伏木古国府にある勝興寺は文明3年(1471)に蓮如上人の次男蓮乗が今の福光町土山に土山御坊を開いたことが起源である。明応3年(1494)土山から高木場(高窪)へ、さらに永正16年(1519)に当地へと移転していく間に、真宗教団内での寺格も次第に高くなる。
天正9年(1581)当時の住職顕幸が石山合戦に出陣中、木舟城主石黒左近に攻められ、焼失するまで当地にあった。天正12年(1584)佐々成政は守山城主神保氏帳を通じ現在の勝興寺が寄進され、古国府の地に再興となった。、、、現地説明板より(富山県教育委員会、小矢部市教育委員会)
土山御坊の記事は→こちら
移転再興した勝興寺の記事は→こちら
場所は富山県小矢部市末友
北陸道小矢部ICより国道359号線を金沢方面に走り、末友の交差点で県道274号線を砂子谷方面へ左折。
この交差点はJAの元給油所を改装した特産品即売所となっているので目印になります。
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交差点を左折するとすぐに渋江川を横断します。
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この辺りから安養御坊の土塁が見え始め、次の八幡宮の交差点を左折し一筋目の農道を左に入ったところです。
車で行くと見逃しますので、八幡神社に車を停めて徒歩で向かうのが良いと思います。
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農道を入った田んぼの一画
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小矢部市指定文化財史跡
勝興寺の安養御坊跡という説明板と石碑が建立されています。
整地された一角は、庭園のように生け垣が施され地元により管理されていることがわかります。
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縄張り図などの説明板が無いため、事前の下調べがないとこのまま帰ってしまいますよね(;^ω^)
さらにこの辺りの地形は背後の山から傾斜しているため、棚田のような耕作地と住宅地が続き、下から見ると全てが土塁のように見えて素人の私には遺構との区別が付きません(;^ω^)
今回は『MyDNS。jp』さんの資料を参考にさせて頂きました。大変詳しく説明されていましたので3月10日以来2回目の訪問で、ようやく全体図がつかめた思いです。ありがとうございました。『MyDNS。jp』さんの記事は→こちら
建立されている史跡記念碑を中心に、見て回ったポイントを地図に落とし込んでみました。
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①史跡記念碑北西側
県道274号線の渋江川を渡った脇道から記念碑に至る農道を中心に、左手に土塁。中央奥の大きな木の向かい辺りが記念碑のある場所です。
建っている辺りが城域の北西隅にあたり、渋江川が天然の堀となっています。
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②北西側土塁
せり出している土塁の端をカーブして迂回する県道274号線
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③北西側土塁遠景
県道274号線、南から北方向を見て右手に広がる土塁
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④北西側土塁遠景
③とは逆方向の渋江川から見た北西側土塁。土塁の高さは写真奥に写っているダンプカーより高い
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⑤西側土塁分断
西側にせり出した土塁の端っこを分断して、県道274号線が建設されたことが伺える。
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⑥県道274号線によって分断された、西側の土塁(北面)
緩斜面の端という地形です。
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⑦県道274号線によって分断された、西側の土塁(南面)
自然地形の緩斜面を切岸のように加工して断崖にしたのか、まったくの自然地形なのか私には区別が付きません(;^ω^)
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⑧八幡神社
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⑩八幡神社土塁
南東隅の張出部分、手前は民家側の土塁
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⑫東面土塁
等高線でみると石碑のある辺り(主郭部か?)は一段高くなっており、それを取り囲むように二段目があるという感じです。
一段高い主郭?を構成する東面は屋敷林のある民家の辺りで垂直に曲がっています。
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⑬東面土塁
⑫に続く東面土塁の北側の端となります。この先、かなりの段差で二段目となります。
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⑭東面土塁
⑫から⑬に至る東面土塁を二段目に建つ民家方向から撮影。段差がクッキリ現れています。
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⑮東面二段目土塁の民家
⑭写真の反対側を振り返って撮影。屋敷林のある民家は土塁の北端に建っており、土塁の段差が見て取れる。
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⑯土塁段差
⑮土塁北端のクローズアップ。法面はほぼ垂直に近い角度に加工されている。
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⑰北面土塁
渋江川沿いの工場付近(北)から南向きに、北面土塁を撮影。画面左が二段目で、同右側が一段高い主郭?方向で高さの違いが判る。
地元の長老によれば、渋江川をせき止め氾濫させると写真手前の水田(三段目)は水没し、あたかも水に浮かぶ城のようでもあるとの言い伝えがあると言う。
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⑱二段目北面から直角に曲がる土塁
写真正面は二段目の北面土塁で、直角に曲がってL字型の壁を構成しているように見える。
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⑲二段目東面土塁
⑱の東側土塁、民家下の法面はかなりの急角度で、二段目ではあるが三段目との段差は3m近くある。
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⑳二段目東面土塁北端
⑲の北側の端っこ。その先は国道359号線に至る。
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㉑湿地帯に浮かぶ水城にも見える
⑳から対角線上に見える石碑(主郭?)方向。二段の段差で水田の辺りは当時沼地に浮かんで見えたかも知れません。
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㉒渋江川越しの主郭方向
⑳地点から側道を通って渋江川に架かる橋詰から撮影。
渋江川が天然の堀となって北西方面の守りを固めていたんでしょうね。
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最後に地元の長老から面白い話を伺いました。
二段目土塁の東面に建つ民家(⑲-⑳)は、昔から地元では『やぐらさ』という屋号で呼ばれているそうです。
『~さ』と言うのは「〇〇さん」の事で、「やぐら」は「櫓」、、、つまり「櫓さん」という意味の屋号だというわけです。
昔はその辺りに櫓が建っていた事を現わしているんでしょうね。
家を建てる際に地面を掘ったら、建物跡のようなものが現れたそうですよ。
また記念碑が建つ辺りでは、区画整理の際「焼け焦げた材木や板切れが出土」したとの事。
きっと木舟城主石黒氏によって攻められた際の寺の瓦礫だったのでしょうね。
今回は貴重なお話も聴け、大変有意義な攻城となり感謝です。
【安養寺城】
《一向衆の拠点「勝興寺安養寺御坊跡」》
名称(別名);安養寺城、安養寺御坊
所在地;富山県小矢部市末友
城地種類;平城
標高/比高;
築城年代;永生16年(1519)
廃城年代;天正9年(1581)4月
築城者;実玄
主な改修者;
主な城主;一向一揆
文化財区分;小矢部市指定史跡
主な遺構;空堀、鐘楼堂跡
近年の主な復元等;
※出典、、、
地図;