団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

メイドインジャパン

2021年05月26日 | Weblog

  以前ローマの土産物屋で店主にハグされた。私はステーキ用の良く切れるテーブルナイフを買おうとしていた。「日本人?」と聞かれた。「何探してるの?」「良く切れるテーブルナイフ」「良いのがあるよ」 そう言ってドイツ製のナイフを数種類見せた。「できればイタリア製が欲しい」と私が言うと、店主は店の奥へ入って行った。木製の箱に入ったナイフのセットを嬉しそうに持って戻って来た。6本セットで2万円くらいだった。(日本では5本だが欧米は6本が1セット) 気に入ったので買うことにした。店主は、袋に入れて手渡すとき「お前はいい奴だ。イタリア製と言ってくれるなんて。日本人は皆、ゾーリンゲンやヘンケルを欲しがるんだ」と言いながら軽く抱擁してくれた。私は抱かれて彼の肩をポンポンと叩いた。とても良い気分になった。客も喜び、売り手も喜ぶ。これが商売の基本だろう。今でもこのナイフは大切な客に使ってもらう。

 どの国の人も自分の国の製品、私ならメイドインジャパンを褒められれば嬉しいものだ。メイドインジャパンと言って喜ばれる製品はずいぶん減った。中国がまだ竹のカーテンの中にあって、人民服を着た国民が、自転車で行き来していた時代が、メイドインジャパンの最盛期だったのかもしれない。中国が世界の工場と呼ばれるようになると、あれよあれよという間に世界中にメイドインチャイナが溢れるようになった。妻の海外勤務について暮らしたネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアの任地が変わるたびにメイドインジャパンの衰退を目にした。ネパール時代は、まだ日本も元気だった。セネガルで中国の進出が目立ち始めた。旧ユーゴスラビアで中国製品や韓国車、韓国家電攻勢を意識した。チュニジアでは、どこの店をのぞいても、すでにほとんどの家電製品は韓国製だった。海外でもメイドインジャパンの存在が薄れていた。日本に帰国するたびに、悲しくなるくらい日本は不景気の度合いを深めていた。

 日本に戻って暮らし始めた。今度は今までに暮らしたことのある国々の製品を見つけると嬉しくなって買うようになった。しかしその数は少ない。ネパール製品は、工業製品などなく、民芸品が主体である。セネガルも同じ。旧ユーゴスラビアも。チュニジアはと言えば、先日成城石井でデーツ(ナツメヤシ)を買った。いつもはサウジアラビア産だったが、袋のデザインが違うのを買ってみた。何とチュニジア産だった。訳もなく嬉しくなった。ハチミツもいろいろな国のモノがあるが、やはり留学したカナダ産を選んでしまう。

 運転免許証を返納しようかと迷いながら、車をトヨタのヤリスを買った。純国産車だと思っていたが、タイヤは韓国製だった。テレビもソニーを買ったが、液晶パネルは韓国製。もうメイドジャパンにこだわる必要はないようだ。何を買っても、中の部品はバラバラな国のもの。ブランド、生産国名なんてマボロシ。そんなことにこだわっていた自分が情けない。人間はまだまだだが、モノは、とっくの間に国際化をとげているようだ。

 


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