『しあわせの雨傘』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。
(1)今更67歳のカトリーヌ・ドヌーブでもないのですが、昨年末に見た『隠された日記』がまずまずの出来栄えであり、これもまあ見ておいても損はしないのではと映画館に出かけてみました(彼女の出演作としては、もう一つ、恵比寿ガーデンシネマで『クリスマス・ストーリー』を上映していますが、これこそ今更クリスマスなんてという感じがして、行く気が起きません)。
この映画では、スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、当初、雨傘製造の工場を経営する夫ロベール(ファブリス・ルキーニ)から、単なる置物的存在に過ぎないとされています。娘からも、母のようにはなりたくない、と言われてしまいます。
ですが、実際の映像を見ると、とても「飾り壺(Potiche)」とは思えない、堂々たる貫禄がスザンヌには備わってしまっているのです。
また、映画の冒頭では、カトリーヌ・ドヌーブが、なんとジャージ姿で、自然の中をジョギングしている様子が映し出されます。ですが、あの体躯では、とても長くジョギングなどできそうもありません。すぐに膝とか足首を痛めてしまうでしょう。
というように(?!)、映画は、非常に不安定な場面から、長くはとどまってはいられないだろうと観客がスグに悟ってしまうような地点から始まります。
案の定、夫ロベールが、その余りの権威主義的態度に怒った労働組合によって監禁されたり、心臓病の持病が出て入院してしまったため、「飾り壺」のスザンヌが、夫の経営してきた工場の経営を急遽担うようになります。
すると、隠されていた経営の才が直ちに発揮され、経営陣と労働者との関係もすぐに好転してしまいます(この工場は、元々彼女の父親が経営していたのですから、それも納得できます)。
この時点でこの映画が終わったら、やや短目ながらもそれはそれとして面白い作品と受け止められることでしょう。
ですが、映画はそこでは止まりません。夫は退院すると、妻が用意した悠々自適の生活には目もくれず、元のポストに戻るべく秘密裏に様々な工作を行い、ついにはスザンヌから実権を取り戻してしまうのです。
としても妻の方は、隠されていた才能の花がすでに開いてしまったものですから、最早元の「飾り壺」的存在には戻れません。驚いたことに、もっと上の位、国会議員のポストを狙うに至るのです。さあこの結末はどうなることやら、……。
この映画はコメディータッチの作品であり、笑いを誘うシーンがたくさんありますし、カトリーヌ・ドヌーブが、映画の中で縦横無尽に活躍し、最後に歌まで歌ってしまうというオマケ付きですから、なかなか面白い作品と言えるでしょう。
ですが、映画全体として何か落ち着きの悪さを観客に感じさせるのです。
そう感じさせるのは、たぶん一つは、映画の時代設定が1977年とされていることからでしょう。なぜ、現代のお話としてはいけないのでしょうか?わざわざ30年前の設定にしなければならない事情が、作品の中にうまく見出せないのです。
無理やり想像すれば、家父長的な夫ロベールに代わって、カトリーヌ・ドヌーブのスザンヌが、家族の友愛、あるいは母親の愛という精神に従って労働者と接すると、労働者の方もそれではと受け入れてしまうのですが、そんな雰囲気がその時代には見出されたということなのかもしれません。
年代的には、ちょうど社会党のミッテラン大統領が就任する直前ですし(ジスカールデスタン大統領の末期)、その頃なら、共産党の市長(ドパルデュー)がいても、そして彼が経営陣と労働組合との仲裁に乗り出しても、おかしくないのでしょう(注1)。
ただ、女性の社会進出、それも経営者として夫より優れた才能を妻が示す、ということを描き出したいのであれば、わざわざ30年も前まで時代を遡らせずともと思ってしまいます(あるいは、フランスのフェミニズムの高まりが30年前に見られたのでしょうか〔注2〕?)。
それと、落ち着きの悪さを感じさせる今一つの点は、カトリーヌ・ドヌーブによって社長の座を奪われた夫が巻き返して、元の通り社長に返り咲く一方、妻の方は国会議員選挙に出馬するという、後半のストーリー展開が、前半とうまくつながるようには思えないことです。
だって、「飾り壺」とされた妻が、経営者になるやその隠れていた才能を発揮して縦横に活躍するというだけでも十分に面白いストーリーですし、映画製作の目的はそれで十分に達成されているように見えますから!
