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【飯久保城】
飯久保城は、仏生寺川中流右岸の丘陵上に築かれた戦国期の山城である。標高75mの最高地点からは、かつて仏生寺川下流に広がっていた布施湖と、その周辺の平野を見下ろすことができ、さらに氷見市街・富山湾まで望むことができる。
城主と伝えられる狩野氏は、飯久保城の他に惣領砦・鞍骨城などを築き、氷見地域南西部を支配していたとみられる。永禄3年(1560)頃には、人質を差し出して富山城主神保長職に属しており、また同4年には光久寺に寺地などを寄進している。その後は、相次いで越中を支配した上杉謙信、佐々成政に属したようである。
天正13年(1585)8月、佐々成政が豊臣秀吉に降伏した時に、狩野氏は城を退去し、飯久保城は廃城になったと推測される。狩野氏はその出自や、城退去後の動きについて不明な点が多いが、宝永5年(1708)江戸で浪人をしていた子孫が、富山藩に仕官している。
城の規模は、南北250m、東西400mに及び、曲輪・土塁・堀などが良好に残っている。また城下には「鍛冶屋町」の地名が残り、城下集落の存在が推測される。
氷見市を代表する城郭のひとつであり、特に主郭背後の櫓台を備えた土塁は、大規模な防衛施設として注目される。また、枡形虎口を備えた馬出曲輪の大手口は、戦国末期に改修されたと考えられ、県内における城郭の変遷を知るうえで貴重な遺構である。
平成14年に行われた発掘調査では、主郭から土師器・越前焼・中国製染付・茶臼などが出土している。、、、現地案内板より
場所は富山県氷見市飯久保
富山県氷見市立湖南小学校(富山県氷見市飯久保473番地)を起点に説明します。
小学校から、田んぼを横切る農道を通って集落の外れにある神社へ向かいます。
注意すべきは、この「八幡神社」が分かりにくい。村道からは社殿が見えないので通り過ぎてしまう。民家と民家の間にある鳥居が目印です。神社は突当りの階段を登ったところにあります。
結論から言いますと
初日3月24日は登城口を間違えて「虎口」や「見張り台」「堀切」を確認できませんでした。
どうしても腑に落ちなくて3月31日改めて登城、ようやく全体像がつかめました。
なので日にちは前後しますが、正規ルートで登った後半の方から報告します。
【3月31日 大手・枡形虎口、遊歩道編】
登城口の標柱が建っています。右手の階段を登ると「八幡神社」
しかしここは真っすぐ森の中に入ります。
振り返るとこんな感じ
すぐに左へ折れる階段が目に入ります。
地元の保存会でしょうか? 遊歩道が整備されています。
ここで「縄張り図」で行程説明、、、越中中世城郭図面集Ⅲ(赤文字加筆は私)
しばらく登ると削平地が広がります。ここは大手から虎口に至るやや広い曲輪の跡です。
その先に「虎口」の看板が見えてきました。
この虎口は手前に「Iの字」型土塁と、奥には「Lの字」型土塁を組み合わせて、進入路をクランクさせる防御機能が備わっています。
さらに突起した土塁を配することにより、もう一度クランクさせ枡形の空間を形作っています。
下草も刈られ、保存状態が良くて分かり易いです。
枡形虎口を進むと途中倒木があり、遊歩道を塞いでいましたが、なんとか下をくぐって前進。
今度は左右に「竪堀」が施され両側の斜面を敵が攻め上がる、横移動を抑制しています。
こちらはクマザサが茂り、分かりにくいですがしっかり残っています。
その先の斜面には「湧水地」の看板
山城には飲み水の確保が大切で、湧水があるという事は城主の居城だったんでしょうね。
ここは主郭を守る役割か、居住施設の廓だったかも知れません。
この先藪が広がり、湧水でぬかるんだ地面にはイノシシの足跡が、、、
いたるところに地面を掘り返した跡もあり、ちょっと荒れた感じがしてきました。
