昨日は、お昼、七輪にて鯵を焼いた。
うまかった。
とはいえ、網の上でひっくり返そうとしたら、皮が取れちゃって。
金網にオイルをつけとくといいですよ、とか、どこかにあったか。
なので、形は崩れ、たんだけど、遠赤外線効果なのか、文字どおり、骨の髄まで火が通り。
食べ終わった後、骨と頭に、お醤油と暑いお湯をかけ、なんていうのか、なんとか汁。
それが絶品で。
臭みがないしね。
一口飲み、母親にどう?と差し出すと、すべて飲み干した。
これは、くせになりそうな気配濃厚。
七輪購入先のブログなど読み、備長炭について、少し、お勉強などしてみむと、ってわけだ。
串打ち三年、焼き一生、という言葉があるようだけど、実感するね。
炭起こしから串打ち、挙句に焼き、ね、これは簡単ではない。
串打ちも、ただ刺せばいいってもんでもなく、焼いてるうちに、バランスが悪く、もとに戻っちゃう。
というね。
幾つになっても、知らないことへ挑む、ってのは、なかなか、楽しいもので、しかも。
生業にするんじゃない、という気楽さも手伝い、まんま、楽しさのみを味わう、と。
火おこしの準備から焼き、それから、片付け、ってのを、流れるような。
一連の所作をね、習得したい。
というのも、何年か前、江崎ホールでの、柳家花緑の噺会があり。
その時の、彼の羽織のたたみ方、見事でね。
話をしながら、さりげなく、たたむ所作、美しい、芸だった。
そのイメージが、わが七輪の炭使いに重なるんだよね。
これは、禅の心にも通じ、禅堂での修行、食事を作ること、食べること、のね。
一心不乱の境地、日常の所作に心を込めて、つまり、今ここの境地かね。
というのも、週末、妹が帰郷し、の中での会話に、このところ、忘れ物がひどくて、お母さんのこと。
言ってられないよ、みたいなのがあって。
それの根本には、何か、焦り、急かされた気持ち、みたいなのから、所作に心を込められなくなった。
あるいは、堪え性のなさ、というのか、筋力が落ちるように持続力が落ちる、なんてこともあるわけで。
それはそれで、事実として受け止めつつ、しかし、その根っこは何か、というのか。
所作の基本に立ち返り、今にチャレンジする、とでも書けるか。
そんなことを伝えたかったんだけどね。
それに加えて、何かと、もったいない、という言葉が出てきたんで、それはそれで、素敵な心持ちではあるけれど。
プラスして、自分自身がもったいない、というところに行ったら、そりゃ、なおさら素敵なことになるよ。
なんて会話をしたりしてね。
兄と妹の会話、ってやつだ。
日向神話の中で、おばさんと結婚したのは、誰だったか。
母親の妹とね。
玉依毘売(たまよりひめ)の夫は、神武天皇のおじいさんだったか、ウガヤフキアエズか。
それはともかく、わが炭道への精進の道が始まったのです。