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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

美濃・小野城(本城山城)@岐阜県関市 2024年11月10日

2024-11-18 10:13:09 | 城歩き
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小野城は関市西神野と美濃市樋ケ洞にまたがる標高423mの本城山にあります。山頂を中心に東西約600m、南北約300mの範囲にわたって遺構が広がる中濃地域最大の山城です。
 江戸時代から近代に書かれた文献資料では諸説書かれていますが、美濃守護代一族斎藤氏の居城であったと考えられます。
 東側の斜面には切岸を用いた曲輪が連続して築かれています。大仏山、日竜峯寺がある高沢山へと続く東側の尾根には、隣接して築かれている竪堀があり、尾根の先には堀切・竪堀が設けられています。尾根の先からさらに東に進むと出丸と考えられる曲輪があり、土塁や障壁を持つ堀切、堀切から続く竪堀を見ることができます。東側の尾根一帯で、山城の強固な防衛施設を体感することができます。、、、関市城郭探訪より


場所は岐阜県関市小野・西神野(八神)~美濃市
本城山登山コースは東回りの「大洞コース」西回りの「小野コース」そして、両者の真ん中から登る「八神コース」と大きく三つあります。
自分は「八神コース」から登りました。




目標地点は「シダーヒルズ・カントリークラブ」(岐阜県関市西神野1181−1)
東海北陸道からだと「美濃IC」下車、県道343号線へ右折。5.3Km先の交差点を左折、1.6km先の県道286号線へ右折。200m先で左折し集落に向かうと「シダーヒルズ・カントリークラブ」が見えます。

東海環状線からだと「富加関IC」下車、県道58号線へ右折。「富野小学校」交差点を左折。Y字路を右に進んで県道286号線へ左折。「ほたるの里営農組合」を過ぎたらY字路を右折し集落に向かうと「シダーヒルズ・カントリークラブ」が見えます。

「シダーヒルズ・カントリークラブ」を右手に見ながら集落を直進。約150mで「香林寺」



その先「八神集落センター」



を過ぎると左カーブのところに「登山口駐車場」があります。



「八神コース」は小さな祠の左側から田んぼのあぜ道を進みます。




20mほどあぜ道を歩くと、左手に登山口があります。



途中の「カエル石」


「中間地点」休憩所
尾根道を登り始めて25分ほどで中間地点に到着。ここまでは比較的緩やかなルートですが、、、



徐々に道は険しくなり
滑落の危険や


ロープを頼りに急坂を登ります。



縄張り図
※登山口に設置のパンフレットより


※ヤマップ行動履歴




「竪堀」
南尾根の防御施設





この先南尾根は東西に延びる尾根に合流します。
西へ行けば本郭、東に行けば東郭、その先は大仏山・高沢観音方面となります。
自分は分岐を西に進み本郭を目指しましたが、東尾根の堀切や曲輪などの遺構は残念ながら見落としてしまいました。






城域内にある「神滝」へはいくつかの侵入ルートがあります、あまりにしつこく(笑)案内看板があるので、根負けして立ち寄ってみました。


南側斜面に露出した岩盤から湧水がしたたり落ちています。



この一滴が谷筋に流れて川になるんですね。
案内板によれば、厳冬期になると幅50mのツララのカーテンになるそうで、景観スポットにもなっているそうです。




石垣分岐案内



「竪堀」



見張り台の石垣
南側斜面が開けてきました。



「見張り台」です。
南東に突き出た尾根筋を登ってくる攻め手を、弓矢や岩石を落として防ぐのに最適な場所です。



見張り台からの眺望



見張り台自然石



「見張り台石垣」
野面積みの石垣は、見張り台曲輪を支える土台で、岩の上に据えられています。


築城から500年ほど経過しても風雨に耐えて崩れないことに驚かされます。




見張り台直下の曲輪



見張り台から大手道に戻り本郭を目指します。



本郭直下に築かれた「6段の郭」段郭
各曲輪は切岸によって斜面下からの敵の侵入を防いでいます。


上段から見下ろす



段郭最上段にある井戸・石垣案内



「井戸」
山城で大切な水源。たいてい水源となる「水の手」は主郭から遠く離れた沢近くにあるのだが、小野城の水の手は主郭下の段郭という中心部にあって、とても便利だったことでしょう。



「石垣」
主郭下の東から北にかけての斜面に築かれています。
美濃はいち早く山城に石垣を導入した地域で、野面積みの武骨な石垣が山中に残されています。





段郭最上段から頂上の本郭へロープを頼りによじ登ります。



「頂上」


「本郭」当時はおそらく六合目以上の樹木を切り倒して裸山とし、60余りのすべての曲輪の輪郭にはのぼりを立てて虚勢を張りました。本郭は岐阜城、関城、加治田城、志津野城、椎倉城などへの対抗のために特に派手に飾り立てて威圧しました。本郭は平素は守備兵が守り、いざ籠城の際には城主や有力な武将が集結して軍議を開き、兵士を指揮する指令台になりました。



眺望




小野城は文化財の指定こそ有りませんが、地元から愛され親しまれていることがよ~くわかります
地元のお城愛が伝わってきますもんね

一つだけお願いするとすれば、危険箇所の目印テープですね。
転倒や滑落しそうになった際、「藁をも掴む」おもいで、とっさに掴んでしまうのではないでしょうか?そうなったらひとたまりもありませんよね。藁と一蓮托生なんていやですよね~
ぜひ、しっかりしたロープで安全を確保していただければと思います。



ヤマップ活動記録
活動時間2:12
移動距離2.9Km
比高321m



ヤマップ3D




※参考、、、現地案内板、関市城郭探訪、本城山登山マップ(富野ふれあいのまちづくり委員会)

【小野城】
《》

名称(別名);おのじょう(本城山城、栃洞山城)
所在地;岐阜県関市小野・西神野(八神)~美濃市
城地種類;山城
標高/比高;423m/270m
築城年代;大永年間(1521-1528)
廃城年代;天文23年(1554)?
築城者;不明
主な改修者;
主な城主;斎藤八郎左衛門宗久
文化財区分;なし
主な遺構;堀切・竪堀・井戸・石垣・曲輪
近年の主な復元等;
地図;




とやま城郭カード第2弾&武将カード

2024-05-19 16:12:21 | 城歩き
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とやま城郭カード第1弾の記事は→こちら

