映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

2009年12月13日 | 邦画(09年)
 「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を渋谷のシネクイントで見ました。

 予告編で品川ヒロシがすごくいい感じを出していて、これは面白そうな映画だと思ったので、早速見に行ってきました(品川ヒロシが監督した「ドロップ」が思い出されます)。

 主人公・小池徹平が、ニートを脱却してやっとのことで就職したのがIT産業の底辺を構成する零細ソフトウエア会社。高校中退で閉じこもり生活を長く続けていた主人公は、それでもプログラマーの資格試験(おそらく「情報処理技術者試験」でしょう)に通っているので、なんとかこの会社にも正社員として就職できたようです。
 ですが、その会社の5人の社員は一人を除いてどうしようもない者ばかり。主人公は、入社早々、とても出来そうもない仕事の山をリーダー・品川ヒロシから押しつけられたりして、すぐにも辞めようと思ったところ、唯一のまともな先輩・田辺誠一からいろいろサポートを受けたりして、結局はこの会社で頑張っていこうと決意するに至るといったストーリーです。

 主役の小池徹平は“草食系”とされ〔「2009 ユーキャン新語・流行語大賞」において「草食男子」で受賞〕、まさにうってつけの役柄を大変うまく演じており、また品川ヒロシなども持ち味をよく発揮していると思いました。
 甚だ現代的な話題をコメディータッチで描いていて、まずまずの出来栄えと言えるでしょう。

 ただ、この会社で社員は実際には何を具体的にやっているのか、上の会社から要求されていることは実際にどんなことなのか、なぜ徹夜を続けなくてはならないほど忙しいのか、それほど忙しいにもかかわらず社員は高給を食んでいるとは思えないのはどうしてなのか、などの点、要すればブラック会社の実態が、この映画で十分描き出されているとは思えません。

 加えて、産業の底辺を形成するこうした企業は、なにもIT産業だけでなく他の産業にも見出され、様々のシワ寄せがそうした企業で働く若い従業員に及んでいます。
 それを解決すべく、政府が、最低賃金の引き上げとかサービス残業の規制(あるいは製造業への派遣の禁止など)を行ったとしても、上の企業からの高い圧力は変わりませんから、闇に逃げるか、正規社員を派遣等に切り替える(最終的には海外へ出ていく)かして、そうした企業は逃げおおせてしまうでしょう。
 とすると、そういう職場にしか行きようがない若者(フリーターやニートの生活から脱却しようとする者も含めて)は無限に我慢するほか仕方がないことになってしまいます。

 ですから、こうした映画で何か教訓めいたことを読み取ろうとしても、それはお角違いだと思われます。なにしろ、仕事の実態は類型的・表面的にしか描かれてはいませんから。

 にもかかわらず、こういう笑い飛ばすしか対応のしようのない映画を見て、前田有一氏は、この映画の「素晴らしいところ」は、「いま、若い人たちに必要な」こと、すなわち「「働くものの心構え」を表現している」点で、その「心得」とは、「社会に出るものは、強く、たくましくなければいけない」ということであり、「その強さを身に着けるための時間が残っている若い人たち」に「ぜひ本作の鑑賞をすすめたい」と、一人でシャッチョコばってしまうのです。
 「働くものの心構え」が足りないから、今の若者の姿になっているというのでしょうか?「強く、たくましく」さえあれば現状から脱却できるというのでしょうか?

 世間知らずの者が、わかったようなことを述べてしまいましたが、中年過ぎの評論家たちがこういう映画を見て何か教訓めいたことを言ったりしているのを見て、少しチョッカイを出してみたくなってしまいました。

 なお、前田氏以外の「映画ジャッジ」の面々は、次のようです。
 福本次郎氏は、「社員数人の小さな企業でよくもこれだけ非常識な人間が集まったかと思えるほど、先輩社員は不思議な人ばかり」だが、「彼らの過剰な言動にユーモアのあるオチが用意されているわけでもなく、コメディとしても中途半端なもどかしさを感じてしまう」などとして40点しか与えません〔いうまでもないことながら、「軍隊や「三国志」といったデフォルメされた彼の心象風景がいちいち押し付けがましくて興を殺ぐ」との評価を下すような人は、始めからこの映画を見なければいいのです!〕。