要すれば、後半は蛇足ではないかと思えるのです。
としたところ、映画を見終わって劇場用パンフレットをパラパラ見てみましたら、「この映画の原案となったのは、10年ほど前にフランスで上演されたピエール・パリエとジャン=ピエール・グレディのブールバール劇(注3)「ポティッシュ」だ」とあり(河原晶子氏のエッセイ)、ただ、「演劇ではスザンヌが工場を引き継いで幕が下りる」のを、より「現代に通じる物語に変え」るべく、映画では、たとえば「夫が再び工場の支配権を握る」ようにしている(「Production Notes」)」とのこと。
なーんだ、道理で、後半部分が取って付けたような感じになっているわけです!
(注1)もしかしたら、この映画には、現代のサルコジ政権が推進する市場メカニズムに基づく米英流の競争政策に対する批判が込められていると捉えることが出来るかもしれません。例えば、スザンヌの娘婿が、工場の海外移転などの合理化策を提言すると、自分たちの職場がなくなると詰め寄ってきた組合側に対し、スザンヌはそんな提言は採用しないと明言したりしています。
ちょうど今の日本でも、小泉政権が推進しようとした市場主義に基づく構造改革に対する批判が巷に溢れているところ、この映画の雰囲気と類似していると言えないでしょうか?
(注2)このサイトの記事では、「1970年代のフェミニズム運動でフランスの女性は男性と同じ権利を手に入れた」とか、「女性は結婚したら家庭に入るというのが一般的だったのは1960年代まで。70年代後半からは子供がいても女性が働くのは当たり前」などと書かれています。
(注3)フランスで大衆に愛されてきた軽くて楽しいコメディ(同じ河原氏のエッセイより)。
(2)この映画は、もう一つ、奇異な感じを受ける点があります。
すなわち、ロベール一家の長男ローランは、父親の後を継ぐ気は全くなく、芸術家志望で、特にカンディンスキーを愛好しているとのこと。こんなところでどうして前衛画家の固有名詞が飛び出すのかなと訝しんでいましたら、スザンヌが工場の経営を担うと、ローランは雨傘のデザインを任され、そこまでは構わないとして、あろうことか彼は、カンデンスキーの絵をデザインに取り入れることをしでかすのです!
いったいどうしてカンディンスキーなのでしょうか?
結局のところは、よくわかりません。
ただ、ちょうど東京では、三菱一号館美術館で「カンディンスキーと青騎士」展(2010.11.23~2011.2.6)が開催中です。頭を冷やすためにも、ちょっと覗いて見ることといたしましょう。
としても、そんなことをしたらこの記事が長くなり過ぎてしまいます。続きは、明日掲載することといたします。
(3)渡まち子氏は、「エレガントなイメージのカトリーヌ・ドヌーヴのジャージ姿が見ものだが、それ以上に、平凡な主婦だと思っていたヒロインの意外な奔放さと底力にワクワクする」し、「飛躍した展開は、ミュージカルも顔負けのハイテンポだ。最後にはドヌーヴは歌まで披露してくれる。1943年生まれのこの大女優、全盛期と思われる時代は何度もあったが、ここにきて女優人生のハイライトが訪れているかのように、生き生きとしてみえる」として65点をつけています。
★★★☆☆
象のロケット:しあわせの雨傘
(1)今更67歳のカトリーヌ・ドヌーブでもないのですが、昨年末に見た『隠された日記』がまずまずの出来栄えであり、これもまあ見ておいても損はしないのではと映画館に出かけてみました(彼女の出演作としては、もう一つ、恵比寿ガーデンシネマで『クリスマス・ストーリー』を上映していますが、これこそ今更クリスマスなんてという感じがして、行く気が起きません)。
