6月16日日曜日早朝、大阪府吹田市の交番で警官が包丁で刺され拳銃を強奪された。また嫌な事件が起きたと重い気持になった。
テレビでは現場中継され大変な騒ぎになっていた。吹田市といえばすぐその近くの豊中市に友人家族が住んでいる。テレビで示された地図では犯行現場と友人宅は近い。何度も友人宅を訪ね泊めてもらっている。心配と妄想が駆け巡った。犯人は奪った拳銃を持って逃走している。電話をするべきか迷った。
午前10時頃、家のインターフォンが鳴った。宅急便だった。2個。長男と長女からの“父の日”のプレゼントだった。私は自分が二人の子供にとって、良い父親でないことを十分承知している。そんな私に気をつかっている子供を不憫に思う。
その日の午後、警察がニュースで犯行現場の交番の防犯カメラに写っていた犯人らしき男の写真を公開した。それを観たある男性が自分の子供によく似ていると警察に連絡してきたという。感じる、思うことは、誰にでも容易にできる。問題はその後である。私も拳銃強奪事件の後、拳銃を持って逃げている犯人が友人家族に危害を加えたらと心配した。でも電話をかけられなかった。
結局、交番の防犯カメラに映っていたのは自分の子供がかもしれない、と連絡してきた父親の子供が犯人だった。父親の一報が警察の捜査に大きな進展をもたらしたことは、まごうことなき事実であろう。父親として自分の子供が、凶悪事件を犯したなどと思いたくはない。私もそんなことがあれば、子は子、親は親で私は関係ないと逃げるに違いない。ましてや父の日という、年に一度父親も家族にいるんだと再認識してもらえる特別な日の出来事だった。さらにこの日は犯人の父親の誕生日だった。あの日警察に「自分の子供かもしれない」といったいどんな気持ちで電話したのであろう。元農林水産省の事務次官が、自分の子を包丁で刺し殺した事件の父親の気持ちに通ずるものがある気がする。あの事件を知った時、ミッシェル・オーディアールは「知らない人を殺すことは、いつでもやや厄介な面がある。それに対して家庭内の殺人は正当で伝統的で、ブルジュワ的だ。それにそれの方がやはり品がある。」を思い出した。私には難解ではあるが、何となく理解できる気もする。また北畠親房が『神皇正統記』で「父として不忠の子を殺すは理なり、父不忠なりとも子として殺せという道理なし」とも言っている。一人の人間として生まれて、男だ女だ父だ母だ兄だ弟だ姉だ妹だ親戚だといろいろな肩書分類が付きそれが重圧となり人生を狂わせる。
私自身は、子供たちの母親と離婚して子供につらい思いをさせた。その罪悪感はぬぐえない。私に彼らに償おうという気持ちがあっても彼らがそれを受け入れているか否かはわからない。じっくり話したこともない。お互いに核心に触れずにやり過ごしてきている。最後までこのままであろう。私は子供が大学を卒業するまではと父親としての責任を果たそうと努めた。自立していまはそれぞれ家庭を持った。私の出番はない。子供も自分の家族を第一として、私と会うのは年に1,2回である。それで良い。父の日に私を想い、贈り物をしてもらえるだけありがたい。
私たちは勝手に“世間”を自分の中で構築している。その自分で作った世間に縛り付けられて身動きできなくなってしまう。“父”という有象無象な理想を追うのをやめて坐禅をするように自分に戻り向き合う。「私はだあれ、ここはどこ」は自分と向き合う原点だ。答えは出ない。でもそういう時間を作くることができれば、私の生き方も変わる。自分に向き合う時、私は強くなれる。
父は父、子供は子供としてそれぞれがひとりの人間である。父の日の私の反省:『親は厄介者である。私が言いたいのは世の中の事情に通じている親、すなわち職業や就職口のことをよく知っていて、前もって子供のために何が良いかがわかっており、彼が生き残ろうと死のうとそこに到達するために戦う親である。…彼らは自分の子供に自身を投影し、自分の立派な野心、自分の流産した夢を子供に託したのだ。…』 フランソワ・カヴァンナ