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あみの3ブログ

00松任城 @石川県白山市 令和二年(2020)4月3日

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ラーメン食べ歩きの腹ごなしお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思い日記代わりに記録しました。

北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。

【松任城】
松任城はJR松任駅南の古城町を中心に殿町、西新町にまたがってあったと言われ、平安時代末期に当地を支配していた松任氏の館として成立し、後に一向一揆の旗本である「松任組」の本拠地として城砦の形が整えられてきました。
天正5年(1577)上洛を目指す上杉謙信に攻撃を受けますがその時の城主鏑木頼信が和睦にまで持ち込んだと言われています。これは松任城の南約6kmの水島付近に七尾城を目指す織田軍が既に陣を構えていたからでしょう。しかし織田軍は検診が七尾城を攻撃したと知るや夜半に撤退を始めます。手取川は数日来の雨で氾濫しており、検診はこの機を逃さず松任城から水島へ兵を進めます。この手取川の戦いは謙信と信長の最初で最後の戦いとして有名です。
この松任城も天正8年(1580)織田軍の柴田勝家により落城し、鳥越城主鏑木出羽守までもこの松任城に呼び出され謀殺されてしまいます。日本史上例のない100年余り続いた「百姓の持ちたる国」は遂に終焉を迎え、その後織田方の城として加賀藩初代藩主となった前田利長が3年間、丹羽長重が11年間在城し、この頃に平城として整えられました。
しかし松任4万石として栄え、手取川扇状地の中心にあった松任城は徳川幕府の「一国一城令」によって廃城となりました。
※松任城の歴史について、白山手取川ジオパークより抜粋


本丸、二の丸、三の丸、矢倉台、出丸等の曲輪を備え、それらは幅9mから23mの水堀。、空堀、土塁により守られていました。
外堀で区切られた城域は南北305m、東西301m余りだったと推測されます。(ほぼ高岡城と同規模、、、私見です)



【概略】
松任範光が鎌倉時代初期に築城したと伝えられている。長享の時に鏑木繁常が松任城主となる。
1577年(天正5年)の手取川の戦いの際に上杉謙信が攻略して落城したとも、織田軍によって落城したともいわれる(『越登賀三州志』)。謙信は城将を松任に派遣し、一向宗と対織田で共闘した。 御館の乱を経て上杉氏の加賀衆が越中や上中越の諸城に転出し、加賀での影響力が著しく低下すると、1580年(天正8年)に柴田勝家が松任城を落城させ、家臣の徳山則秀が入城した。
賤ヶ岳の戦いの恩賞で1583年(天正11年)に前田利長に松任4万石を与えられ越前府中城より移った。富山の役の恩賞で利長が越中3郡を与えられ、松任にはこの戦いの失態で処分を受けた丹羽長重が移されたが、後に加増を受けて小松城に移った。江戸時代に入って、一国一城令により廃城となる。
松任城が存在した一帯にはおかりや公園の名称があったが[1]、2010年に松任駅周辺の再開発とともに公園の整備に着手。名称を松任城址公園(まっとうじょうしこうえん)に改称し翌年の2011年に一般開放された。公園内には石垣の一部が復元されている。現在は桜の名所としても知られている。

【見どころ】
松任城址公園正面石碑


櫓台跡


中央広場


裏手から


かつては水堀があったことを示す橋が架かている


隣は松任文化会館



※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加

【松任城】


名称(別名);一名蕪城、鏑木城
所在地;石川県白山市古城町42(松任城址公園)
城地種類;平城
築城年代;鎌倉時代初期
築城者;松任範光 主な改修者前田利長
主な城主;松任氏、鏑木氏、若林氏(上杉)、鈴木氏(一向宗)、前田氏
文化財区分;未指定
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;曲輪遺構
地図;



※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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