2024年4月6日【しろ(城)の日】にあわせて、とやま城郭カードの第2弾 44カ所が追加されました。
また、新たに「武将カード」6枚が仲間入りしました。

発行は第1弾と同様、砺波市教育委員会が作成し、砺波市埋蔵文化センターで配布。
訪問した際の写真を係員に見せると、引き換えにカードがもらえます。

【砺波市】
亀山城(増山城の記事後半)→こちら
孫次山砦
市谷牛嶽神社
鉢伏山城
東保舘
小倉の土居
小倉殿舘
御舘山舘

【南砺市】
八乙女山砦
井口城
寺家新屋敷→こちら
野尻城
福満城→こちら
砂子坂道場
広瀬城→こちら


【小矢部市】
源氏ヶ峰城→こちら
安楽寺城
道坪野城
蓮沼城
名畑城

【高岡市】
二ツ城→こちら
頭川城

【氷見市】
小浦城
海老瀬城
惣領砦
荒山城→こちら
神代城


【富山市】
小出城→こちら
蜷川城
願海寺城
大峪城
猿倉城
高峯城
長沢東城
長沢西城
上熊野城
大村城
長山城

【上市町】
郷柿沢舘→こちら
稲村山城
郷田砦


【魚津市】
武隈屋敷→
こちら
坪野城

【朝日町】
横尾城→こちら


【武将カード】
武将カードは、ゆかりの城郭写真を職員に見せるともらえます。
神保長職(とやま城郭カード「増山城」の提示でも可能)
神保氏帳(とやま城郭カード「守山城」の提示でも可能)
神保慶宗(とやま城郭カード「放生津城」の提示でも可能)
前田利長(とやま城郭カード「高岡城」の提示でも可能)
中川光重(とやま城郭カード「増山城」の提示でも可能)
佐々成政(とやま城郭カード「富山城」の提示でも可能)


弘前城@青森県弘前市 2024年4月19日

2024-04-29 04:37:36 | 城歩き
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東北旅行一日目の記事は→こちら



☆天守をはじめ3棟の三重櫓と5棟の城門が現存する☆
弘前城は、津軽地方を平定した津軽為信の意志を継いだ子の信枚が慶長16年(1611)に築城した。天守は五重だったが落雷で焼失。文化7年(1810)に本丸の辰巳櫓(南東隅櫓)を三重に改築して天守代用とした。これが現存する天守である。関東・東北地方においては、唯一の現存天守として貴重である。本丸、二の丸、三の丸および付属の郭が、3重に巡らされた堀によって区切られている。その中に残る3棟の櫓と、5棟の城門が往時の姿をとどめている。



「津軽藩ねぶた村駐車場」から外堀沿いに「中央高校口」まで南下
外堀の桜


紅一点



「中央高校口」から三の丸に入り
「丑寅櫓」



「与力番所」



「東内門」





「下乗橋」
この橋を渡って二の丸から本丸に入る。


本丸石垣修復工事のため、この橋の手前で内堀の水はせき止められています。





本丸

高石垣
石垣に「はらみ」がみられ崩落の危険性があるため、先ずは平成26年壕の埋め立てが行われました。
webページは→こちら


石垣修復工事
天守曳家工事のための足場が平成27年に設置されました。


「天守台」
天守台石垣の修復のため、約3ヶ月かけて現在の位置に移動し仮置きされています。


「本丸枡形」


「展望デッキ」





石垣修復のため曳家され、仮置きされた天守

「天守としだれ桜」
現存天守で最も北に位置する天守で、三重三階、層塔型。防寒対策として屋根は銅葺瓦となっている。

五重の大天守が落雷で焼失して以来約200年間、天守を再建することは叶わなかったのですが、ロシア船の津軽海峡往来などの事態から、幕府は弘前藩に蝦夷地(北海道)の警備を命じ、あわせて新しい天守の造営(史実は三重櫓の改修)を認めたのでした。弘前藩は三重櫓の改修を名目に天守(御三階櫓)として新築したのでした。



「天守外側」
切妻破風や狭間で飾られた装飾的な城外側



「天守内側」
窓だけのシンプルな城内側




「未申櫓」


蓮池より「本丸南西石垣」


「蓮池」




「二の丸辰巳櫓」
二の丸南東隅に立つ三重櫓。かつて屋根は板を重ねて葺いていた栃葺きであったが、現在はその上に銅板が葺かれている。


「中壕」




「杉の大橋」



杉の大橋から南内門



「三の丸追手門」
17世紀後半に碇ヶ関に通じる道がつくられて参勤道となったことから、三の丸のこの城門が追手門となった。




「外堀の花筏」
外堀は風の影響を受けやすいので、落花盛ん



「東門」



弘前城惣構は、東北のはるか片隅に位置する外様の小大名の居城としては破格の規模でした。
幕府が津軽家にこれだけの城を築かせることを認めたのは、信牧の正室である満天姫が神君徳川家康公の姪で養女だったためだとも、津軽家をして南部、佐竹、伊達などの有力な東北の外様大名を牽制させるためだった、とも言われています。、、、弘前城公園HPより


移動ルート
弘前さくらまつり
会場案内mapに加筆
赤色は往路
青色は復路






【弘前城】
《東北で唯一の現存天守をもつ津軽氏歴代の城》

名称(別名);鷹岡城、高岡城
所在地;青森県弘前市下白金町1
城地種類;平山城
築城年代;慶長16年(1611)
築城者;津軽信枚
主な城主;津軽氏
文化財区分;国指定史跡、重要文化財9棟
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;層塔型、三重三階 木造(現存)

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



桐原城@松本市入山辺桐原 2023年12月9日

2023-12-17 06:52:28 | 城歩き
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今回のまとめは→こちら


桐原城は、入山辺桐原の海岸寺沢と追倉沢に挟まれた尾根の中腹にあり、寛正元年(1460)に築かれ桐原氏四代によって相伝された。 桐原の地は、古代には御院領の桐原牧が置かれたところで、桐原氏は荘園と化した桐原庄を治めた在地の荘官が土着したものと考えられる。
 城の規模は、東西約29m、南北約27mで、周囲を鉢巻き状の石積みで補強した土塁で防御し、主郭背後は四重の堀切で固めている。正面に当たる東側の郭にも石積みが多用され、西側山麓には菩提寺とみられる蓮法寺跡があり、ここにも郭周辺と同時期のものと推定される高さ2mにも及ぶ石積みが残されている。
 桐原城は、天文19年(1550)7月15日、武田氏が府中(現松本市内)に攻め込んだ際、林大城とともに自落したと伝えられる。現在残る石積みを多用した城郭遺構は武田氏滅亡後に改修されたものと考えられる。
 桐原城は長野県を代表する山城として、昭和55年に、小笠原氏城跡(林大城・林小城・植原城)に山家城とともに追加指定されている。、、、(松本市教育委員会)現地案内板より