この映画では、スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)は、当初、雨傘製造の工場を経営する夫ロベール(ファブリス・ルキーニ)から、単なる置物的存在に過ぎないとされています。娘からも、母のようにはなりたくない、と言われてしまいます。
ですが、実際の映像を見ると、とても「飾り壺(Potiche)」とは思えない、堂々たる貫禄がスザンヌには備わってしまっているのです。
また、映画の冒頭では、カトリーヌ・ドヌーブが、なんとジャージ姿で、自然の中をジョギングしている様子が映し出されます。ですが、あの体躯では、とても長くジョギングなどできそうもありません。すぐに膝とか足首を痛めてしまうでしょう。
というように(?!)、映画は、非常に不安定な場面から、長くはとどまってはいられないだろうと観客がスグに悟ってしまうような地点から始まります。
案の定、夫ロベールが、その余りの権威主義的態度に怒った労働組合によって監禁されたり、心臓病の持病が出て入院してしまったため、「飾り壺」のスザンヌが、夫の経営してきた工場の経営を急遽担うようになります。
すると、隠されていた経営の才が直ちに発揮され、経営陣と労働者との関係もすぐに好転してしまいます(この工場は、元々彼女の父親が経営していたのですから、それも納得できます)。
この時点でこの映画が終わったら、やや短目ながらもそれはそれとして面白い作品と受け止められることでしょう。
ですが、映画はそこでは止まりません。夫は退院すると、妻が用意した悠々自適の生活には目もくれず、元のポストに戻るべく秘密裏に様々な工作を行い、ついにはスザンヌから実権を取り戻してしまうのです。
としても妻の方は、隠されていた才能の花がすでに開いてしまったものですから、最早元の「飾り壺」的存在には戻れません。驚いたことに、もっと上の位、国会議員のポストを狙うに至るのです。さあこの結末はどうなることやら、……。
この映画はコメディータッチの作品であり、笑いを誘うシーンがたくさんありますし、カトリーヌ・ドヌーブが、映画の中で縦横無尽に活躍し、最後に歌まで歌ってしまうというオマケ付きですから、なかなか面白い作品と言えるでしょう。
ですが、映画全体として何か落ち着きの悪さを観客に感じさせるのです。
そう感じさせるのは、たぶん一つは、映画の時代設定が1977年とされていることからでしょう。なぜ、現代のお話としてはいけないのでしょうか?わざわざ30年前の設定にしなければならない事情が、作品の中にうまく見出せないのです。
無理やり想像すれば、家父長的な夫ロベールに代わって、カトリーヌ・ドヌーブのスザンヌが、家族の友愛、あるいは母親の愛という精神に従って労働者と接すると、労働者の方もそれではと受け入れてしまうのですが、そんな雰囲気がその時代には見出されたということなのかもしれません。
年代的には、ちょうど社会党のミッテラン大統領が就任する直前ですし(ジスカールデスタン大統領の末期)、その頃なら、共産党の市長(ドパルデュー)がいても、そして彼が経営陣と労働組合との仲裁に乗り出しても、おかしくないのでしょう(注1)。
ただ、女性の社会進出、それも経営者として夫より優れた才能を妻が示す、ということを描き出したいのであれば、わざわざ30年も前まで時代を遡らせずともと思ってしまいます(あるいは、フランスのフェミニズムの高まりが30年前に見られたのでしょうか〔注2〕?)。
それと、落ち着きの悪さを感じさせる今一つの点は、カトリーヌ・ドヌーブによって社長の座を奪われた夫が巻き返して、元の通り社長に返り咲く一方、妻の方は国会議員選挙に出馬するという、後半のストーリー展開が、前半とうまくつながるようには思えないことです。
だって、「飾り壺」とされた妻が、経営者になるやその隠れていた才能を発揮して縦横に活躍するというだけでも十分に面白いストーリーですし、映画製作の目的はそれで十分に達成されているように見えますから!
