その次に続くのが、ジョニー、だったか、名前忘れたな。
「戦場のメリークリスマス」って映画で、坂本龍一じゃなく、ミュージシャンだよね。
その彼が、ビートたけし扮する鬼軍曹に言うんだったか。
ちょっと、シチュエーションは忘れましたが。
この時期、ちょうど、冬至なわけだ。
太陽が一番力をなくす時、そして、これから、再生がはじまる。
というね。
太陽は一度死んで、再び、生まれ変わる、ということで。
たぶん、世界中で、そんなことのなかで、祈る対象はそれぞれだったんだろうけど。
伊勢神宮の、かたじけなさ、という以上の有難さ、恐れ多さで、祈りに祈った。
クリスチャンの方には、申し訳ないけど、あくまでも、私の、というか、ひとつの仮説です。
そんな習俗と、イエスの誕生を重ね合わせ、このクリスマスがあり。
後発の、精神世界メーカーが、既存の、土着の神を上書きした。
というような構図、と言ってもいいかも。
そんなことは、どうでもいいけれど。
太陽が再生する、この時期、日本では、ふゆ、と言っているんだね。
漢字でなく、ひらがなで書くと、なんとも、いい感じで。
ふえる、というイメージが湧くよね。
ベランダに未だに残る、ユウガオの実を見ていると、そんな気分が納得できるんだね。
力を溜めて、人間の目には見えないけれど、実の内部では、ふゆ、につながる営為があり。
太陽が死んだように見えるのも、その実、内部では、というわけです。
この、ふえる、というのも、量的にふえるのか、質的にふえるのか、ってのも。
大事な違いでもあるけれど、腹減っている側からしたら、とにかく、たくさん、たくさん。
八百万、やおよろず、ってことにもなるわけで。
供給過剰の、この資本主義の時代であっても、そのDNAを忘れていない。
わけで。
そういえば、昨日の、「めざせ!広瀬中尉」ってのは、まちがっていたようで。
白瀬中尉らしい。
コンピュータ屋のおじさんから電話があり、どうでもいいことだけど、と。
この場をお借りして謹んでお詫び申し上げます、なんて書くと、偽装表示のどこぞの社長みたいだね。
あの事件というのかイベントというのか、あれもとても興味深いものがあり。
唾をとばし、口角が泡だらけ、なんていうコメンテーターさんたちは。
見物ではあったんだろうね、見てないけど。
細かい話はともかく、五感に帰ろう、ということで。
おいしさの定義、味の定義、食の定義、ってやつが、どこか、頭過剰でね。
って、言いながら、定義、なんてことばを使う事自体、洗脳されちゃっているんだけど。
うつの人が多い、とか、ってのにも、企業でもメンタルヘルスなんていうし。
いろんな言説はありもし。
ではあるけれど、頭、使いすぎ、というか、架空の物語があたかも、現実であるかのような。
錯覚、とでもいいましょうか。
これ以上書くと、語弊、その他、誤解、曲解、に行き着くかも、で。
このあたりは、丁寧に書かなきゃね。
なので、やめときます。
一時凝った、春野山の大光寺、だったか、行基さんの修業場があり、写真にはオーブが写った。
なんていうお寺なんだけど、そこは、山犬信仰で。
麓のお嫁さんが、どうかすると、狐憑きになりね。
で、そのお山へ、お札をもらいに行く、帰るとき、うしろを振り向いちゃダメ。
なんてことがあったようで、そのお札を家に貼っておくと、狐はどこかへいっちゃう。
というんだね。
なので、うつというのが、現代病みたいに言うけれど、実は、昔からあったのかも。
という、これまた、仮説があり。
人間の精神世界というものは、奥深いものであります。
のだけど、ここで結論にしちゃうと、ほんとのところには、たどりつけないんだけど。
残念ながら、1500字の、K点越えなので、このへんで。
「戦場のメリークリスマス」って映画で、坂本龍一じゃなく、ミュージシャンだよね。
その彼が、ビートたけし扮する鬼軍曹に言うんだったか。
ちょっと、シチュエーションは忘れましたが。
この時期、ちょうど、冬至なわけだ。
太陽が一番力をなくす時、そして、これから、再生がはじまる。
というね。
太陽は一度死んで、再び、生まれ変わる、ということで。
たぶん、世界中で、そんなことのなかで、祈る対象はそれぞれだったんだろうけど。
伊勢神宮の、かたじけなさ、という以上の有難さ、恐れ多さで、祈りに祈った。
クリスチャンの方には、申し訳ないけど、あくまでも、私の、というか、ひとつの仮説です。
そんな習俗と、イエスの誕生を重ね合わせ、このクリスマスがあり。
後発の、精神世界メーカーが、既存の、土着の神を上書きした。
というような構図、と言ってもいいかも。
そんなことは、どうでもいいけれど。
太陽が再生する、この時期、日本では、ふゆ、と言っているんだね。
漢字でなく、ひらがなで書くと、なんとも、いい感じで。
ふえる、というイメージが湧くよね。
ベランダに未だに残る、ユウガオの実を見ていると、そんな気分が納得できるんだね。
力を溜めて、人間の目には見えないけれど、実の内部では、ふゆ、につながる営為があり。
太陽が死んだように見えるのも、その実、内部では、というわけです。
この、ふえる、というのも、量的にふえるのか、質的にふえるのか、ってのも。
大事な違いでもあるけれど、腹減っている側からしたら、とにかく、たくさん、たくさん。
八百万、やおよろず、ってことにもなるわけで。
供給過剰の、この資本主義の時代であっても、そのDNAを忘れていない。
わけで。
そういえば、昨日の、「めざせ!広瀬中尉」ってのは、まちがっていたようで。
白瀬中尉らしい。
コンピュータ屋のおじさんから電話があり、どうでもいいことだけど、と。
この場をお借りして謹んでお詫び申し上げます、なんて書くと、偽装表示のどこぞの社長みたいだね。
あの事件というのかイベントというのか、あれもとても興味深いものがあり。
唾をとばし、口角が泡だらけ、なんていうコメンテーターさんたちは。
見物ではあったんだろうね、見てないけど。
細かい話はともかく、五感に帰ろう、ということで。
おいしさの定義、味の定義、食の定義、ってやつが、どこか、頭過剰でね。
って、言いながら、定義、なんてことばを使う事自体、洗脳されちゃっているんだけど。
うつの人が多い、とか、ってのにも、企業でもメンタルヘルスなんていうし。
いろんな言説はありもし。
ではあるけれど、頭、使いすぎ、というか、架空の物語があたかも、現実であるかのような。
錯覚、とでもいいましょうか。
これ以上書くと、語弊、その他、誤解、曲解、に行き着くかも、で。
このあたりは、丁寧に書かなきゃね。
なので、やめときます。
一時凝った、春野山の大光寺、だったか、行基さんの修業場があり、写真にはオーブが写った。
なんていうお寺なんだけど、そこは、山犬信仰で。
麓のお嫁さんが、どうかすると、狐憑きになりね。
で、そのお山へ、お札をもらいに行く、帰るとき、うしろを振り向いちゃダメ。
なんてことがあったようで、そのお札を家に貼っておくと、狐はどこかへいっちゃう。
というんだね。
なので、うつというのが、現代病みたいに言うけれど、実は、昔からあったのかも。
という、これまた、仮説があり。
人間の精神世界というものは、奥深いものであります。
のだけど、ここで結論にしちゃうと、ほんとのところには、たどりつけないんだけど。
残念ながら、1500字の、K点越えなので、このへんで。