【場所】
場所は松本市入山辺桐原
こちらも「追倉沢」と「海岸寺沢」の複数の登り口がありますが、自分は「追倉沢」から登りました。

長野自動車道「松本IC」下車、国道158号線で市内に入り、松本城から東に延びる県道67号線で「惣社交差点」の三叉路を右に進みます。県道67号線をしばらく進み「兎川寺交差点」を直進。右手に「入山辺郵便局」「ぶどうの郷山辺ワイナリー」(松本市入山辺1315-2)が見えたら、その向かいにある側道へ左折して登っていきます。途中何カ所か市道か農道のような狭い路地の交差点がありますが、上へ上へと登る感じで進みます。民家を過ぎると辺りはブドウ畑となります。その先に林道との分岐があり、右手には大きなビニールハウスが建っています。



例によって害獣よけのフェンスがありますが、大きな扉を開けて直進してはいけません!!
登城口は右手の小さなフェンスの扉を開けて、山の右側の側面から登る感じです。


今後のために赤い目印テープをつけておきましたよ。



ここからの景色が最高でした。(松本市内から上高地方向でしょうか)




【遺構】
縄張図、、松本史より三島正之先生作図
一部加筆




登り始めたらすぐに竪堀が見えました。


竪堀の連続です



しばらく行くと二重堀切
林城でも見た平場曲輪(三日月状の段郭)が連続します。


両脇の土塁 城門跡でしょうか?


竪堀、と連続して堀が続きます。



「主郭へ」の看板



竪堀



一つ目の二重堀切看板









二つ目の二重堀切






三つ目の二重堀切






「主郭へ」の看板



「主郭へ」と「主郭背後へ」の分岐
主郭搦手方向への分岐です



竪堀




南側大堀切
遊歩道はこの南側の大堀切を横断して石積みの残る曲輪群へと続きます








石積みが残る段郭群


虎口側
山辺周辺の山城の特徴である、扁平な山辺石が積まれています


奥側より


北側の大堀切まで石積みは続く



北側大堀切



段郭の石積み



虎口隅石



大手道虎口


段郭



大手道虎口




主郭石積み
主郭虎口石積み


南東麺石積み


東面石積み




北面石積み




主郭
東西約29m、南北約27mで、周囲を鉢巻き状の石積みで補強した土塁で防御している。


主郭土塁



主郭虎口





主郭背後の堀群
主郭背後は四重の堀切で固めている。













【まとめ】
林城と凄く似ている点が多い城です。
山頂ではなく尾根筋に平場曲輪を段階的に並べ、堀切・竪堀等の堀で守りを固める。平たい山辺石を積み上げた石垣などなど。
桐原城で特に印象的だったのは、石垣(石積み)を多用していることと、堀切の多さと長大さです。
府中小笠原氏は関ヶ原以降譜代大名として父祖の地に転封となったそうですが、その際に改修したとも考えられているそうです。
個人の感想としては、林城より見応えがあったと感じました。

林城(小城・大城)と桐原城の位置関係



ヤマップ行程データ



ヤマップ3D





【桐原城】
《小笠原氏城跡》

名称(別名);蓮法城
所在地;長野県松本市入山辺8807
城地種類;山城
標高/比高;950m/190m
築城年代;寛正年間(1460~)
廃城年代;天文19年(1550年)
築城者;桐原氏
主な改修者;
主な城主;桐原氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀
近年の主な復元等;


※出典、、、現地案内板、松本市教育委員会HPほか
地図;



小田原城@神奈川県小田原市 2023年10月1日

2023-11-03 14:12:34 | 城歩き
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今回のまとめは→こちら

【今も残る惣構の土塁・空堀に難攻不落の城を忍ぶ】
初期の小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いたと考えられる。城の存在がハッキリするのは明応5年(1496)以降に伊勢宗瑞(北条早雲)が入城してからである。小田原北条氏の拠点となった小田原城は、上杉謙信や武田信玄の侵攻も退けた難攻不落の城であった。その後、豊臣秀吉の来襲に備えて、城下町おも含む全周9kmの大規模な惣構が構築された。しかし秀吉軍の包囲によって開城し、徳川の譜代大名大久保氏や稲葉氏によって近世城郭として整備された。明治に入り小田原城の建物はほとんど解体されたが、その後一部の建物が再建された。なお、現在の天守は昭和35年(1960)に再建されたものである。、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)より


【遺構】惣構をたどって2時間10分でほぼ1周する散策コース
まず訪ねたのは
小田原城の北東方向、山王川手前にある「蓮上院土塁」



この土塁には第2次世界大戦の米軍による爆撃で、爆弾が直撃したさいの大きな穴が残っています。
被爆土塁ですね


残念ながら惣構の情報はこの一件のみとさせていただきます


小田原城城址公園マップ



お城の周囲を南側→東側→北側→北入口から城内→天守台下西側→報徳二宮神社(小峰曲輪)→南入口と、グルッと一回りしてみました。
「南堀蓮池」



「蓮池南曲輪二重櫓跡」



小峰橋から東方向



二の丸に建つ現在の観光案内所建物



馬屋曲輪とめがね橋



めがね橋から馬屋曲輪



大手門跡



二の丸隅櫓



学橋



学橋から二の丸



弁財天通りと城址碑



弁財天通りからの天守



お堀通りの城址碑



御用米曲輪
御用米曲輪跡で堀跡,北条氏時代の池、庭園跡が発見され復元計画が進んでいる。



お城の西側を走る東海道本線・新幹線・箱根登山鉄道の線路敷地はお堀だった。
背後の山を遮断する広大な横堀



御茶壺橋



御茶壺曲輪



銅門、御茶壺郭より



内堀と銅門



二の丸観光案内所



馬屋曲輪と二重隅櫓跡



住吉橋・内堀
平成2年には住吉橋が復元された。




住吉橋・中仕切門



馬出門
二の丸正面に位置する門で、平成21年に復元された。



銅門
明治5年に解体されたが、平成9年に古写真や古絵図などの資料を基に再建された。







常磐木門
昭和46年には常盤木門(ときわぎもん)が外観復元された。





内堀跡



本丸にある猿園




天守
江戸時代につくられた雛形や引図を元に昭和35年(1960)、小田原市制20周年記念として再建された三重四階・層塔型天守
天守の木造復元を目指す運動もあるようです。