要すれば、後半は蛇足ではないかと思えるのです。
としたところ、映画を見終わって劇場用パンフレットをパラパラ見てみましたら、「この映画の原案となったのは、10年ほど前にフランスで上演されたピエール・パリエとジャン=ピエール・グレディのブールバール劇(注3)「ポティッシュ」だ」とあり(河原晶子氏のエッセイ)、ただ、「演劇ではスザンヌが工場を引き継いで幕が下りる」のを、より「現代に通じる物語に変え」るべく、映画では、たとえば「夫が再び工場の支配権を握る」ようにしている(「Production Notes」)」とのこと。
なーんだ、道理で、後半部分が取って付けたような感じになっているわけです!
(注1)もしかしたら、この映画には、現代のサルコジ政権が推進する市場メカニズムに基づく米英流の競争政策に対する批判が込められていると捉えることが出来るかもしれません。例えば、スザンヌの娘婿が、工場の海外移転などの合理化策を提言すると、自分たちの職場がなくなると詰め寄ってきた組合側に対し、スザンヌはそんな提言は採用しないと明言したりしています。
ちょうど今の日本でも、小泉政権が推進しようとした市場主義に基づく構造改革に対する批判が巷に溢れているところ、この映画の雰囲気と類似していると言えないでしょうか?
(注2)このサイトの記事では、「1970年代のフェミニズム運動でフランスの女性は男性と同じ権利を手に入れた」とか、「女性は結婚したら家庭に入るというのが一般的だったのは1960年代まで。70年代後半からは子供がいても女性が働くのは当たり前」などと書かれています。
(注3)フランスで大衆に愛されてきた軽くて楽しいコメディ(同じ河原氏のエッセイより)。
(2)この映画は、もう一つ、奇異な感じを受ける点があります。
すなわち、ロベール一家の長男ローランは、父親の後を継ぐ気は全くなく、芸術家志望で、特にカンディンスキーを愛好しているとのこと。こんなところでどうして前衛画家の固有名詞が飛び出すのかなと訝しんでいましたら、スザンヌが工場の経営を担うと、ローランは雨傘のデザインを任され、そこまでは構わないとして、あろうことか彼は、カンデンスキーの絵をデザインに取り入れることをしでかすのです!
いったいどうしてカンディンスキーなのでしょうか?
結局のところは、よくわかりません。
ただ、ちょうど東京では、三菱一号館美術館で「カンディンスキーと青騎士」展(2010.11.23~2011.2.6)が開催中です。頭を冷やすためにも、ちょっと覗いて見ることといたしましょう。
としても、そんなことをしたらこの記事が長くなり過ぎてしまいます。続きは、明日掲載することといたします。
(3)渡まち子氏は、「エレガントなイメージのカトリーヌ・ドヌーヴのジャージ姿が見ものだが、それ以上に、平凡な主婦だと思っていたヒロインの意外な奔放さと底力にワクワクする」し、「飛躍した展開は、ミュージカルも顔負けのハイテンポだ。最後にはドヌーヴは歌まで披露してくれる。1943年生まれのこの大女優、全盛期と思われる時代は何度もあったが、ここにきて女優人生のハイライトが訪れているかのように、生き生きとしてみえる」として65点をつけています。
★★★☆☆
象のロケット:しあわせの雨傘
でも、この後半のドタバタとも言える展開が
イチイチ笑えて好きでした。
トラバを送らせて下さい。
ただ、この映画についての記事の中で、舞台が1977年に設定されていることについて違和感を覚えたと申し上げたのは、当時を知るフランス人がこれを見たら、さぞかしリアリティーを覚えるのでしょうが、その当時のことをマッタク知らない外国人には、もっと説明をしてもらわないと(記事の中でもアレコレと想像を逞しくしてみましたが)、どうしてわざわざそんなことをするの、現代のお伽噺・ファンタジーということでも十分ではないの、と思えてしまうからなのですが?
マア、こういうギャップは外国映画を見る場合には仕方がないとはいえ、元々この物語は、リアルさよりも、ファンタジックなコメディーというところが狙い目なのでしょうから、外国人にとっては、舞台がフランスということで十分であって、なにも時代設定までそんなに古くすることもないのでは、現代であっても、「あのド・ヌーブの品の良さが経営を良くしていく面白さが活き」るのでは、と思えてしまうのですが?
