映画的・絵画的・音楽的

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日本語が亡びるとき

2009年04月29日 | 
 水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』については、アルファブロガーの小飼弾氏が「今世紀最重要の一冊」(08.11.9)などと強く推薦することもあって、ザッとながら目を通してみました。

①非常に大雑把に言えば、次のような内容です。  
 著者は、言葉を、〈普遍語〉〈国語〉〈現地語〉の3つのレベルから見ます〔「普遍語」とは、昔のラテン語や漢文のように、「書き言葉」として人類の叡智を集積する言葉。「国語」とは、当初は「現地語」(人々が巷で使う言葉)だった言葉が、翻訳を通して「普遍語」的に機能するようになった言葉〕。  

 その上で著者は、一方で、英語が「普遍語」になる時代を我々はこれから生きるのだとし、他方で、英語以外の「国語」は、放っておくと「話し言葉」としては残っても、叡智を蓄積する「書き言葉」としてはその輝きを失っていくのではないか、つまり「国語」そのものが「現地語」に成り果てる可能性が出てきたのではないか、と主張します。
 その典型的なのがフランス語とかドイツ語であり(注1)、日本語もあるいはそうなるかもしれないとしています。  

 どういう次第でそのように考えられるのか等ついては著書自体を読んでいただくこととして(注2)、別のアルファブロガー池田信夫氏は、本書について、「つまらなかった」とハッキリと断定し、「このまま放置すると英語が〈普遍語〉になり、日本語が〈現地語〉になって、日本文学が亡びるので守らなければいけないということ」と要約した上で、「これは認識として間違っている」と勇ましく批判します(08.12.4)。  

 しかしながら、その要約は本書の主張とは基本的にズレており、さらに池田氏は、「著者は「日本文学の衰退」をしきりに憂えるが、私はローカルな文化としての日本語は衰えないと思う」と述べます。  
 ですが、その「日本語」の水準こそを水村氏は問題にしているのだ、と考えられます(水村氏の「国語」の概念を池田氏はヨク理解していないのでは、と思われます)。コメント欄で、「文学なんてしょせん娯楽」でしかないと経済学者・池田氏が決めつけているところからしても、文学者・水村氏との距離は相当大きいものがあると言わざるを得ません。

 (注1)哲学で言えば、フランス哲学は、デカルト、パスカル、…、ベルクソンを繰り返し取り上げることで食い繋いでいるのでしょうし、ドイツ哲学も、カント、ヘーゲル、…、ハイデガーでなんとか糊口を凌いでいるのでしょう。とはいえ、そういったものももう少ししたら、すべて英米哲学(分析哲学など)によって蹂躙されてしまうのかもしれません。
(注2)要すれば、“叡智”を持った有能な日本人は、自分の見解等を発表する場合に、それをわざわざ日本語で書いたりせずに、初めから英語で書いて世界に向けて発信してしまい、日本語では他愛ない話しかしなくなる(その結果、日本文学はつまらないものになってしまう)のでは、ということだと思われます。

②上記の水村氏の著書に対して、次号で休刊する雑誌『諸君!』5月号には、埼玉大教授・長谷川三千子氏の「水村美苗氏の「日本語衰亡論」への疑問」なる論考が掲載されています。  

 長谷川氏によれば、水村氏は、「国語」とは、当初は「現地語」(人々が巷で使う言葉)だった言葉が、翻訳を通して「普遍語」的に機能するようになった言葉だとしているが、どうも「翻訳ということを、とても素直に大人しく、「普遍語」のもつ「叡智」をうやうやしく受け取る作業、と思い描いてい」るのではないか、そうではなくて、「「翻訳という行為」は「普遍語」を批判し、それに挑戦状をつきつける行為であると同時に、それを通じて新たな自己認識を得るという行為」なのだ、そういう点からすると、我々日本人は「本当に「国語」を築き上げたといえるのだろうか、という疑問と反省がうかび上がって」くるのであって、「「21世紀が「英語の世紀」であるかどうかなどということは、本質的な問題では」ないのだ、云々と主張します。  

 実に面白い論点で、これに対して水村氏がどのように答えるのか興味津々たるものがあります(とはいえ、長谷川氏は、余りに大上段のところから批判しているようにも思われますが)。

③また、文芸評論家の小谷野敦氏も、近著の「『こころ』は本当に名作か」(新潮新書)の「あとがき」において水村氏の著書に触れ、「水村氏がこの本に書いていることのうち、歴史的事実についは、私には殆ど既知の事柄」であり、また「もうすでに、エリートは文学など読まなくなっているのだが、大学で教えていない水村氏の議論は、だいぶ暢気なもの」だなどと難癖を付けています。  

 ただ、確かに、実社会で活躍している様々な分野のエリート(またその候補生である大学生たち)は、余り文学などを読まなくなっているのでしょう。としても、彼らが使う法律学、経済学、物理学等々で使われている日本語は、これまで築き上げられてきた「国語」によっていて、そのレベルの維持が危殆に瀕しているならば、彼らのエリートととしてのポジションも危うくなっていると言えるのかもしれません。  

 なお、小谷野氏の著書「『こころ』は本当に名作か」は、このところ『こころ』などを持ち上げる人が増えてきている風潮に逆らって名作ではないとキッパリと主張していて、大層面白い本ですが、そうだと思う面もある一方で(芥川龍之介の短編は「文学作品としては道徳的に過ぎる」との指摘など)、トーマス・マンの「魔の山」とか樋口一葉などを貶すところは賛成しかねます。  

 尤も、どの小説が良く、どの小説が気に入らないのかを正直に言うと、その人のそれまでの経験とか性向などが如実に表れてしまう、という点はまさにその通りだ、と思いました(このところドストエフスキーの新訳が大層もてはやされている傾向に対して、キリスト教徒(それもロシア正教徒)としての体験がなければトテモ共感できない作品を、本当に日本人は受け入れているのだろうかと疑問を呈しています。確かに、彼の作品がつまらないと思う輩は文学がわからないのだという風潮があったがために、大昔ですが、共感などは覚えないながら皆がこぞってドストエフスキーの長い小説を読んだという側面は否めないところでしょう!)。