富山城郭カードは→こちら
ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思い日記代わりに記録しました。
北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。
今回は地元、二上山にある万葉ライン建設の犠牲となった守山城址を訪ねることにしました。
国道160号線を見下ろす要衝にあり、わたくし毎日の通勤で通る場所です。また万葉ラインはドライブで、途中にある(あった)『つけ麺まるかん』へはつけ麺を食べるために何回も登りました(笑)
本丸広場は桜の名勝で西は氷見から能登が望め、東は富山湾から砺波平野、小矢部川の蛇行が一望できる「ふるさと眺望点」なのです。
万葉集にも読まれた二上山
遥か福岡町からの遠景
小矢部川からの遠景
小矢部川沿いにある守山の城下町と二上山・城山
かく言うわたくしの先祖は神保氏の家臣で、この守山城に勤務していたようです。しかし上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏の為政者によって社長の神保氏が自己破産したため失業して城下に下り、のんびり農業で暮らしをたてようとサラリーマンから農家に転身し現在に至っています(笑)
なので思い入れもあります。
遺構調査配置図、、、高岡市教育委員会 (赤い矢印と文字は私が加筆)
これに陸軍参謀本部が作成した測量平面図を重ねる。
当時の馬鞍場を駐車場に整備、トイレも完備している。
山頂部に向かって二上万葉ラインが延びる。空堀が残っている辺りです。
駐車場(馬鞍場)から正門があった辺りを通り、その奥に本丸、主郭があったものと思われます。
春には桜が咲き誇る名勝地でもあります。
現在平和観音が建立されている辺りが本丸、千畳敷とも呼ばれている広い空間。
奥から見た本丸、千畳敷。
先端からは眼下に小矢部川の蛇行をみる事ができる。
東に目をやれば高岡市街から砺波平野が一望できる。増山城まで一直線。
海の方向には遥か立山連邦、その麓の魚津にある松倉城まで視界に入る。
反対に西の方角には氷見から能登方向が見て取れる。阿尾城まで一直線。
つまり守山城からは越中三大山城すべてが見て取れるという位置にある。
本丸から腰曲輪(地図上のA4)方向へつながる階段(後付けか?)
階段を下から見たところ。
直進すると腰曲輪A奥に進む
腰曲輪A4
万葉ライン道路に面した広場、本丸直下にある腰曲輪B
腰曲輪A4からは下方向に同C、さらにその下に二の丸D地点が見える。
腰曲輪C地点、左手の階段はにA通じ、直進はB地点、右手方向に二の丸がある。
腰曲輪Cから下の二の丸を見下ろす
二の丸休憩所からC及び本丸方向
二の丸から唯一開けた東側、高岡市街と奥に砺波、増山城方向。
殿さま道を三の丸方向か?下は二上万葉ライン
立体的に連なった曲輪を繋ぐ階段にはたくさんの落石が見られた。
苔むした大きな石は当時の石垣や土塁に使われていたのでしょうか?
今回探索した範囲ですが、自分では三の丸辺りまで下ったつもりでしたが資料と照らし合わせるとどうも二の丸止まりだったようです。次回改めて三の丸から侍屋敷跡、さらに武士屋敷跡も調査(笑)してみたいと思います。
本丸に設置されている守山城址来歴
【概要】
守山城はまた、二上城、海老坂城ともいう。越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水に挟まれた要害であり、築城時期は明らかではないが「南北朝末期(1371年)に南党の桃井直常が石動山天平寺の宗徒と示し合わせて、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落とした」と書かれているため相当古いと考えられる。
【歴史】
斯波氏が越中守護の頃、この城を拠点(守護所)として反抗勢力と対していた。斯波氏と桃井氏がこの城を奪いまた奪い返されるなどの抗争を繰り広げた。のち、越中守護職は畠山氏に移るが、畠山氏もこの城を拠点とし、守護代の神保氏が城を支配した。神保氏の居城であった放生津城の詰城としての役割があった。 永正16年(1519年)、越後国の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗した。
永禄11年(1568年)3月、越後国の上杉謙信(長尾為景の子)は大軍を率いて越中へ侵攻し、守山城を攻撃している。当時の守山城主で織田家と婚姻関係にある神保氏張は、謙信に降伏して配下となっていた神保氏当主の神保長職と対立していた。この時は謙信の本国・越後で本庄繁長の乱が起きたため、謙信は守山城攻めを中止し、引き上げている。
この後、神保氏張もまた上杉氏の配下となったが、謙信没後に上杉氏は越中での勢力を失い、代わって織田信長の勢力が及んだ。神保氏張も再度織田の傘下となり、織田家臣で越中を任された佐々成政の与力として仕え、子息の婚姻関係により佐々氏の一門格となった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉と対立した佐々成政に対し、秀吉に属す前田利家の軍勢が、上杉景勝と呼応し東西から越中に来襲した。氏張も佐々方として転戦した。阿尾城の菊池武勝が豊臣方(前田方)に寝返ったため、氏張はこれを攻めるために出陣したが、その隙に守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父の神保氏重が討たれて城は乗っ取られた。氏張は軍を返して鎮圧したため、城は再び佐々方のものとなったが、前田軍が来襲し、守山城は攻め落とされた。敗北した佐々氏が没落すると佐々一門扱いの神保氏張も連座して領地を失い、守山城を含む越中三郡(礪波・射水・婦負)は前田氏のものとなった。
豊臣秀吉は先の城攻めを賞賛し、利家の嫡子である前田利長に守山城を与えた。九州征伐のあと佐々の肥後移封により、残る一郡(新川)も前田領とされ、上杉家の越中衆(土肥政繁など)から青山吉次が諸城を受け取る。慶長2年(1597)、利長は富山城を改築して移り、前田家家臣(一族)の前田対馬守長種が守将となったが、前田家二代目(嫡男)と一家臣(城代)ではその家臣の数も違ったのであろう、守山城の商家や寺院らは富山の城下へ次々と移転し、守山城下は寂れたと伝わる。
※前田利種は利家の本家筋に当たり、七尾城守備、守山城代、富山城代、小松城代を経て2万石を休され、前田土佐守家と共に加賀八家前田対馬守家として続いた。
、、、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【守山城最後の当主 神保安芸守氏張】
佐々成政に従った後関東に赴き徳川家康に仕え旗本になっていた。
佐々成政が肥後で切腹したあと、天正17年(1589)浜松で家康に仕え旗本となって、文禄元年(1592)下総の国香取郡で二千石の知行を得ていた。
菩提寺は成田の郊外成田市伊能の曹洞宗「宝応寺」
墓碑には「越中守山之城主 従五位下 神保安芸守氏帳」とある。
初代が越中時代に守山城の主であったことを誇りにしていたことが伺える。
そこには遠く関東まで下った神保氏の越中への思いが込められているかのようである。
、、、高岡市教育委員会守山城調査資料より抜粋
【守山城】
《越中の三大山城の一つ》
名称(別名);もりやまじょう(二上城)
所在地;富山県高岡市東海老坂城山
城地種類;連郭式山城 (標高259m/比高250m)
築城年代;南北朝時代
廃城;慶長3年頃
築城者;桃井直常
主な城主;神保氏 佐々成政 前田利長
主な改修者;
文化財区分;
近年の主な復元等;
遺構;郭 石垣 空堀
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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