 ですが、他方で、
 渡まち子氏は、「思わず、山崎豊子センセイに小説化してもらいたくなる業界の実情なのだが、映画はあくまでも軽さを忘れない。ここが若者にアピールできる点だ」と、相変らず手堅い論評で65点を、
 小梶勝男氏は、「 「キサラギ」でワン・シチュエーション・コメディーに手腕を見せた佐藤祐市監督は、本作でも非常にテンポよく物語を進めて行く。よどみのない語り口は見事といっていいだろう」として69点を、
 佐々木貴之氏は、「ブラック会社の厳しさ、ダルさ、腹立たしさを描く一方で面白可笑しさを押し出し、テンポ良く描いて魅せつけた一級のエンターテイメント作品として仕上がっている」として75点もの高得点を、
それぞれ与えています。

 小梶氏や佐々木氏が言うように、この映画は、コメディーとして、あるいはエンターテインメントとして楽しむべきではないかと思います。


象のロケット:ブラック会社
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パリ・オペラ座のすべて

2009年12月09日 | 洋画(09年)
 「パリ・オペラ座のすべて」を渋谷のル・シネマで見ました。

 この映画は、邦題や予告編から、オペラ座の内部のみならず、それを中心としたパリ市内の様子がよくわかるように描きだされている名所案内風のドキュメンタリー映画なのかな、と思い込んでいて、それならパリに関心がありますから見てみようかなと映画館に出かけたわけです。

 ところが、実際に映画を見てみますと、ドキュメンタリー映画には違いないのですが、全編ほとんどバレーのことしか描かれておりません。それも説明は一切なしに(バレーの曲名は画像に現れますが)、専らバレーの練習風景が延々と2時間以上も(160分)映し出されるのです。
〔20歳でエトワールに抜擢されたマチュー・ガニオを見たいなとも思っていたのですが、ダンサーの紹介は一切なされないので、出演していたに違いないのですが判別できませんでした〕

 それで、タイトルをよく見てみますと「LA DANSE: LE BALLET DE L’ OPERA DE PARIS」とあり、映画の内容は原題にまさに忠実なのです!

 にもかかわらず、土曜日でしたがル・シネマは各上映回とも満席なのです(早めの順番の整理券を確保しようとすれば、上映時間の2時間以上前にチケットを購入する必要がありそうな様子です)。
 ということは、それだけ日本にはバレー・ファンが多いのかなとも思いました。ただ、バレーを現に習っている感じの観客が多いわけでもなく、また元々バレー音楽は、大きな陰りを見せているクラシック音楽のさらに一部なのですから、実際のところよくわからないところではあります。

 ですが、ですが、映画の方は、こちらの期待に反してバレーの練習風景が主に描かれるものの、それ自体として見れば、内容的に本当に素晴らしいものがあります!

 特に、現代バレーの「ジェニス」(ダーウィンの進化論がベースとされますが、特別なストーリーはありません)の場面は、著名なイギリス人振付家ウェイン・マクレガーの力のこもった指導ぶりが見られ(振付をしながらも、どんどん新しいアイデアが生まれてきます)、また人間の体はこのように動かすこともできるのだ、まだまだ肉体による表現の可能性は残っているのだということを目の当たりにでき、感動的してしまいました。

 また、「メディアの家」(ギリシア悲劇「王女メディア」に基づく)では、子殺しの場面が出てきますが、実際にバケツに入っている赤色の水を子役の頭からかぶせるのには驚きました〔ただ、ここまでリアルにやってしまうと、踊りを本質とするバレーの良さが失われてしまうのでは、という気もしますが〕。

 「パキータ」(ジプシー娘がフランス将校とめでたく結ばれるというロマンチック・バレー)の練習で、一人のバレリーナが「フェッテ」という回転を実に何回も行うのには驚きました〔フィギャー・スケートの4回転とはまた違った難しさがあるのでしょう!〕。

