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あみの3ブログ

00松倉城 @富山県魚津市 令和二年(2020)4月10日 曲輪編

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越中三大山城
富山県史跡 松倉城

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この日の行程を説明しますと



魚津市街地から県道33号線で「角川ダム」に向います。途中金山地区の小学校前にも登り口がありますが、こちらは復路の帰路に使いました。


「角川ダム」を過ぎると


「松倉城跡」の看板がありますので左折「林道鹿熊線」を登ります。


途中「城跡への登山口」があります。徒歩で登る場合はここからです。


林道の山桜が青空に映えます。


途中で「武隈屋敷」の分岐があります。


さらに登ると今度は「入城の門」との分岐があります。



◆「入城の門」


ここは広場となっていて遊具や駐車場もあってピクニックに最適。



この分岐から「林道鹿熊・城線」を通って約900mで駐車場に到着します。
◆「駐車場」
トイレもあります。


本丸切岸下にはりっぱな顕彰碑も建っております。


麓からの登山道はここ出ます。


本丸へは階段を登ります。


過去何回も転倒したことを踏まえ、しっかりした靴を準備しました。



◆「二の丸」と「本丸」の分岐看板があります。

【史跡 松倉城跡】
魚津市の南部に位置する城山と呼ばれる丘陵上に築かれた山城です。城の構造は、南北方向に広がる尾根上に切掘りで区切り、複数の曲輪で構成された連郭式山城となっており、本丸部分は県の史跡に指定されています。
本丸の奥、南端の曲輪である八幡堂から最も標高の高い平の峰(標高430m)までの直線距離は約650mあり、尾根上には多数の平坦面が設けられています。また松倉城の北西側にある大見城平には、多くの平坦面や石積みの門があり、かつて城下町があった鹿熊地区へ至る山道も残っています。さらに本丸(標高413m・面積3600㎡)から見渡す眺望は格別で、西に富山市方面、北は魚津市内を望むことができます。
築城年代は定かではありませんが、南北朝時代の14世紀前半と考えられています。その後幾多の武将がこの城を巡って争い、戦国時代末期の16世紀末に至る約200年間の長きにわたって新川郡の要として、政治的・軍事的に重要な役割を果たしてきました。またこの城の発展には、背後に控える松倉金山が関係したと考えられています。
平成22年9月 魚津市教育委員会



本丸への階段を登ると平坦地が広がり、


その先端部は一段高くなっており「松倉城跡」の石碑が建っています。


先端部空堀を挟んだ向かい側に「祠」があります。


本丸に立つ休憩所ははちょっとした資料館のようで、


立体模型とタッチパネルで目標物が点灯する仕掛けとなっていますが既に機能していませんでした。


本丸からは富山湾が一望できます。


また反対側には立山連峰が控えています。
手前は「松倉金山」採掘現場ですが謎のピラミッドが出現したかのような光景でした。


「鹿熊」の地名通り、鹿や熊が出没する自然豊かな場所で、なんとニホンカモシカと遭遇。野生の雄々しさを感じることができましたが熊でなくてよかったです。


本丸から見た駐車場


かつては石垣があったのでしょうか?


本丸から見た二の丸


◆「二の丸」
本丸より一段低い山を平坦にした空間。
小高い部分と二段構え


土塁跡


三の丸方向に階段があるが大手口か?


下は二の丸を取り巻く腰曲輪


切岸と空堀



入城の門の分岐に戻る途中で
◆「四の丸」


「三の丸」とは切堀で分断





◆登ってきた道「武隈屋敷」の分岐まで戻ります。


ここからまた林道を通り「武隈屋敷跡」を目指します。


単なる武家屋敷ではなく、支城だったのでしょうか?
「小菅沼城(武隈屋敷)跡」
入り口には案内看板と史跡指定の杭が建っている。

【小菅沼城跡(武隈屋敷跡)】
武隈屋敷は小菅沼城とも呼ばれる城舘跡で、周囲が高い石垣で囲まれ、出入り口には枡形の門跡が残る。
室町時代の松倉城主椎名氏の家老と伝えられる武隈氏は椎名氏滅亡後もこの地に居住していたが大正期に他県に移転している。
屋敷跡は金山谷から松倉城への途中にあり、一辺が60~70mの方形で石垣が巡らされている。小菅沼地区にはこのほかにも土塁で囲まれた館跡が存在しており、松倉城の時代に支城や城舘群が小菅沼地区に多数存在していたと考えられている。
富山県教育委員会・魚津市教育委員会



敷地は小高い土塁で囲まれており、それぞれ石垣が積まれている。


交差する林道に面したもう一方の土塁と石垣


敷地内には作業小屋のような建物があるが関係はなさそう。


敷地内を進むと竹藪の奥に土塁を発見。
溝を挟んで二重の土塁構造にも見える。


一段下がったところに民家が建っているが現在は空き家になっている。「武隈」一族との関係は分かりません。
「武隈屋敷跡」とこの民家の高低差が気になり、民家の方向に下りてみたところ貴重な遺構を観ることができた。


この高低差は切岸と土塁で構成され、民家側(外側)には石垣が積まれていたのだ。
民家側から見た石垣


角の部分あほぼ45度


角石
時代的に算木積み以前の古い工法でしょうか




内側から民家の方向をみると土塁構造なのが分かる


四方を土塁と石垣で囲まれた敷地内に、さらに土塁を積んで石垣を施た一角がある


厳重な防御線


民家から県道に出ると忠魂碑がある
碑文をみると明治時代に建立された「武隈一族」のものであろう。






帰路は「ヤギの杜」を通って急な下り


崖から湧き出す「伏流水」で癒される。


クレソンや山葵を栽培していました。



県道67号線に合流、


金山谷地区の小学校側登り口に出ます。


そこからは県道33号線を戻るルートとなります。




【まとめ】
林道は舗装・整備されていますが道幅が狭く曲がりくねっているので脇見は禁物です。標高が高く見晴らしはいいが、谷が深く怖いです。カーブの手前はしっかり減速して警笛で対向車に注意喚起が必要。

本丸・二の丸がコンパクトにまとまっているので散策しやすいし、駐車場も含めよく管理・整備されているが、本丸に建っている小屋の立体模型は少し場違いな感じがしました。
野生動物の出現に少々驚きましたが、熊でなくて本当に良かった(笑)
頂上からの眺望を含め、大自然に抱かれている感じがしてその当時に思いを馳せることができました。

残念だったのは、「三の丸」「四の丸」「のろし台」へのルート案内が無かったので車で移動したら通り過ぎてしまい、林道なので駐車するスペースもなく泣く泣く通過。

逆に思いがけず良かった点は、「武隈屋敷」の遺構の保存状態の良さ。
土塁や空堀、三方向の石垣、門の枡形などが残り家老の屋敷跡とタカをくくっていましたが、これはれっきとした城ですね。
民家があるのでどこまで立ち入ってよいものか迷いましたが、天候と足物の良さに助けられ十分に探索することができました。
もっと説明資料あればさらに良かったかもです。
落ち着いた「武隈屋敷」のイラストを描いてまとめてみたいと思います。


【松倉城】
《越中三大山城の一つ》



名称(別名);まつくらじょう(金山城、鹿熊城)
所在地;富山県魚津市鹿熊字城山
城地種類;山城(420m/350m)
築城年代;南北朝期1335年頃
廃城;17世紀初頭
築城者;
主な城主;井上氏、桃井氏、椎名氏、上杉氏
主な改修者;
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;慶長年間に廃城
遺構;削平地・切岸・堀切・竪堀・横堀・土塁・石垣・井戸
出典;越中中世城郭図面集Ⅱ

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