ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

自分を愛するということ

2008-07-25 08:15:57 | オーラソーマ

  「自分を愛する」・・・「自分を愛せなければ他人に本当の意味で優しくすることはできない」とか言いますよね。

  でも、これってものすごく難しいことだと思うんです。

「自分好き」とかいう言い方をするときもありますが、(「俺って、結構自分好きだからさあ」みたいな使い方で)「自分を愛する」ということと「自分が好き」ということとはちょっと違うと思うんです。

「好き」か「嫌いか」という言い方は感情以前の皮膚感覚的なもののような気がします。だから、「自分を嫌い」と言ってしまったら、「生理的に自分が嫌い」と言っているようで、自分の嫌いなところの理由が言える場合は良いですけれど、そうじゃないと立ち直れないような気がする・・

「自分を愛する」ってことはもう少し積極的な意味があると思います。

でも、「自分を愛する」って「自分に甘い」ってコトとは違いますよね。

ましてや、「自分のある特定の資質や技術に自信がある」ってコトとも違いますよね。

  実は私は長い間、「自分のある特定の資質や技術に自信がある」がゆえに「自分に甘くなる」ことを「自分を愛せている」ことだと勘違いしてきました。

  これは裏返せば、その特定の資質や技術に対する自信を失えばすぐさま自分を見失ってしまう、自分の存在価値を見出せなくなる、ということでもあります。だから私は自分に自信を持っていた資質が井の中の蛙でそんなもの上にはいくらでも上がある、とわかったとき自分を見失いました。「とことん自分を愛している」タイプと思っていたのにオセロの黒が白にひっくりかえるようにパタパタと「私って実は、まったく自分を愛せてないかも」と思ったとき、人は愕然とします。

 そしてその次にどんな感情がわきあがるかというと、自分の自我を守るために「こんな自分の勘違いを今まで指摘することもなかった周囲はなんなんだ」という怒りにすりかわるのです。思春期のころ周囲というのは具体的にいうと「親」がもっとも身近な存在です。「自分でさえ今はその間違いに気付いたのに、自分より何十年も生きている存在なのにそれを指摘できなかったということは、彼らは何を考え、どう生きているのか。そもそも何も考えていないのか。まだ気付いていないのか。どうなんだ!」という怒り。そして親なんて頼りにならないじゃないか、という失望。

だから、私は今立て続けに起こっている若者の犯罪で捕まった彼らが異口同音に「親が悪い」という気持ちはよくわかります。(もちろん、それで犯罪を肯定しているわけではありませんよ。そこから犯罪にまで至るにはいくつもいくつもハードルがあると思います。そう思う人が全部犯罪をおかすわけでもなんでもありません。ただ、そういう言い方をするプロセスがわかる、という意味です。)

 彼らは本当の意味で、自分を愛せていないのです。

 自分で自分を愛せている、と思ってきた欺瞞に気付いてしまったのです。

 そこから周囲が悪い、といい続けている泥沼から這い上がれないのです。

では、本当の意味で「自分を愛せている」というのはどういうことなのでしょうか。

  賢い皆さんにはもうおわかりでしょうが、「自分の良い点も悪い点も全部ひっくるめて、自分にはこういうところがある、ということを容認する」ということだと思うんです。

  誰だって、嫌なところも、つい出てしまう欠点もあると思います。そして、そういうところにはどうしても目をつぶりたくなりますよね。だけど、それにあえて一度は光を当ててみて、「自分にはこういうところがある」ということを受け入れた上で、「そういうところがある人間だ」ということを認める。


 これまためちゃめちゃ難しいことだと思うんですよ。だって、小さい頃から私たちは、「欠点は直しなさい。気付いたときに直しなさい。自分の性格で悪いところだと思うところは直しなさい。」と言って、育ててこられませんでしたか?だから受け入れたり、容認したりする前に「ダメなとこだってわかってるなら直しゃいいじゃん。」って思ってきませんでしたか?

  ひょっとすると私たちは頭でっかちになっているのかもしれません。

  答えのほうが先にわかってしまっているから受け入れたり、認めたりしない。する必要を感じない。答えである「直しゃいいじゃん」のほうにすぐに行こうとする。あるいは受け入れたり認めたりすることは現代の生きていくスピードにはあまりにもマッチしないのろのろとした作業に感じるから割愛してしまうのかな。

「こんなところもある人間なのに、それを力一杯愛してあげることができるのは私しかいないんだ。私が私をいちばん愛してあげられるんだ。私が私を愛してあげないで、誰がこれほどまでに愛してくれるというんだ。」と思ったとき、自分がとてもいとしいものに思えてきます。

「自分が自分を愛するということ」に近道はないんだと思います。

だから、遠回りのようにみえても悪いところは直すとかの前に一度、そんな自分を受け入れ、そんな自分がいる、ということを認めることからはじめるしかないんじゃないでしょうか。

私はちょっとこのことに気付くのが通常より遅すぎたのかもしれません。

しかし、何事も遅すぎるということはないのだ、という気もします。

少なくともこの世に生きている間にわかってよかった(笑)

オーラソーマのボトルのなかにも「自分を愛することを教えてくれる」という意味のあるボトルがけっこうたくさんあります。

ある意味、どんな色であってもこのテーマは横たわっている、といってもいいくらいです。

 それぞれ人が自分の道を全うするために幾千本も幾万本もあると思える道のり。しかし、なにかしら人類の、というと大げさかもしれませんが人の魂としての修練の中にこの「自分を愛する」というテーマはあるような気がします。

こんなことについて時にじっくりと考えてみることのできるのもオーラソーマのおかげです。あ~、ほんとにオーラソーマに出会えてよかった!