 他にも「くるみ割り人形」などの練習風景も映し出されましたが、それはそれでこのバレー団の伝統を感じさせるものです。

 このドキュメンタリー映画のもう一つの見どころは、こうした練習風景と練習風景との間に、スタッフたちの働きぶりも描き出されている点です。

 特に、バレエ団の芸術監督(ブリジット・ルフェーヴル)の八面六臂の活躍ぶりには圧倒されます。
 この映画では、それが次のような場面がいくつも挿入されて、実に具体的に描き出されているのです。振付家とダンサーの選定に当たること、ダンサーからの相談事を聞くこと、大口寄付者(破たんしたリーマンブラザーズの名前が挙がっていたのには苦笑させられました)の満足をいかにして確保するかを考えること、ダンサーの意識改革によってその技術的レベルアップを図ろうとすること、年金改革の説明をダンサーたちに受けさせること、等々。
 150名のダンサー等から成るパリ・オペラ座をうまく運営するべく、芸術監督がいかにありとあらゆることをこなそうとしているかが如実に分かります。

 それに、オペラ座の地下にある大きな水路とか、屋上で行われている養蜂などまでも満遍なく映し出されるわけですから、そういう点からすれば「パリ・オペラ座のすべて」というタイトルであっても、あながち間違いというわけでもなさそうです。


象のロケット:パリ・オペラ座のすべて
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脳内ニューヨーク

2009年12月07日 | 洋画(09年)
 「脳内ニューヨーク」をシネマライズで見てきました。

 「パイレーツ・ロック」でさすがと思わせる演技を披露していたフィリップ・シーモア・ホフマンをまたまた見ることができるというので、早速映画館に足を運んだ次第です。

 ですが、この映画は、これまで彼が出演した映画とか予告編から期待したのとは大違い、なんともかとも言い難い作品となっています。
 正直言ってほとんど何も理解できないものの、オシマイまで眠らずに見たのも事実です。強いてまとめようとすれば以下のようになるのでしょうか?

 映画の最初の方は、劇場でアーサー・ミラー作の「セールスマンの死」の制作にあたっている演出家・ケイデンを描いていて、その劇の方は、幕が開くと批評家の評判もよく成功します。ところが、フィリップ・シーモア・ホフマン扮する演出家が気を良くして家に帰ると、画家の妻との間がどうもうまくいっていないようで、突然、彼女が子供を連れてベルリンで開催される自分の個展の方に行ってしまいます。

 こうして主人公がニューヨークに一人取り残されるあたりから、様々な場面が入り乱れて、見ている方は途方にくれることになります。
 ケイデンは、突然、手がけてきた劇の上演が賞賛されて多額の賞金の付いた賞を受賞することとなり、それを資金として、自分が前からやってみたいと念願していた劇の制作に取り掛かります。
 ソレが途轍もない話で、マンハッタンにある巨大な倉庫を購入し、その中にニューヨークの街のセットを作り、そこで自分自身の真実の人生をありのままに描き出そうとするわけです。

 といっても、映画は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすること、一貫した筋立てを壊すことに興味を見出しているようですから、こんな風なまとめを続けてても何の意味もないでしょう。

 評論家の意見もまちまちです。
 渡まち子氏は、「内と外が曖昧になる世界観がある種の到達点に至った作品と言える。さっぱりワケがわからないが、いつしか独特のイマジネーションに絡みとられる」等として65点を与えていますが、岡本太陽氏は、「タイトルが指す様に『脳内ニューヨーク』は概念的な作品であり、それを描いた事によりまとめきれない混乱が生まれる。チャーリー・カウフマンは素晴らしい脚本家だ。しかしこの映画を観る限りでは、監督としては良いとは言えないのではなかろうか」と、随分と舌足らずな評価を下しています。
 他方、山口拓朗氏は、「この世のミクロからマクロまでを包み込むかのような不思議さをもつ、知的で野心的でイマジネーションに富んだ1本だ」として70点の高得点を付けています。