北条氏滅亡のあと入封した大久保忠世。忠世の子・忠隣は老中にまで出世したが失脚し改易される。その後約70年を経て再び大久保家は小田原藩主に返り咲き明治維新を迎えている。
再興を果たした時期の天守の姿が現在復興されている。


度重なる地震や火災で天守は焼失再建を繰り返し、残った石垣も関東大震災で崩れ、現在の石垣は積み直したものです。



天守からの眺望
相模湾から遠く三浦岬


石垣山城方向





【まとめ】
城下町の惣構をたどって8.2Kmを2時間30分かけて歩きました。
とんでもない方向音痴をまたしても露呈
肝心の惣構跡には1カ所しかたどり着くことができず、時間切れでお城に戻りました

NHK大河「どうする家康」 10月1日放送の第37回は、いよいよ北条攻めが描かれます。
その放送当日に小田原城を訪れることができたのも何かの因縁。来場者の顔つきもなんだか感慨深そうに見えたのは気のせいか。
しかし帰宅して放送を観てみると、肝心の小田原攻め、小田原城の場面はサラッと過ぎてしまい拍子抜け
でも感動は心の中にしっかり刻み込まれましたよ。


ヤマップ行程図




【御城印】


販売先:小田原城天守閣1Fショップ(有料入館)



【小田原城】
《東海道筋の関東入り口の要衝を占めた堅城》

名称(別名);-
所在地;神奈川県小田原市城内6-1
城地種類;平山城
築城年代;15世紀中頃
築城者;大森氏、小田原北条氏、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主;大森氏、小田原北条氏、大久保氏、稲葉氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成2年に住吉堀と住吉橋、平成9年に銅門、平成21年に馬出門を復元 平成23年から御用米曲輪を整備中
天守の現状、形態;層塔型三重四階 鉄筋コンクリート造り(復興)

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;


とやまお城探検隊 掲載一覧

2023-10-22 11:15:26 | 城歩き
お城検索は→こちら

とやまお城探検隊は→こちら



【2021年4月掲載】
第1回 白鳥城①~③(富山市)登城記事は→こちら
第4回 大峪城①~②(富山市)  
第6回 安田城①~⓹(富山市)登城記事は→こちら
第11回 中世富山城①~⓹(富山市)登城記事は→こちら
第16回 上杉氏の向城①東岩瀬城(富山市)  
第17回 上杉氏の向城② 稲荷砦(富山市)  
第18回 上杉氏の向城③ 太田本郷城(富山市)  
第19回 上杉氏の向城④ 上熊野城(富山市)  
第20回 上杉氏の向城⓹ 押上砦(富山市)  


【2021年5月掲載】
第21回 願海寺城①~③(富山市)  
第24回 今泉城(富山市)  
第25回 新庄城①~④(富山市)  
第29回 友坂遺跡①~③(富山市)  
第32回 長沢東城・長沢西城①~②(富山市)  
第34回 富崎城①~②(富山市)登城記事は→こちら
第36回 城生城①~②(富山市)登城記事は→こちら
第38回 井田主馬ヶ城跡①~②(富山市)登城記事は→こちら


【2021年6月掲載】
第40回 井田館(富山市)登城記事は→こちら
第41回 蟹寺城(富山市)  
第42回 楡原館(富山市)  
第43回 楡原山城(富山市)  
第44回 大乗悟山城(富山市)  
第45回 猿倉城(富山市)  
第46回 栂尾城(富山市)  
第47回 寺家砦(富山市)
第48回 中地山城①~②(富山市)→こちら
第50回 高山城(富山市)→こちら
第51回 大道城(富山市)→こちら
第52回 興国寺館跡①~③(富山市)
第55回 津毛城①~②(富山市)
第57回 堀江城(滑川市)
第58回 上梅沢館(滑川市)
第59回 蓑輪城(護摩堂城)(滑川市)登城記事は→こちら


【2021年7月掲載】
第60回 小森館(滑川市)
第61回 滑川城・高槻要害(滑川市)
第62回 土肥氏の城郭群①~②(上市町)
第64回 郷柿沢館(上市町)登城記事は→こちら
第65回 稲村山城(上市町)
第66回 千石山城①~②(上市町)登城記事は→こちら
第68回 弓庄城①~⓹(上市町)登城記事は→こちら
第73回 郷田砦(上市町)
第74回 日中城(立山町)登城記事は→こちら
第75回 柿沢城(上市町)登城記事は→こちら
第76回 茗荷谷山城①~②(上市町)登城記事は→こちら
第78回 黒川砦(上市町)
第79回 池田城(立山町)→こちら



【2021年8月掲載】
第80回 新宮山城(立山町)
第81回 仏生寺城(舟橋村)
第82回 松倉城①~⓹(魚津市)登城記事は→こちら
第87回 松倉金山(魚津市)
第88回 松倉城下①~②(魚津市)
第90回 魚津城①~④(魚津市)登城記事は→こちら
第94回 天神山城(魚津市)登城記事は→こちら
第95回 石の門砦(魚津市)登城記事は→こちら
第96回 北山城(魚津市)登城記事は→こちら
第97回 水尾城(魚津市)登城記事は→こちら
第98回 坪野城(魚津市)
第99回 升方城(魚津市)登城記事は→こちら



【2021年9月掲載】
第100回 武隈屋敷(魚津市)登城記事は→こちら
第101回 若栗城①~②(黒部市)登城記事は→こちら
第103回 長安寺館(黒部市)登城記事は→こちら
第104回 堀切東館(黒部市)
第105回 堀切西館(黒部市)
第106回 宮崎城(朝日町)登城記事は→こちら
第107回 元屋敷城(朝日町)登城記事は→こちら
第108回 横尾城(朝日町)登城記事は→こちら
第109回 舟見城①~②(入善町)登城記事は→こちら
第111回 森寺城①~④(氷見市)登城記事は→こちら
第115回 飯久保城①~②(氷見市)登城記事は→こちら
第117回 千久里城①~②(氷見市)登城記事は→こちら



【2021年10月掲載】
第119回 池田城①~②(氷見市)
第121回 阿尾城①~③(氷見市)登城記事は→こちら
第124回 中村城(氷見市)登城記事は→こちら
第125回 荒山城(氷見市)登城記事は→こちら
第126回 上見城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第128回 丸岡城(南砺市)
第129回 井波城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第131回 井波丸山城(南砺市)
第132回 宗守城(南砺市)登城記事は→こちら
第133回 井口城①~②(南砺市)
第135回 寺家新屋敷城(南砺市)登城記事は→こちら
第136回 野尻錠城(南砺市)
第137回 土山御坊(南砺市)登城記事は→こちら
第138回 高木御坊(南砺市)



