『ウッドストックがやってくる』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。
(1)この映画は、題名からすると、1969年に開催された「ウッドストック・フェスティバル」を描いたもののように思ってしまいますが、実際には、ある青年の自立に至る物語であって、同音楽祭は、むろん大きなウエイトは占めてはいるものの、背景の一つにすぎません。
なにしろ、最後に至るまで、この映画の主人公エリオットは、会場のただ中に入ってロックを聴くに至りませんし、実際の演奏状況を写した映像も画面で一切見られないのですから!
ストーリー自体は単純で、主人公のエリオット(ディミートリー・マーティン)は、デザイナーでもあり画家でもありますが、自分の故郷のウッドストック(注1)で両親が経営するモーテルの窮状を見かねて、その再建に奔走し、ついにはウッドストック・フェスティバル開催に関与するに至るというわけです。
開催までの作業過程で、次第に彼は、自分自身のことを身に沁みて自覚するようになっていきます。
まず、ロシアから亡命してきたユダヤ人の子供であること。
世間から爪弾きされているヒッピーが大挙して集まるフェスティバルを開催しようとしていることで、地元に長く住んでいる者から、“このユダヤ人めが!”と激しく敵視されてしまいます(注2)。エリオットにしてみれば、寂れゆく故郷の町を何とか立て直そうとして乗り出したにもかかわらず、なにも積極的にやろうとしない地元民によって人種的偏見の標的にされる結果をもたらしたことに衝撃を受けます。
次に、ゲイであること。
それまで何も意識してこなかったにもかかわらず、フェスティバル舞台作りを担当する技術屋と、ついにはベッドインするまでに至ります。また、両親の身辺を警護する者として、女装が趣味の元海兵隊員を雇いいれたりします。
そして、フェスティバル最中には、その自立を促す準備的な体験をエリオットはします。
・会場の様子を見に家を出ますが、ものすごい人混みと車の列の中を移動するものの、結局身動きが取れなくなってしまい、会場には辿り着けませんでした。
・フェスティバル会場をはるか遠くに臨む丘で、バンの中にいたカップルから、質の良いクスリをわけてもらい、サイケデリックな感覚を味わいます。
・大雨でできた泥んこの坂道を、友人のベトナム帰還兵らと泥まみれで心行くまで何回も滑り降ります。
この3つのエピソードのそれぞれでは、一見すると、同じことが何度も繰り返され、もっと端折ってもいいのではと思われてしまいがちですが(あるいは退屈してしまうかもしれません)(注3)、しかしながら、まさにそうした単調とも思える時間的経過があって初めて、エリオットは心の底から、親元を離れて自立しようとするのですから、とても端折ってしまうわけにはいかないでしょう。
ともかくも、こうして、エリオットは、都会に戻っていくわけですが、エリオットという一人の個人の自立の話を、ウッドストック・フェスティバルの中で綴っていくには、あまりにも後者が世界史的出来事であり巨大すぎる、という感じをまぬかれませんでした。
この映画の出演者のうち、主人公エリオットを演じるディミートリー・マーティンは、映画初出演ながら、ひょうひょうとした味のある演技をしています(下記画像の右側)。
また、彼の友人でベトナム帰還兵であるビリーを演じるエミール・ハーシュは、『イントゥ・ザ・ワイルド』(2008年)に出演していました。さらに、エリオットとサイケデリックな感覚をともにしたバンの若者を演じるポール・ダノは、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2008年)で若き神父の役を演じて、これまた強く印象に残っています。
(注1)実際には、ウッドストック・フェスティバルは、アルスター郡ウッドストックではなく隣のサリバン郡ベセルで開催されています。
なお、ウッドストックはリゾート地で、wikiによれば、ニューヨークとの関係が、日本の東京と軽井沢に類似しており、また「多くの文化人や芸術家が集まる所として有名」だとのこと。道理で、エリオットの両親が経営するモーテルに併設されている倉庫に、おかしな前衛劇団が陣取っているはずです。
(注2)ラストでは、母親が密かに大金を貯めこんでいることが見つかってしまいますが、母親は、「将来の不安」を訴えます。これは、ユダヤ人に対する迫害を目の当たりにしてきた者ならではの防衛本能の表れと解することができるでしょう。
(注3)なにしろ、人混みと車の列はどこまでも同じように連続して続いていますし、サイケデリックな感覚を味わうと言っても、エリオットの脳内感覚にすぎないものですし、泥滑りはこれでもかというくらいに何回も繰り返されるのですから!
