団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

母ちゃんの包丁

2021年10月13日 | Weblog

  最近、包丁を使っていて、危うく手の指を切ってしまいそうになることが増えた。自分では注意しているつもりなのだが、ちょっとした気のゆるみが生まれる。包丁で何かを切っている時、問題はない。切り終わって包丁を片付けるとか、包丁を調理台に置こうとしたり、包丁を洗おうとするとか、洗って包丁差しにしまう時、指を刃に当ててしまう。多くの場合、かすり傷程度で済んでいる。

 危ないのは包丁ばかりではない。私は魚を自分で処理することにしている。刺身にしろ煮たり焼いたりするにしろ、調理する直前にウロコを落とし、内蔵やエラを外す。魚のヒレや骨でもケガをする。軍手やビニールの手袋があるが、そうすると包丁がうまく使えなくなる。行きつけの魚屋は、頼めば下処理をしてくれる。今までは自分ですることにこだわっていたが、そろそろプロに任せようかと思い始めている。

 包丁差しには、包丁が9本とその他2本、計11本が入っている。それぞれ用途によって使い分けている。包丁を使う時、子供の頃、台所にあった母ちゃんの包丁を思い出す。菜切り包丁のたぐいだった。今の百円ショップで買えるような包丁だった。母ちゃんは、その1本の包丁で、カボチャもナスもジャガイモも肉も魚も切っていた。それが当たり前だったので、私も気にしたことがなかった。包丁がどういう包丁であったにせよ、母ちゃんが作ったモノは、みな美味かった。母ちゃんも包丁の切れ味がどうのと言うのを聞いたことがなかった。

 高校生の時、カナダに留学した。招かれて訪ねたカナダ人の家庭の台所で、たくさんの包丁が差されていた包丁差しを見て驚いた。一般の家庭なのにまるでレストランのキッチンにある包丁のようだった。母ちゃんの1本だけで、何でも切っていた包丁は、魔法のスーパー包丁に思えた。だって、たった1本の包丁で貧しいながらも、カナダの家庭の料理に負けない程美味しい料理を作っていたのだから。内容より見た目を気にする見栄坊の私は、カナダやアメリカの家庭で見たたくさんの包丁が差された包丁差しを理想として自分でも使った。それでもたった1本の包丁で作り出した母ちゃんの味には、到底適わない。

 昨日も包丁を片付けようとして、刃を指に当ててしまった。幸い皮膚に刃の筋が付いた程度で済んだ。私の感覚のどこかがおかしい。気をつけなければ。

 2年前、池袋で当時88歳の飯塚幸三被告が車を暴走させ、松永真菜さんと莉子さんが犠牲になった。裁判で5年の禁固刑を言い渡された飯塚被告(90歳)が昨日拘置所に収監された。収監に際し飯塚元被告は、関係者を通じ「裁判では無罪を主張させて頂きましたが、証拠及び判決文を読み、暴走は私の勘違いによる過失でブレーキとアクセルを間違えた結果だった」と自らの過失を初めて認めた。最初は、車のせいと言っていたが、ブレーキとアクセルの踏み間違えという、高齢者ゆえの誤作動であった。彼が否を認めても、真菜さんも莉子さんも生き返らない。

 車も包丁も年寄りには、危険な物だ。どれほど自分が気をつけていても、手足や脳が誤作動を起こす。身の程をわきまえ、行動に制限をかす時がきている。自分を傷めることがあっても、これからの若い命を奪うことは、絶対に避けるべきである。自分のどの行動が、若い人や他人様を傷める可能性があるのか。その行動をやめるためには、どうすればよいのか。待ったなしの問題である。


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