なお、「今、性格が良いだけで全従業員の信頼を勝ち取れるという幻想はリアルじゃなさすぎる」とありますが、だからこそ時代設定が30年前にされたのかもしれませんが、それにしても「ふじき78」さんは、フランスの状況、特にフランス企業の昨今の内部事情に随分と精通していらっしゃるのですね!
クマネズミには、特に企業の内部事情は、国により企業規模により経営形態により、相当ばらつきがあり、「ふじき78」さんがおっしゃる「幻想」が、一概に「リアルじゃなさすぎる」とまで言い切ることは難しいのではないか、と思えるのですが?
でも、今はネットによって、企業の公的な秘密が資本主義社会のどの国でも公平に赤裸々にされてしまうから、今の時代でドヌーヴを社長に据えるのは難しい。恋多きドヌーヴの男性遍歴はネットやマスコミに叩かれるだろうし、今まで経営に関わっていなかった事は、ネットで惨状を知る事ができる立場にいたのにそれを怠ったと非難されてしまう。昔というよりも今を使う事があのドラマを作る上で障害になったのではないでしょうか。
なので、午後のテレビ番組がくだらない主婦番組だけで、主婦がみんなそれを見てるしかなかった(これは日本でも同じ)女性が入出力できる情報が少ない時代を使ったのは自然に見えました。
(なお、「ドヌーヴ」などと書いてしまうと、出会い頭にいきなり殴られかねませんよ!)
「社長に据えるのが難しい」は作劇上の話です。話が現代なら女社長も珍しくないから、ドヌーブを社長として注目する
「ふじき78」さんも、“いいまつがい”ばかりか、連日の激務でお疲れと見えて、“書きまつがい”もされてもおられるようで(「ドヌーブを社長として注目することもないだろう」とでも続くのでしょうか?デモ、ソウだとすると、個々までの議論とはどのように続くのかよくわからなくなってしまいますが)。
でもそうだとすると、“一体誰が「注目する」のか?”とさらなる疑問が湧いてしまいますが、それはサテ置き、「現代なら女社長も珍しくない」のですから(リアルな社会で)、時代設定を現代にしてドヌーブを社長にする場合、たとえその経歴等に問題があるとしても(物語の上で)、違和感を持つ人は少ないのではないでしょうか?というのも、“数多いる女社長の中にそんな人がいてもおかしくないのだから(リアルな社会で)、それを映画にしても問題ないのではないか”、と一般に考えられるでしょうから。
逆に、「ふじき78」さんによれば、「70年代なら女性経営者の走り」なのですから、“当時数少ない女性社長に就任するなら、必ずや様々に吟味されたはずだから(リアルな社会で)、彼女のような経歴の持ち主が社長になるという物語はうまく成立するのだろうか”、と観客はもしかしたら訝しく思うかもしれません。
以上のことから、作劇上の観点からしても、舞台設定を現代とすることにそれほどの困難性は認められないのではないでしょうか?
なお、このように議論するからといって、映画制作上の「代案」を提示しているわけでないことは言うまでもありません。単に、この映画に覚えた「違和感」のありかを説明しているだけのことで、ここからいきなり『阪急電車』に乗車されないようお願い申し上げます(ブログ記事本文で、「なぜ、現代のお話としてはいけないのでしょうか?」と申し上げたのも、「現代のお話とすべきだ」という意味ではありません!)。
としても、そんなことはドウでもいいことです。クマネズミとしては、この映画の舞台設定を「現代」にすべきだと申し上げたいわけではなく、単に、「現代」としても十分に成立するのではないかと申し上げているに過ぎません。なにより、この映画において、時代設定を1977年として、とってつけたような後半部分(「蛇足」としか思えないところです)をわざわざ接合させることまでなぜしたのかの背景が分かれば十分なのです。
もしかしたら、ブログ本文で挙げました大雑把な背景的事情の他に、例えばカンジンスキーの絵を傘のデザインに取り入れるという長男の行為がその時代設定に合致しているのでは、と密かに思っているところです(ただ、そんなことを実証する術を、クマネズミは持ち合わせてはおりませんが)。