(2)息子が親から離れて一人立ちするというストーリーは、上でも触れた『イントゥ・ザ・ワイルド』で極限的に描かれていました。
なお、父親と母親との関係について、エリオットは、ラスト近くで、「どうしてパパはあんなママと一緒になっているんだい」と疑問を呈します。というのも、母親は、いつもヒステリックで金もうけのことしか眼中にないような感じで、父親にもエリオットにも激しく当たり散らします。
これに対して、父親はいつも黙ってその言うことに従っています。
エリオットの自立についても、父親は十分な理解を示す一方、母親は「わがままばかり言って」と分かろうとはしません。
こんな有様を見て、エリオットは先の疑問を父親にぶつけるのですが、彼は「愛しているんだよ」と言うばかりです。
ここで連想されるのが、第144回の芥川賞候補作に選ばれた小谷野敦氏の『母子寮前』(文藝春秋、2010.12)です。
そこでは、あくまでも優しく母親に立ち向かうエリオットの父親とは違って、肺がんになった母親に向かって優しい言葉の一つもかけられない父親についての作者の激しい憤りが見られます(注4)。
(注4)たとえば、同書P.99では、次のような個所が見られます。
「その後、21日に再度がんセンターへ行くというので、私は、お父さんはついていってくれないのか、と電話口で質した。母はかすれた声で、「それがねえ……泣いて頼んだけど、やだって言うのよ」と言うので、私は再び怒りがこみ上げてきた。……、夜になって、弟に電話して、父の冷淡さを詰った。」
(3)映画評論家の村山匡一郎氏は、「映画はあくまで舞台裏から見たフェスティバル」を描きつつ、エリオットとその家族が再生していく姿を浮き彫りにする。3日間の祭りが終わった時、主人公は自由と希望の高揚感に浸りながら旅に出ることを父親に告げるが、その父親の表情も生き生きとしている。ウッドストックが個人の内面に変革の芽を与えたことを象徴するラストである」として★5つのうちの4つを与えています。
また、渡まち子氏は、「ウッドストックを描くという点では音楽的な物足りなさはあるが、エリオットという平凡な青年が、金儲けや名誉ではなく、人として成長する小さな変化を大切に思う人物だという視点が好ましい。すべてが終わった後の広大な土地がゴミの山となった光景は、文字通り“祭のあと”。監督のアン・リーもまた、伝説のフェスに遠くから熱狂した一人だったのだろう」として55点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:ウッドストックがやってくる
(1)この映画は、題名からすると、1969年に開催された「ウッドストック・フェスティバル」を描いたもののように思ってしまいますが、実際には、ある青年の自立に至る物語であって、同音楽祭は、むろん大きなウエイトは占めてはいるものの、背景の一つにすぎません。
なにしろ、最後に至るまで、この映画の主人公エリオットは、会場のただ中に入ってロックを聴くに至りませんし、実際の演奏状況を写した映像も画面で一切見られないのですから!
ストーリー自体は単純で、主人公のエリオット(ディミートリー・マーティン)は、デザイナーでもあり画家でもありますが、自分の故郷のウッドストック(注1)で両親が経営するモーテルの窮状を見かねて、その再建に奔走し、ついにはウッドストック・フェスティバル開催に関与するに至るというわけです。
開催までの作業過程で、次第に彼は、自分自身のことを身に沁みて自覚するようになっていきます。
まず、ロシアから亡命してきたユダヤ人の子供であること。
世間から爪弾きされているヒッピーが大挙して集まるフェスティバルを開催しようとしていることで、地元に長く住んでいる者から、“このユダヤ人めが!”と激しく敵視されてしまいます(注2)。エリオットにしてみれば、寂れゆく故郷の町を何とか立て直そうとして乗り出したにもかかわらず、なにも積極的にやろうとしない地元民によって人種的偏見の標的にされる結果をもたらしたことに衝撃を受けます。
次に、ゲイであること。
それまで何も意識してこなかったにもかかわらず、フェスティバル舞台作りを担当する技術屋と、ついにはベッドインするまでに至ります。また、両親の身辺を警護する者として、女装が趣味の元海兵隊員を雇いいれたりします。
そして、フェスティバル最中には、その自立を促す準備的な体験をエリオットはします。
・会場の様子を見に家を出ますが、ものすごい人混みと車の列の中を移動するものの、結局身動きが取れなくなってしまい、会場には辿り着けませんでした。
・フェスティバル会場をはるか遠くに臨む丘で、バンの中にいたカップルから、質の良いクスリをわけてもらい、サイケデリックな感覚を味わいます。
・大雨でできた泥んこの坂道を、友人のベトナム帰還兵らと泥まみれで心行くまで何回も滑り降ります。
この3つのエピソードのそれぞれでは、一見すると、同じことが何度も繰り返され、もっと端折ってもいいのではと思われてしまいがちですが(あるいは退屈してしまうかもしれません)(注3)、しかしながら、まさにそうした単調とも思える時間的経過があって初めて、エリオットは心の底から、親元を離れて自立しようとするのですから、とても端折ってしまうわけにはいかないでしょう。