 福本次郎氏は、例によって「この映画を観終わっても長く退屈なイマジネーションのトンネルを抜けただけという印象はぬぐい切れなかった」と40点を与えるにすぎません。
 ただ、同氏が、「秋分の朝、奇妙な違和感で目覚めたケイデンは額に大けがをする。外科、眼科、神経科とかかるうちに世界が少しずつ歪んでいく。彼の幻覚はこの時点で始まったと解釈すべきだ。本物の彼はその怪我がもとで生死の境をさまよっていて、後の演出家としての行為や家族との別れなどはすべてケイデンの脳内現象」だとする見解は傾聴に値するのではと思います。

 朝、顔を洗っているときにケイデンの額に水道栓がブチ当たりますが、そこからはすべて彼の「脳内現象」だとすれば、あのぐちゃぐちゃの映像もわからないでもないな、という気がしてきます(なにしろ、額のケガの後に酷い痙攣を引き起こすのですから、無事でいるはずがありません!)。
 だいたい、17年たっても上演に至らない劇など考えられませんし、全身に刺青を彫られたわが娘を目の当たりにしたり、自分を演じていた俳優が飛び降り自殺をしてしまったりと、脈絡なしにめまぐるしく場面が変化しますが、「生死の境をさまよってい」る演出家の脳内で起きているイメージとすれば、筋を辿ることは一切放棄して、各場面ごとに読み取れるものだけを読み取っていけさえすればいいのではないか、と思えてきます。

 ここで一つ問題にしたらどうかと思っている点は、演出家ケイデンが、妄想の中にせよ、真の演劇は実生活そのものだ、と考えていることです。自分が制作している劇においてケイデン役を扮する俳優に対して、ケイデンが、そこは違う、そんなことは考えない、などと様々なダメ出しを行います。
 確かに、近代演劇は、リアルなことを宗として人間のありのままを描き出そうとするところから出発しているとされます。ですが、演劇にせよ、映画にせよ、役者(あるいは俳優)が演じるものですから、どんなにリアルにしてもその時点ですでに現実との乖離が始まっていると言えます。ですから、あとは程度問題となるわけで、リアルな世界から離れたファンタジックな内容であっても十分に受け入れ可能となります。
 とすると、ケイデンが映画の中で見せている演出方法は、そもそもの始めから成り立たないものなのです。原理的に出来そうもないことをやろうとするから17年もかかっているのであり、しかしそんな長期にわたる劇の制作など考えられないですから、すべて生死の境をさまよっているケイデンの脳内現象と見た方が良さそうに思えてきます。

 なにはともあれ、大変気になる映画なので、DVDが出たらもう一度じっくりと見直してみようと思っているところです。

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黄金花

2009年12月06日 | 邦画(09年)
 「黄金花/秘すれば花 死すれば蝶」を銀座シネパトスで見ました。

 たまたま夜開催される会合までに時間的余裕があり、かつうまくマッチするのがこの映画しかないというだけで映画館に飛び込んでしまいました。
 観客数はせいぜい5人程度と、至極侘しい限りの館内でしたが、飛び込みで見た映画にしてはまずまずの出来栄えではないか、と思いました。

 この映画は、美術監督として名高い木村威夫氏が手掛けた長編第2作目のもの、木村氏は今年91歳になるわけですから、2008年に公開された新藤兼人監督の『石内尋常高等小学校 花は散れども』―監督95歳の最新作―に次ぐ、高齢の監督による映画作品と言えそうです。

 さて、新藤監督の映画は、小学校時代の恩師との関係をメインにしながら、自分の小学校時代から若手シナリオライターとして自立するまでを独特のリアルタッチで映し出しています。
 他方、こちらの「黄金花」は、むしろ老人ホームで暮らす植物学者の有様が、他の老人仲間との関係のうちに描かれ、その中に監督自身の若かりし頃の思い出がかなりデフォルメされてファンタジックに映像化されています。
 両者のはらむベクトルは反対方向(垂直と水平、リアルとファンタジー)とはいえ、結局のところ、今では失われている良きものを描き出そうとする姿勢は同じではないか、と思いました。

