おばの連れ添いが、介護施設に入っているのだけど。
そこが、インフルエンザに、まさに影響され、外部からのお見舞いはお断り。
なんて話を聞いた、その当のおばも、インフルエンザで一週間、寝込んだ。
そうで。
どこぞの学校が閉鎖、みたいなニュースもちらほら。
と、夕べ、油屋の大将から電話が入り、節分の日の、山での飲み会に参加できず、と。
インフルエンザだそうで。
そんな用語の似合わない御仁だったんだけど、可愛くなったもんだ、というのが、率直な感想で。
なので、節分の日の飲み会は、どうなりますやら。
中止となれば、夕方、母親を迎えに行き、施設の方々に、お世話になります、とご挨拶をし。
母親からは、あんた、よくここがわかったね、といういつもの決め台詞を聴きながら自宅へ。
という日常になるのだろうけれど。
ところで、また、OSHOの言葉ね。
《連続性のない存在があなたの中から起き出してくる。》
というものなんだけどね。
それに続いて、《過去によって汚されていない新鮮な存在だ》、と。
かなり、素敵な言葉だと、気に入ってるんだけど、いかがでしょうか。
と唐突感満載で書いちゃうけど。
毎朝、八雲風化ニシキ貝カルシウム、というのを水に溶いて飲んでいた時期があって。
末期の水、と呟きながら飲んでいた。
寝るときには、枕に向かって、今から死にます、なんて言いながら、なんだけど。
つまり、日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、の実践型でもあるんだよね。
過去を引きづり、というのか、わたしはこれこれこういうものだ、というのね。
こんなことをやって来た、こんな信念をもち、こんなキャラクターで、なんていうのからさえ。
自由になる、とでもいうのか。
アイデンティティなんて言葉の、真逆とも言えるか。
ずいぶん前に、安岡正篤の、自分を限るな、という言葉が気に入って、ほら。
覚えたての言葉は、他人さんに言いたくなるでしょ、後輩に書き送った記憶がある。
限界づけてしまうのは自分であるから、そんな自分から自由になる、解放される、とも言えるか。
同じようなことだけど、OSHOの、連続性のない、という言葉に、ピンと来た次第。
さて、今日も、非連続の一日としますか。