【2021年11月掲載】
第139回 福満城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第142回 砂子坂道場①~②(南砺市・金沢市)
第144回 城端城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第146回 桑山城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第148回 広瀬城①~②(南砺市)登城記事は→こちら
第150回 才川城(南砺市)
第151回 八乙女山砦(南砺市)
第152回 今石動城①~②(小矢部市)登城記事は→こちら
第154回 松根城①~②(小矢部市・金沢市)登城記事は→こちら
第156回 源氏ヶ峰城(小矢部市)登城記事は→こちら



【2021年12月掲載】
第157回 一乗寺城①~②(小矢部市)登城記事は→こちら
第159回 道坪野城(小矢部市)
第160回 安養寺御坊(小矢部市)登城記事は→こちら
第161回 蓮沼城(小矢部市)
第162回 増山城①~③(砺波市)登城記事は→こちら
第165回 亀山城(砺波市)登城記事は→こちら
第166回 孫次山砦(砺波市)登城記事は→こちら 
第167回 御館山館①~②(砺波市)
第169回 壇城①~②(砺波市)登城記事は→こちら
第171回 千代ヶ様城(砺波市)登城記事は→こちら
第172回 安川城(砺波市)登城記事は→こちら
第173回 隠尾城①~②(砺波市)登城記事は→こちら
第175回 小倉の土居(砺波市)
第176回 高岡城①~③(高岡市)登城記事は→こちら



【2022年1月掲載】
第179回 高岡城④(高岡市)登城記事は→こちら
第180回 守山城①~③(高岡市)登城記事は→こちら
第183回 守山城④(高岡市)登城記事は→こちら
第184回 古古府城①~②(高岡市)登城記事は→こちら
第186回 木舟城①~③(高岡市)登城記事は→こちら 
第189回 赤丸城①~③(高岡市)登城記事は→こちら
第191回 放生津城①~②(射水市)登城記事は→こちら
第193回 日宮城(射水市)登城記事は→こちら



【2022年2月掲載】
第194回 太閤山陣(射水市)
第195回 沖塚原東B遺跡 (射水市)登城記事は→こちら
第196回 樫ノ木城(富山市)
第197回 小見城(富山市)
第198回 薄波砦(富山市)
第199回 舘本郷館(富山市)
第200回 蜷川館①~②(富山市)
第202回 黒崎種田遺跡①~③(富山市)
第205回 小西北遺跡①~②(富山市)登城記事は→こちら
第207回 鶯野城(富山市)登城記事は→こちら
第208回 小出城①~④(富山市)登城記事は→こちら



【2022年3月掲載】
第212回 辻ヶ堂城①~②(富山市)登城記事は→こちら
第214回 水橋金広・中馬場遺跡①~③ (富山市)登城記事は→こちら
第217回 水橋池田館(富山市)
第218回 平榎城①~②(富山市)
第220回 大村城(富山市)
第221回 日方江城(富山市)
第222回 とび団子伝説(富山市)
第223回 精霊塚とそうけ塚(富山市)
第224回 成政伝説(富山市)
第225回 富山城①~⑧(富山市)→こちら

     おわり




いしかわ城郭カード

2023-10-22 11:13:02 | 城歩き
お城検索は→こちら


「いしかわ城郭カード」
富山県の砺波市埋蔵文化財センターが配布している「とやま城郭カード」に触発され、石川県内の城郭も記念になるカードを配布して盛り上げたいという趣旨で作ったものだそうです。
カードの配布はネット販売では行わず、地域の資料館や観光拠点施設で行っており、随時拡大しています。

いしかわ城郭カードの製作と配布に関する【城郭さんぽ】さんの記事は→こちら

富山城郭カードは→こちら


【加賀国】

取扱店:道の駅倶利伽羅源平の郷 倶利伽羅塾
住所:石川県河北郡津幡町竹橋西270








★古戦場カード
倶利伽羅古戦場

★城郭カード
龍ケ峰城
津幡城→こちら
鳥越弘願寺
笠野鳥越城
源氏ヶ峰城→こちら
冨田和田山城
森城
切山城→こちら
松根城→こちら
堅田城→こちら
朝日山城→こちら
梨木城
上野館
柚木城


取扱店:那谷食堂 花山亭
住所:石川県小松市那谷町ユ122-8(那谷寺駐車場内)





★古戦場カード
浅井畷古戦場
大聖寺合戦古戦場→こちら

★城郭カード
小松城v1→こちら
小松城v2
御幸塚城v1.1
岩倉城
波佐谷城
江差城
岩淵城
小山城
三童子城
山崎城
大聖寺城→こちら
    →こちら
松山城
赤岩城
南郷城


取扱店:白山市観光連盟
石川県白山市鶴来本町4丁目ヌ85(白山市鶴来支所1F)



★古戦場カード
手取川古戦場

★城郭カード
鳥越城v2→こちら
二曲城v2→こちら
舟岡山城→こちら
槻橋城v1.1
松任城v1.1→こちら
倉ヶ岳城v1.1


取扱店:白山市立鳥越一向一揆歴史館
住所:石川県白山市出合町甲26





★古戦場カード
九頭竜川古戦場

★城郭カード
鳥越城→こちら
鳥越城v3
二曲城→こちら
高尾城v1.1
蓮台寺城v1.2
若松本泉寺
波佐谷松岡寺
山田光教寺
塔尾超勝寺
虚空蔵山城v1.1→こちら
和田山城



【能登国】

取扱店:道の駅すずなり
住所:石川県珠洲市野々江町シ部15



★城郭カード
正院川尻城→こちら
黒峰城→こちら
飯田城→こちら
馬蝶城
小太郎城
萩城→こちら


取扱店:道の駅のと里山空港(2Fセレンディピティ)
住所:石川県輪島市三井州衛10部11-1


★城郭カード
穴水城→こちら(準備中)
甲山城
丸山城
舌唐川砦
松波城→こちら
立壁城
棚木城
神和住城
姫ヶ城


取扱店:花嫁のれん館
住所:石川県七尾市馬出町ツ部49

★城郭カード
小丸山城v3(春version)2022年春発売
小丸山城v4(春version)2022年春発売

小丸山城v5(夏version)
小丸山城v6(夏version)