 その良きものとは、新藤監督の映画の場合、たとえば恩師の類い稀なる人間性の大きさといえるかもしれませんが、木村監督では、自然との調和のとれた生き方といったものでもあるでしょう。
 この映画の冒頭に、必要以上の自然薯を人が掘り起こすと、山の神の怒りを買って山から湧き出てた水が枯れてしまうものの、それを元の土の中に戻すと再び水が湧き出すといったシーンがあります。おそらく、このシーンが映画全体を象徴していると思われます。
 ただ、これではあまりにも直接的すぎて、逆に観客の失笑を招いてしまうかもしれません。ですが、著名な牧野富太郎まがいの植物学者を原田芳雄が演じると、こんなシーンもなぜか説得力を持ってしまいます(今年の原田氏の出演作「ウルトラミラクルラブストーリー」「たみおのしあわせ」「歩いても、歩いても」が思い出されます)。
 それに、狩野芳崖描く悲母観音的な雰囲気をもった松坂慶子(発話障害を持った介護士長)が映画に登場すると、「黄金花」というタイトルも生き生きとしてきます(松坂慶子は、今年は「インスタント沼」などに出演していました―「大阪ハムレット」はDVDで見ました―)。

 ただ、老植物学者(原田芳雄)が思い出す青年時代の「戦後闇市」時代のシーンは、木組みに白いビニールを被せたものがいくつか置いてあるセットが設けられているだけですから(木村監督の得意とするところでしょう!)、中々分かり難いものとなっています。
 とはいえ、「悔恨」なしには思いだせない青年時代の話が中心になるので、こうした抽象的な映像もわからないでもありません。

 この「悔恨」は「老人」にとって鍵となる感情でしょう。植物学者が暮らす老人ホームの同居人は、皆何かしらの「悔恨」を伴う思い出を持っているようなのです。例えば、口の減らない老女「おりん婆さん」(絵沢萠子)は、堕胎を繰り返してしまったことを酷く悔やんでいたりします。

 ですが、こうした続きからはありきたりの結論に行き着きそうなので、このあたりで止めておきましょう。この映画には、つまらない結論を言い立てるには惜しいような小さなエピソードが、いろいろちりばめられているのですから!

 映画ジャッジの評論家では、服部弘一郎氏だけがこの映画を取り上げていて70点を与えています。
 とはいえ、服部氏は、「こうしたエピソード並列型の映画の場合、各エピソードをつなぐ大きなストーリーラインを設定しておくことが多い」が、この作品では「エピソード相互の結束がもっと緩やか」で、「各エピソードは「線」で固定されることなく、立体的に積み上がっている」とか、この映画は「老人たちの「過去」と「現在」の葛藤や相剋」を「とことんまで突き詰めた作品かもしれない」として、「人間は「今」を生きながら、じつは「過去」を生きている」とか述べていますが、そういわれても……という感じの評論です。

 なお、この映画には、松原智恵子が「小町婆さん」という役で出演しているところ、「婆さん」とはいえ吉永小百合と同年であり、かつ昔の風情を依然として保っているのには、いろいろな意味で驚かされました!



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ゼロの焦点

2009年12月03日 | 邦画(09年)
 「ゼロの焦点」を渋東シネタワーで見ました。

 かなり前のことになりますが、世田谷文学館で開催された「生誕百年 松本清張」展に行ったことや、また北野武が主演したTVドラマ「点と線」を見たこともあって、評判はともかくこの映画は見てみようと思っていました。

 映画は、ミステリー物としてとらえれば、中程で真犯人の目星がついてしまいますから、決して出来栄えが優れているとは言えないでしょう。
 室田儀作(鹿賀丈史)が罪をかぶって自殺する展開も、酷く唐突ですし、事件の展開に何ら影響を与えません。むろんこれは、妻の室田佐知子(中谷美紀)に対する愛の行為なのでしょうが、そこに至るまでのプロセスが余り説得力を持って描かれていたように見受けませんでした。それに、松本清張の原作においても、室田氏は自殺などしません(何も原作通りにする必要などありませんが)!
 さらに、鵜原禎子(広末涼子)の夫(西島秀俊)が、戦場で過酷な経験をしてきた割には、いともあっさりと画面から姿を消してしまうのも、気負って見ている者には解せない感じが残ります。