ともかくも、こうして、エリオットは、都会に戻っていくわけですが、エリオットという一人の個人の自立の話を、ウッドストック・フェスティバルの中で綴っていくには、あまりにも後者が世界史的出来事であり巨大すぎる、という感じをまぬかれませんでした。
この映画の出演者のうち、主人公エリオットを演じるディミートリー・マーティンは、映画初出演ながら、ひょうひょうとした味のある演技をしています(下記画像の右側)。
また、彼の友人でベトナム帰還兵であるビリーを演じるエミール・ハーシュは、『イントゥ・ザ・ワイルド』(2008年)に出演していました。さらに、エリオットとサイケデリックな感覚をともにしたバンの若者を演じるポール・ダノは、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2008年)で若き神父の役を演じて、これまた強く印象に残っています。
(注1)実際には、ウッドストック・フェスティバルは、アルスター郡ウッドストックではなく隣のサリバン郡ベセルで開催されています。
なお、ウッドストックはリゾート地で、wikiによれば、ニューヨークとの関係が、日本の東京と軽井沢に類似しており、また「多くの文化人や芸術家が集まる所として有名」だとのこと。道理で、エリオットの両親が経営するモーテルに併設されている倉庫に、おかしな前衛劇団が陣取っているはずです。
(注2)ラストでは、母親が密かに大金を貯めこんでいることが見つかってしまいますが、母親は、「将来の不安」を訴えます。これは、ユダヤ人に対する迫害を目の当たりにしてきた者ならではの防衛本能の表れと解することができるでしょう。
(注3)なにしろ、人混みと車の列はどこまでも同じように連続して続いていますし、サイケデリックな感覚を味わうと言っても、エリオットの脳内感覚にすぎないものですし、泥滑りはこれでもかというくらいに何回も繰り返されるのですから!
(2)息子が親から離れて一人立ちするというストーリーは、上でも触れた『イントゥ・ザ・ワイルド』で極限的に描かれていました。
なお、父親と母親との関係について、エリオットは、ラスト近くで、「どうしてパパはあんなママと一緒になっているんだい」と疑問を呈します。というのも、母親は、いつもヒステリックで金もうけのことしか眼中にないような感じで、父親にもエリオットにも激しく当たり散らします。
これに対して、父親はいつも黙ってその言うことに従っています。
エリオットの自立についても、父親は十分な理解を示す一方、母親は「わがままばかり言って」と分かろうとはしません。
こんな有様を見て、エリオットは先の疑問を父親にぶつけるのですが、彼は「愛しているんだよ」と言うばかりです。
ここで連想されるのが、第144回の芥川賞候補作に選ばれた小谷野敦氏の『母子寮前』(文藝春秋、2010.12)です。
そこでは、あくまでも優しく母親に立ち向かうエリオットの父親とは違って、肺がんになった母親に向かって優しい言葉の一つもかけられない父親についての作者の激しい憤りが見られます(注4)。
(注4)たとえば、同書P.99では、次のような個所が見られます。
「その後、21日に再度がんセンターへ行くというので、私は、お父さんはついていってくれないのか、と電話口で質した。母はかすれた声で、「それがねえ……泣いて頼んだけど、やだって言うのよ」と言うので、私は再び怒りがこみ上げてきた。……、夜になって、弟に電話して、父の冷淡さを詰った。」
(3)映画評論家の村山匡一郎氏は、「映画はあくまで舞台裏から見たフェスティバル」を描きつつ、エリオットとその家族が再生していく姿を浮き彫りにする。3日間の祭りが終わった時、主人公は自由と希望の高揚感に浸りながら旅に出ることを父親に告げるが、その父親の表情も生き生きとしている。ウッドストックが個人の内面に変革の芽を与えたことを象徴するラストである」として★5つのうちの4つを与えています。
また、渡まち子氏は、「ウッドストックを描くという点では音楽的な物足りなさはあるが、エリオットという平凡な青年が、金儲けや名誉ではなく、人として成長する小さな変化を大切に思う人物だという視点が好ましい。すべてが終わった後の広大な土地がゴミの山となった光景は、文字通り“祭のあと”。監督のアン・リーもまた、伝説のフェスに遠くから熱狂した一人だったのだろう」として55点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:ウッドストックがやってくる
リンクも貼れませんので、コメントのみで失礼します。
伝説のフェス"ウッドストック"の熱狂と、1人の青年の成長を描きたいのは分かるのですが、
どうもエリオットに魅力を感じず、共感することができませんでした・・・
あえてライブシーンを映さない演出も分かるのですが、
やっぱりライブシーンは見たかったです。