小丸山城v7(秋version)2022年秋発売予定
小丸山城v8(秋version)2022年秋発売予定


小丸山城v9(冬version)2022年冬発売予定
小丸山城v10(冬version)2022年冬発売予定




取扱店:七尾城歴史資料館
住所:石川県七尾市古屋敷町シカマ藪8-2

★城郭カード
七尾城→こちら
七尾城v2→こちら



取扱店:のと里山里海ミュージアム あおカフェ
 住所:石川県七尾市国分町イ部1 能登歴史公園内






小丸山城v2



★古戦場カード
末森合戦古戦場→こちら
誉津石古戦場
菱脇合戦古戦場

★城郭カード
七尾城v3→こちら
七尾城v4

小丸山城v1.1→こちら
石動山城
荒山城→こちら
石場山城
小柴峠城
石動山長坂道砦
石動山二宮道砦
石動山荒山道砦
石動山大窪道砦
石動山多根道砦
二穴城
末森城→こちら
坪山砦
御舘館
金丸城
徳丸城








48年ぶりに蘇る【岬巡りの旅in北海道】

2023-06-17 10:38:39 | ネイチャー・旅行・まつり
北海道旅行
初日の記事は→こちら
二日目の記事は→こちら
三日目の記事は→こちら
四日目最終日の記事は→こちら



北海道旅行のまとめをしていたら今から48年前、学生時代に訪れた北海道旅行の写真が出てきた。

生まれて初めて訪れた北海道は、青春の1ページに鮮烈に焼き付いています。


昭和50年(1975)8月10日
運転免許取りたての自分は友達に誘われ、アルバイトで稼いだ5万円と僅かな着替えをマジソンスクウェアガーデンの白いバック(参考→こちら)に詰め込み家を出た。

友達、、、「幸雄」(仮名)は高校の同級生で、番長格として一目置かれていた。
幸雄と親しくなったのは、夏休みに通った運転免許教習所で同期となったからでした。 免許合格となった翌週、幸雄から突然『北海道に一緒に行こう!!』というお誘い。
半ば強引に誘われ、すでに彼の友人から車を借り受け、テントなど野営道具も準備してありました。

初日は自宅を出発し、日本海沿いにひたすら北上し青函連絡船乗り場の青森港を目指しました。当時は北陸自動車道も全線開通しておらず、いわゆる下道を走ったわけですが、新潟県は日本海沿いに長く伸び、北陸3県ほどの距離があります。自分は助手席に座っていたんですがこれだけ長時間座っていた経験がなく、突然お腹が痛くなり急遽新潟のとある町で薬屋を探し、薬を飲んで事なきを得たことが強く記憶に残っています。

その後は順調(だったと思いますw)に青森港にたどり着き、青函連絡船に乗船しました。
当時繁忙期10往復の乗用車航送が行われておりましたので、平均2時間半に1本くらいは函館行きの便があって、待ち時間のロスは無かったんだと思います。

内地wの行程図(イメージです)
下道を北上、
走行距離約720㎞
走行時間約15時間30分(休憩時間を除く)、、、※いずれもルート検索アプリでの概算値です(以下同)



青森-函館
現在のフェリー航路



青函連絡船の乗船券(帰路)
3m以上4m未満の車両で6800円
所用時間は片道約3時間50分でした。



自宅から函館までは、単純に計算しても(車15時間30分+フェリー3時間50分)=19時間20分 
休憩や乗り合わせの待ち時間を入れると、片道24時間の一日仕事。
8月10日出発→20日帰宅の9泊10日の旅行でしたが、うち2日間は移動に費やしたことになります。

函館に上陸してからの細かい行程や宿泊先などは記録にありませんが、残された写真と記憶で行程を検証してみることにします。


◆地名や施設名が記録されている写真は以下。
「支笏湖」


「摩周湖」


「網走刑務所」


「日本最北端の地(宗谷岬)」


「ノシャップ岬」


「朱鞠内湖」


「余市ニッカウヰスキー」



◆手元に残っている資料
「愛国から幸福行鉄道乗車券」(キーホルダー)


「木彫りの熊」


「「銭函バリヤー(IC??)のレシート」


「青函連絡船乗船券レシート」



◆記憶に残っている場所名
「札幌市白石区の友人宅」
「襟裳岬」
「阿寒湖」
「アイヌ村」
「風蓮湖」
「サロマ湖」

◆記録や記憶残っているが場所名が不明
「ディスコ」

「盆踊り」


「アイヌ衣装のコスプレ」


「ユースホステル」

「酪農地帯・一面の牛」


「海岸線」


「直線道路」

◆記憶があいまいなところ
宗谷岬・ノシャップ岬から朱鞠内湖までは明確なんですが、その後「余市ニッカウヰスキー」までの行程が思い出せない。
ディスコでフィーバーしたのは「旭川」だったと思うんですが?
道央自動車道にて札幌経由で行ったのか?
233号線で留萌→日本海沿いに石狩経由で行ったのか?

札樽自動車道「銭函バリヤー(IC??)」のレシートが残っているけど、銭函で乗ったのか?降りたのか?が不明
400円という金額、現在の価値では1000円くらいでしょうか?
余市から銭函なのか(復路)?
旭川から道央自動車道→札樽自動車道銭函なのか(往路)?


とにかく余市のあとは札幌市白石区の友人宅で泊りました。

石狩廻りで行ったとして道内の行程を地図に表してみるとこうなります。




まさに【岬巡りの旅】
1974年発売の
♪岬めぐり♪ 山本コウタローとウィークエンド



この旅の計画を立てた幸雄は、前年に発売されたこの「岬めぐり」という曲に触発され北海道の岬を巡ってみようと思ったんでしょうね。
自分はただ付いていくだけで旅行の計画には参加していませんし意図も訊いてはいなかったと思いますが、今検証してみると行程が緻密に計画されていたことがわかります。

函館上陸から時計の逆回りで北海道一周。ほぼ一筆書きで函館に戻ってきている。
観光地はスルーして岬や湖といった北海道の自然を満喫するルートです。
道内約2200kmを走破するのは気力・体力が充実した若いうちしかできないことですね。
しかも宿泊が予約無しの出たとこ勝負。
でも幸雄は要の宿泊地に「ユースホステル」を選んでいたんだと思います。 行き当たりばったりの偶然ではユースホステルを見つけることはできなかったと思います。

ただ最後の宿泊地となった札幌市白石区は自分の友人の自宅だったので、余市から札幌に戻ることになって一筆書きが崩れてしまったんだと思います。幸雄の計画では余市からニセコを通って道央自動車道・長万部から函館に戻る一筆書きが完成していたはずなんだろうなと、この地図を見て感じました。



【宿泊】
ユースホステルで2回?
テントで2回
友人宅で1回
車中泊2回?