 とはいえ、この映画は、ストーリーもさることながら、まさに「女優3人の競演」というところが見所であって、そういう観点からすればなかなかヨク出来ているのではと思いました。
 広末涼子は、好演した10月の「ヴィヨンの妻」に引き続いて戦後すぐの女性を演じることになりますし、中谷美紀は、NHKドラマ「白州次郎」における瞠目すべき演技が忘れられません、木村多江も、「ぐるりのこと」の演技が印象的でした。
 そうした豊かなイメージを背後にもちつつ、それぞれの女優は、この映画でもなかなか好演しています。
 いうまでもなく、いまどきの女優が、「パンパン」だった過去を持つ陰のある女性を上手に演じるなんぞは土台無理でしょうから、あまり大きな期待を持ってはいけないところです。そういったところを差し引けば、中谷美紀も木村多江も、もてるものを十分に発揮していると思います。

 一番問題となるのは広末涼子でしょう〔「おくりびと」などでいつもお荷物扱いされてしまいますし、今度の映画に関しても映画評論家の間でかなり評判が悪そうです〕。ただ、“探偵役”としてはともかく、世事に疎そうな健気な広末涼子の雰囲気だからこそ、鵜原憲一(西島秀俊)も結婚して新しくやっていこうとする気にもなるのだ、と観客としてヨク納得できるところです。

 なお、この映画については、私としては、鵜原夫婦の新居が「祖師谷」とされている点や、「阿佐ヶ谷」が描かれている点にも興味を持ちました(ソレゾレ、私の巣穴からウォーキングできるところにあります)。

 とはいえ、前田有一氏が言うように、この種の映画でやはり問題となるのは、なぜ現時点でこのような映画―設定を昭和30年代として、あくまでもその時代を再現しようとする―を製作しなければならないのか、という点でしょう。いくら松本清張の生誕100年を記念するのだと言っても、それだけでは人は納得しません。
 確かに、この映画のストーリーからは、戦後すぐの状況設定でないとつじつまが合わないでしょうから、現代的視点と言うよりも、むしろ昭和30年代に可能な限りこだわって映画化しようとしたと考えられます。
 とはいえ、映画「Always-3丁目の夕日」のような場合には、過去の時点にこだわることで現代が失っているものをかえって浮き彫りに出来るという積極的意味があったでしょうが、「ゼロの焦点」の場合、そういったものが果たしてあるのか、「パンパン」の過去を持つ二人の女性を今時点で描くことにどんな意味があるのかなど、いろいろ疑問を持ってしまいます。

 最後に、評論家の意見を掲げておきますと、
 渡まち子氏は、「演出は非常に手堅く、物語も分かりやすい。3人の女優たちは、皆美しく存在感がある。ただ不満なのは、広末涼子の声とナレーションだ」として65点とのまずまずの評点を与えています。
 ところが、先に触れた前田有一氏は、「頭の悪そうなヒロインはある時点から急に聡明なサイヤ人となって名探偵ぶりを発揮し、お約束のヤセの断崖も登場、容疑者たちはペラペラと心の内を語り、締めは中島みゆきが流れる。もはや、サスペンス劇場のパロディである」などとして20点の酷く手厳しい評価です。

 中で特異な論評を与えているのは、73点もの高得点を与えている小梶勝男氏です。
 同氏は、「本作のクライマックスは、中谷美紀と木村多江の「対決」場面にある。だがそれは、実は広末涼子の「想像」として描かれるのである。さらに、その「想像」の中で、中谷と木村の「回想」が描かれる。想像の中の回想。一番大事な場面をこんな入れ子構造で描くのだから、「奇手」としか言いようがない」と述べています。
 ですが、いくらなんでも他人の「回想」の中身を「想像」することなどできない相談でしょう。確かに、この映画では“探偵役”の広末涼子の視点から大部分の場面が描かれているとはいえ、それだけで統一されているのではなく、客観的な第3者の視点(いわゆる“神の視点”)から描かれている場面も多くあります。ここも、「回想」の「想像」といった「入れ子構造」ととらえるのではなく、単なる「回想」シーンだと考えた方が無難なのではと思われます。


