テレビに映し出された老人男性の姿を見て涙がでた。資産家殺人事件で殺された霜見誠さん(51歳)の父親である。同時に島津亜矢が霜見さんの故郷宮崎に近い熊本の方言で歌う『帰らんちゃよか』(作詞作曲: 関島秀樹)の「そらぁときどきゃ俺たち淋しか夜ば過ごすこつもあるばってん 二人きりの暮らしも長うなって 心配せんでよか心配せんでよか・・・・・・・帰らんちゃよか 帰らんちゃよか・・・・・・・おまえの思うとおりに生きたらよか」が浮かぶ。
私は亡き父を思い浮かべ、霜見さんの父親と重ねる。背丈、服装、家、家の周り、話し方。私の父は小学校へ3年も通わずに、宇都宮の羊羹屋へ丁稚奉公に出た。団塊世代の親の多くは、自分と同じような悲惨な人生を子供におくらせまいと、身を削って子供の教育に尽くした。私の親も1ドル360円の時代に私をカナダで勉強させてくれた。大きな犠牲をはらってくれた親の恩に報いることもなく、あたかも私自身の力で成長成人したかのように振舞った。自分の親の学歴がないこと、金持ちでないこと、洗練されていないこと、つまりはセレブでないことを恥ずかしいとさえ思った。どんなに悔やんでも消すことのできない私の汚点である。
「長い間会っていません。会いたかったです。あの子も会いたかったんだと思います」テレビ局のインタビューに霜見さんの母親が答える。70歳を越えているに違いない。長年の労働と老いがそうさせたであろう、私の母と同じ程度のO脚を見受けた。顔にボカシが入っている。表情が読めない分、悲壮感が漂う。服装も普通の農家の老女のそれであった。超セレブの犠牲者の父親も母親もごく普通の宮崎の田舎の人である。
私は父も母も嫌いではなかった。それなのに会う時間が苦痛となってきた。私の服装基準やセンスは両親の服装を受け入れなかった。お互いの歩んできた道に共通点はまったくない。価値観も違う。金銭感覚も異なる。世の中への関心も評価も違う。食べるものに共通なものもない。話はかみ合わない。外国語も話さない。読んだ本の話もできない。友だち知人を会わせることもできない。海外に暮らしどんなに「来て」と誘っても一回として来なかった。何を勘違いしていたのか、その相違が私を驕らせ、両親に冷淡な対応をとらせた。両親はあれほどの犠牲を払って、いまの私を育てあげてくれた。その恩も忘れ、私は、いつしか両親を疎ましくさえ思った。両親の家に泊ることさえできなくなった。布団では寝られない。掛け布団が重い。部屋が寒い、暑い。両親が私の家に泊っても同じだった。ベッドは嫌だ。掛け布団が軽くて気持ち悪い。クーラーが効き過ぎる。暖房の温度が高い。親子という如何ともしがたい血の関係が心を締め付けた。親不孝が平気になった。罰当たり息子は次第に距離をとった。
スイスと日本を行き来する超セレブな息子でも自分の両親を見れば下を向く。それを知っているから外では貪欲にセレブであることを求める。世界を股に掛ける麻痺したかのような金銭感覚と宮崎の質素清貧がぶつかる。成功したかに見える息子は、同じたぐいのセレブを目指して右往左往していた犯人に殺され、2メートル掘られた穴にセレブを享受していた妻と一緒に埋められた。彼の自慢のフェラーリも億ションもスイスの湖のヨットも億の預金も持たず、子供のように可愛がっていた飼い犬2匹を連れて行くこともできず、埼玉県久喜市の縁もゆかりもない百数十万円の空地の土の下に捨てられた。
霜見さんの両親は、いまでも「心配せんでよか 親のためにおまえの生き方かえんでよか・・・おまえの思うたとおりに生きたらよか」と強がり、親より先に逝った親不孝な息子の遺骨の帰りを自分の足で気丈に地面に立ちつくし、自分の目で現実をしかと見つめて、宮崎で待っているに違いない。どんな親でもこんな結末を期待してはいない。「子はなくてあるがやすしと思ひけりありてののちになきが悲しさ」(香川景樹)の心境であろう。 子の幸せを願うからこそ身を削ってでも、子のための踏み石となって大切に育て、世に羽ばたかせる。彼らの姿が私の両親と哀しく入れ替わる。
セレブとは程遠い私だが、この事件を他人事とは到底思えない。私の心にあるセレブに対する憧れや嫉妬に代表される煩悩と、過去に親に投げた言葉や態度に対する悔恨が私の中でせめぎ合う。何が親子の間をへだててしまったのだろうか?