ユースホステルなんて存在はこの旅で初めて知りました。 ユースホステルとは日本ユースホステル協会HP→こちら

バイクや四輪、自転車で日本一周なんてひとも、個人もグループも、男も女も一つ屋根の下で泊って、飲んで、歌って、旅のノートに書きこんだり。これが青春だ~っ!!て感じです。
中には同じコースをたどる人(グループ)もあって、行くとこ行くとこで再会するってこともありました。


【アクシデント】
★初めての長距離ドライブでお腹が圧迫され腹痛になる(新潟県で薬局に走る)

★スピード違反で反則金を納付、いきなりの出費で予算狂う(函館上陸後の直線で速攻スピード違反で検挙される)
 愛想のいい警官が『いやいや、内地から来るとほっかいどうひろいからねぇっ! スピードだしちゃんだよねぇっ!』にっこり笑って切符切った💦

★幸雄と喧嘩した事
単調な風景、周りには牛しか見えない景色に飽きてしまったのが原因。

★隣町まで120km
恐ろしく遠い

★朱鞠内湖でテント浸水
朱鞠内湖キャンプ場でテント張ったけど「蚊」が多くてどうしようもなく、蚊取り線香を買いに行ったが、隣町が60km先で蚊取り線香買うだけで往復120km走った。
しかも帰ってきたら、折からの雨でテントが浸水しており、結局車中泊する羽目になった。

※2023年5月14日、朱鞠内湖で釣り人がヒグマに襲われ死亡するという痛ましい事故が発生しました。当時はヒグマの知識もなく(個体数が駆除によって少なかった)のんきにキャンプしていましたが、現在は個体数が劇的に増加し事故が多発しています。人間を恐れないヒグマ、遭遇したら即襲われる。一人では山に入らないというのが唯一の対策だそうです。お亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。
web記事は→こちら
ツアーで北海道滞在中に見たNHK特集→こちら


★お金が無くなる
最終日は財布のお金が底をつき、青函連絡船乗船代金・ガソリン代さえ危うい状況。
札幌の友人宅で泊らせてもらい、出発する際にはお母さんにオニギリ2食分持たせてもらったが、新潟県でガソリン切れ目前となり、交番に駆け込みおまわりさんにお金を借りました。空腹を満たすために冷たい麦茶を何杯もお代わりしたのが忘れられません。
もちろんその後交番に書留で返金した(ハズ💦)
おまわりさんと札幌の友人・お母さんに感謝です。


【2023年 レンタカーで廻る北海道4泊5日を計画してみて】(結局ツアーになってしまったけどw)
いままで無謀な旅と思っていましたが、幸雄の緻密な計画が根底にあったんだなと今更ながら気づきました。

今ではパソコンアプリで移動距離や時間を算出し、行程を予測することができますが当時はそんなものは無く、地図帳とガイドブックをにらめっこして何度も手書きで計画を練り直したんだと思います。

あとはアドリブwww
計画の変更が柔軟にできる修正能力と対応力が勝負!なんですよね。


色褪せた写真を観る度、色鮮やかに記憶がよみがえる。
こんな経験は若い時にしかできません。
死ぬほど楽しかったし、ここでは言えないあんなことやこんなことも。。。ヽ(^o^)丿


【経験を活かして2回目、3回目】
社会人になってから社員旅行・慰安会で2回北海道を訪ねました。
特に転職後の3回目は自分が幹事をしてグループをお世話することになりました。


★平成5年(1993)
京都の日用品商社時代
登別-小樽-札幌・2泊3日




★平成10年(1998)
スズキ時代
函館ー登別-札幌



【死ぬまでにもう一度】
未踏の知床岬
カズワンの事故が忘れられませんが、一度は行ってみたいですね。

鳥羽城@三重県鳥羽市 2022年8月18日

2022-09-12 05:31:07 | 城歩き
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石垣が残る三重の城巡りまとめは→こちら




三重県指定史跡
鳥羽城
水軍の基地に適した、良港で知られる泊浦(鳥羽)の妙慶川河口部に位置し、標高40mの小山を中心に築かれた平山城で、南方山頂部に設けられた本丸を中心に、自然地形を利用して雛壇状に曲輪を配置しています。
 大手門は海に開いた水門で、内陸側には堀を巡らせ、四方を海に囲まれた海城でした。内陸部からは「藤口門」、「横町口門」と「相橋口門」の3つの橋で連絡し、天守をはじめ、13の櫓が廃城時にありました。
 城内は絵図によれば、本丸の北西よりに三層の天守があり、南側には本丸御殿がありました。内藤忠勝の時代の延宝8年(1680)に内藤家が断絶になった際の作事書に、天守の規模は5間(約9.1m)×6間(約10.9m)で、高さは約19.5mであったとされています。

志摩地方に勢力を伸ばしていた「戦国最強の水軍大将・九鬼嘉隆」が築城。四方を海に囲まれた海城でした。本丸には三層の天守があったそうです。
九鬼氏がお家騒動で国替えになってからは何度も城主が変わり、幕府直轄地を経て最終的には稲垣氏が入封して明治を迎えました。

版籍奉還により城郭の建物・城門・櫓等は取り壊され、内陸の「蓮池」が埋め立てられ、海側も造船所建設により城の遺構は取り壊されました。また、昭和に入ると本丸より一段下がった南には旧鳥羽小学校、家老屋敷跡の南にも鳥羽市役所・市民文化会館が建設されました。

鳥羽城跡は鳥羽水族館の裏山にあたり、ミキモト真珠島や美しい鳥羽湾が一望できます。



場所は三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1(城山公園)
鳥羽水族館裏手の駐車場から、6段石垣を通って登ると城山公園に行くことができます。
自分はパンフレットの鳥羽城へのアクセスに書いてある通り、鳥羽市役所駐車場に車を停めました。
ナビは鳥羽市役所本庁舎( 三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1)にセット、庁舎南側の細い道を山の方へ登った先に庁舎裏手の駐車場がありました。