象のロケット:ゼロの焦点

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「皇室の御物(2期)」展(下)

2009年12月01日 | 古代史
 昨日取り上げました「三角縁四神四獣鏡」と同じ第一会場に、下図の「法華義疏」が展示されています。



この展示物に興味を惹かれたのは、そばのキャプション・パネルに「聖徳太子筆」と明記されていたこともあります。

イ)聖徳太子の事跡のみならずその実在性について、従来から疑問視されなかったわけではないところ、1999年に刊行された『<聖徳太子>の誕生』(大山誠一著、吉川弘文館)は、広範な論点から聖徳太子虚構説を強く打ち出しているため、大きな反響を呼びました。 

 同書で大山氏は、次のように述べています(P.5)。

聖徳太子に関する確実な資料は存在しない。現にある『日本書紀』や法隆寺の資料は厩戸王(聖徳太子)の死後1世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それ故、〈聖徳太子〉は架空の人物である。

 さらに、今回の展覧会で展示された「法華義疏」について、「現在宮内庁所蔵の『法華義疏』に貼付された紙には「此れは是れ大委国上宮王の私集にして、海彼の本に非ず」と記されている」が、「いつ貼付された紙かわからず、是によって聖徳太子の著作と信ずる勇気は、少なくとも私にはない」(P.37)と述べています。

 聖徳太子虚構説については、その後も様々な人がいろいろの観点から論陣を張っていて、素人が無闇に口を出すべきではないところ、単なる感想にすぎませんが、「聖徳太子」像として必要不可欠な基幹的な事項は何と何なのか、そしてそれらがどこまで否定されれば聖徳太子が実在しなかったと言えるのか、という点が曖昧なままに議論されているような気がします(注1)。

 それはさておき、「法華義疏」については、田中英道氏がその著『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所、2004.9)で引用する見解、すなわち、「文中には、文字の誤りが、訂正後の今もなお少なくなく、文字の順序の入れ替えを示す倒置法も多く見られることから、中国の学者(仏教者)が書いたものとは考えにくい」(P.72)とする見解に従い、「太子以外の著者はほとんど考えられない」(P.149)としておく方が無難ではないかと思われます(注2)。

ロ)ところで、前々日の記事で触れた書家・石川九楊氏の『日本書史』の第3章「古風とやさしさと」は、「日本に残る最も古い本格的な肉筆の書は、「法華義疏」(615年)である」と書き始められ、あらまし次のように述べられています。

「法華義疏」に見られる書きぶりの特色は、「縦画の起筆の力が、ないとは言わないまでも、弱」く、「その弱さが、右回転の力に主律される「法華義疏」の文字をもたらす」。
また、「「生」字の第3画など、強い垂直で書かれるべき縦画」でも「ほとんど垂直の画が出現せず、柔らかく回転する筆蝕の中に垂直に構成しようとする力が吸収されてしまってい」て「くっきりとした姿を現さない」。
もともと、「起筆の強さは決意と決断の象徴であり、また天を意識するところに垂直の力線は生まれ、垂直に画は書かれる」が、「その決意や決断と天を意識するところが、いかにも弱い」。
こうしたことから、「政治や思想という垂直軸、決意や決断が強く要求されることのない地方や社会―おそらく倭の書ではなかろうか」。
さらに、「筆尖と紙との接触と摩擦」に対して「微細な極微の神経」が使われていて、これは「中国の写経のように文字の字画を紙に確実に定着するという筆蝕の姿とは、少し違うように思われる」。
従って、「法華義疏」の書き手は、「聖徳太子であるか否かはわから」ないものの、「東アジアの、政治的にはいくぶんか穏やかな社会の、しかし接触感度の鋭敏な社会、中国の最尖端からはいくぶん遅れた社会の一級の知識人であるとは言えよう」。

 以上の石川氏の見解は、「書」として「法華義疏」を詳細に分析した上で得られた極めてユニ―クなものといえましょう。
 そして、石川氏が言う通りならば、「法華義疏」は中国から輸入したものであるとする大山氏らの説は成立しないことになるでしょう。

ハ)ここで若干話は逸れますが、「法華義疏」に関する石川氏の見解は、最近刊行された内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書、2009.11)にも通じるところがあり、大変興味深いものがあります。



 内田氏は、同書の目的は、「「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせようとする」ことだと述べ、さらには、その本でたくさん挙げられている事例の1つとして、昨日のブログで取り上げた邪馬台国の卑弥呼に触れて、日本列島に「最初の政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯のひとりとして認識していた」のであり、「列島の政治意識は辺境民としての自意識から出発した」のだ、と述べています(P.60)。

 内田氏に従えば、石川氏の見解は、「法華義疏」には「辺境性」がうかがえる、と言い換えることが可能なのかもしれません(注3)!

ニ)さらにまた、平岩弓枝氏の最新時代小説『聖徳太子の密使』(新潮社、2009.10)は、聖徳太子の命を受けて、その愛娘・珠光王女が、男装のうえで3匹の猫と愛馬を供に従えて西に向かうファンタジーですが(注4)、その小説の中で聖徳太子は彼らの出発に際し、「渺茫たる青海原の彼方には、わたしの知らぬ多くの国々があろう。そこには如何なる知識があり、如何なる文明が栄えて居るのか、人々はどのように生きているのか。もし、それらの国々に学ぶべきものあらば、生きて学び、その知恵の宝を我が国にもたらせぬものか」と言います(P.12)。



 こう述べられている聖徳太子の願望は、まさに内田氏の言う「辺境性」の表れと言えましょう!
 たとえば、同書において内田氏は、「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的地位が定まる。よその国が示す国家ヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える」などと述べています(P.38)。

 ちなみに、最近のオバマ米国大統領のアジア歴訪に関しても、大統領と鳩山首相との首脳会談の中身もさることながら、日本には24時間しか滞在しないのに、中国には3日も滞在する、これはオバマ政権の中国重視の表れだ、いいや日本訪問を第1番目にしているからむしろ日米関係重視だ、などとする報道が随分と流されました!




(注1)たとえば、大山氏は、津田左右吉博士の研究に全面的に従って、「憲法十七条」は捏造されたものであると主張しますが(前掲書P.75)、曾根正人氏が『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館、2007.3)で指摘するように、「『日本書紀』に見える憲法の文章に道慈の恣意的な筆がかなり入っていたとしても、それは憲法が存在しなかったという結論には直結しない」のです(P.22)。
 また、厩戸皇子まで否定するのなら話はわかりますが、この皇子の実在性を認めておいて、聖徳太子を否定することの意味はどこにあるのでしょうか。どのような人物でも、後世になって事績やエピソードなどが付加されることがありますが、こうした事情により、実在性が否定されるのでしょうか?
(注2)大山氏は、「法華義疏」を含む「「三経義疏」が中国製であることは、当時の日本の文化レベルを考えても当然すぎることと言えよう」と述べています(前掲書P.66)。また、大山氏の「聖徳太子虚構説」に批判的な曾根正人氏ですが、「三経義疏」については、中国製であり「成立してまもなく倭国にもたらされた」と主張します(前掲書P.168~P.169)。
(注3)もともと、石川九楊氏の『日本書史』の「序章」においては、「少なくとも明治維新以前の江戸時代までは、日本、朝鮮、ベトナムなどの東アジアの書史は、中国書史を厚みと高さと広さとする文化圏域に包摂され、その辺縁に小さな花を咲かせたにすぎない」などと述べられています(P.8)。
(注4)この時代小説のタイトルは「聖徳太子」となっていますが、本文ではすべて「厩戸王子」と表記されています。販売政策からでしょうか?


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