ここは鳥羽城家老屋敷跡の南側にあたり、家老屋敷石垣が目の前にあります。



この階段を山に向かって登ると鳥羽城址です。


イラストマップ




江戸時代の絵図







階段の先は
「三の丸」



本丸に向かう大手道には石垣が残っています


虎口の石垣でしょうか



三の丸から本丸に向かう途中東に開けた谷に、雛壇状に弧を描くように築かれた石垣がありした。
あまりに整然としており映えのするビューポイントなので地元の知人に訊いてみると、近年整備された石垣との事。な~んだ(;^ω^)
鳥羽水族館裏手の駐車場から直接上ってくるルートでもあります。





「本丸石垣」









登りきると頂上部には平坦面が広がります。


本丸「天守跡」


本丸「井戸跡」


本丸より一段下南側に「旧鳥羽小学校」の廃墟



本丸からの眺望



城山公園
💛TOBA
恋人たちの聖地💛


眺望






平成18年(2006)5月7日
【かんぽの宿鳥羽】(現亀の井ホテル鳥羽)で宿泊しました。
鳥羽城の目の前でしたが、当時の興味は「鳥羽水族館」と「ミキモト真珠島」でした。
おろしたての新車でドライブしたのが昨日のことのようです。



【鳥羽城】
《戦国期最強の水軍を率いた九鬼氏の海城》

名称(別名);とばじょう(錦城)
所在地;三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1(城山公園)
城地種類;海城(30m/-)
築城年代;文禄3年(1594年)
築城者;九鬼嘉隆
主な城主;橘氏,九鬼氏,内藤氏、土井氏,板倉氏,松平氏,稲垣氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;3重(1633年築)現在は無し、石垣,郭

※出典、、、
地図;




◆御城印 



設置場所:鳥羽駅観光案内所
住所:三重県鳥羽市鳥羽1丁目8−13
営業時間:9時~17時30分



地図:



◆スランプラリー・スタンプ
設置場所:鳥羽市歴史文化ガイドセンター
住所:三重県鳥羽市鳥羽1丁目10−48
営業時間:9時~16時
地図:
鳥羽駅観光案内所のとなり

田丸城@三重県度会郡玉城町田丸 2022年8月18日

2022-09-09 03:55:02 | 城歩き
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石垣が残る三重の城巡りまとめは→こちら


田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や渡会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。 
 室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建てて田丸城の誕生となった。天正8年にはこの天守は炎上した。
 江戸時代には紀州藩主徳川頼宜の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの地域の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの地域も町有化し、町民に解放された。玉城町、、、現地説明板より


場所は三重県度会郡玉城町田丸
ナビは「玉城町役場」(〒519-0495 三重県度会郡玉城町田丸114−2)にセットしてくるのが良い。同役場の駐車場に車を停め、向かいにある「村山龍平記念館」にて御城印や資料を収集してから登城することをおススメします。
玉城城本丸虎口脇の駐車場は3台分ほどしかないので、やはり町役場の駐車場に停めて徒歩で登るのが良いと思います。

田丸城縄張り図(「村山龍平記念館」で頂いたパンフレットより)





外堀から大手門橋を渡って大手門跡に向かいます。



「田丸城外堀」
大手門橋より北方向



「大手門跡」
大型石材を多く組み合わせて石垣を構成している。


同角石の算木積み
後世の積み替えの可能性はある。



「村山龍平記念館」
続100名城スタンプ、スタンプラリー・スタンプ、田丸城御城印、設置場所
大手門橋を渡った右手にあります。反対側は田丸町役場と駐車場です。



「田丸城内堀」
町役場から田丸保育園に向かっていくと田丸城石垣の方向に内堀の跡が残っています。
内堀に植えられた大賀ハスは7月から8月上旬まで楽しめるそうです
大賀蓮(縄文時代に咲いていた古代蓮)→こちら
見ごろでした。


今年は大好きな花ハスとの相性がいいですね~♪



「三の丸」
跡地に建つ「玉城中学校」


三の丸井戸水源「金明水 銀明水」
玉城中学校のグランド辺りに石碑が建っています。




「本丸虎口」


他の石垣とは異なり、この場所には整えられた石垣が見られます。


枡形
所々に鏡石状の大型石が使われており、石垣面と石面があっている。


城門石垣


虎口から北側石垣





北の丸石垣
田丸城で一番古いと考えられる石垣。隅角部が算木積みになっていない。





「北の丸」



北の丸に創建された「城山稲荷神社」



土塁跡か?



北の丸北側遊歩道
まるで空堀のようですね~






「本丸石垣」
西櫓台




西面


南西隅


南面


本丸広場




「天守台」
かつて三層の天守があった天守跡
天守台は本丸北側に位置しており、内部に穴蔵を持つ古い形式のもので、南側には付け櫓が付属していました。天守台は高さ約4mで、東西約17m・南北約18mのほぼ正方形に近い平面をしています。付け櫓台の石垣と石段は、近世以降の改変の手が加えられています。



天守台石垣
北側


南側


西隅石


天守台入り口階段


天守台内部


天守台
多聞石積み?




本丸の二の丸側虎口



二の丸土橋



「二の丸」
土塁か?



二の丸石垣
本丸側土橋から



二の丸 富士見櫓


二の丸虎口(上から)



「富士見門」
玉城中学校蓮池跡の向かいに移築された江戸時代中期の城門。かつては、門の両側に長屋が付いていたことから長屋門とも呼ばれていました。
富士見門と名付けられていることから、かつてはこの富士見櫓周辺にあったのでしょうか?





二の丸虎口(下から)


二の丸虎口石垣



二の丸搦手通路側に残る古い時代の石垣
大小不整合な石材を積み上げており、目立って大きな石材は使用していない。石積み途中に小型の石材をはめ込んだり、後からの間詰石が多い。



田丸城は現在三重県指定史跡ですが、「国の史跡」指定に向け調査を継続中との事です。このひなびた感じがとても親しみやすく、野面積みの石垣が無骨で漢らしさを感じさせてくれます。
今回の三重県の城巡りの中では、想定外の素晴らしい出会いでした。


【田丸城】
《北畠氏が築いた伊勢南朝方の拠点》

名称(別名);たまるじょう(玉丸城)
所在地;三重県度会郡玉城町田丸
城地種類;平山城
築城年代;延元元年(建武3年1336)
築城者;北畠親房
主な城主;北畠氏、織田氏、田丸氏、稲葉氏、久野氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;石垣の修復
天守の現状、形態;天守台石垣が残る

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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◆御城印、スタンプラリー・スタンプ



設置場所:村山龍平記念館
住所:〒519-0415 三重県度会郡玉城町田丸114−1
営業時間:9時から17時(土日祝は16:30)


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