背後の小さな崖をよじ登る(階段が整備されています)と
「主郭」
階段状になった削平地で、上段の崖を背に、虎口に正対する配置。
主郭西側には上段に登る階段
最上段東端に設けられた「見張り台」
見張り台からの眺望
眼下には城下が広がり遠くには氷見港までの眺望。能登方向を監視していたことが伺えます。
南側尾根の「堀切」
藪に覆われていますが巨大な堀切です。
もともと尾根は分かれていたと思われ、その谷部分を更に深く掘り下げ更に横方向に延長したのではないかと思います。
向かい側の尾根から見た堀切への遊歩道(急な階段なのでロープが備えてあります)
落差がハンパなく、自然地形を活かした防御施設で、味方の移動も大変だったでしょうね。
ここから先は北東方向に伸びる尾根に遊歩道が設けられています。
尾根の先端は冒頭に紹介した湖南小学校の辺りで、そこからも遊歩道が整備されているようです。
この尾根伝いに高圧送電線の鉄塔まで歩いてみました。
途中、尾根は下ったり登ったりを繰り返し、天然の堀切のようでした。
さらに谷の部分で「堀切」のようなものや
「竪堀」のようなものまで見ることができましたが、
遊歩道として整備されながら立て看板が無いという事は、遊歩道整備の段階で造られた近年の土木工事の跡でしょうか?
縄張り図にも掲載されていないところをみると、ワタシの妄想だったのかも(笑)
この尾根筋の遊歩道からは「竹ドーム」に下りていく脇道が設けられています。
竹ドームとは
髙く伸びた竹が左右からしなって、お互いが先端で絡みつき、まるでドームの天井のような空間を造り出しています。
青い竹の隙間から日差しが差し込んだ自然の風景は幻想的で、毎年夏には「湖南小学校」の竹ドームコンサートが行われています。→こちら
さて、話をお城に戻しましょう。
遊歩道から大堀切を渡って主郭へ戻ってきました。
ここで、前回3月24日に訪れた際どうしても主郭部に進めなかった状況を検証。
尾根伝いに神社裏の谷を越えようとしましたが、やはり藪と倒木が酷くてとても前に進めません。
東からも西からも、僅か20mほどが越えられないモヤモヤ!
【3月24日、初回アタックで見た曲輪や土塁、堀切は幻だったのか?】
先ず初回3月24日の行程と再訪3月31日の行動を地図上に色分けして配置してみます。
3月31日に登城した青色のルートは「縄張り図」に沿ったものです。
しかし3月24日に登城した際の赤色ルートは縄張り図にありません。
勿論当日はそんなこととは夢にも思わず、持参した資料と整合性に疑念を感じながらも、必死で遺構を探していました。
そもそも登城口は神社裏ではなく、神社の鳥居を直進して遊歩道に入るのですから。
間違いに気付かず神社脇を抜け、広い作業道をどんどん進んでいきました。
15分ほど歩くと遂に行き止まりで道が無くなりました(ヤバい!)
ふと山の方向をみると、人が立ち入った痕跡(藪がなぎ倒されている)があるではありませんか♪
ようやく発見ヽ(^o^)丿 ワクワクしながら藪に分け入りましたが、遊歩道なんかあるわけありません。
藪の雑草やクマザサが倒れているだけで、それが人の痕跡かケダモノが歩いた跡なのかもわかりません(;^ω^)
30分近く彷徨ってようやく頂上の平坦面によじ登ることができました(^^)/
そこには藪もなく、落ち葉が積もるだけの管理された空間に感じました。
山を南北に貫く「能越自動車」のちょうど上あたり、
曲輪跡のような平坦面も確認できました。
その後も「堀切」や
「竪堀」
「空堀」を確認
最南端には「塁線土塁」や
尾根に彫り込まれた長さ数十メートルの堀が、両側を土塁のように見せている。
そこから東側へ戻り、
東端の廓の先には「大堀切」
まさに尾根を分断しています。
堀切の中に下りてみると深さは2m以上、切断面は両側の谷まで続いています。
しかしその先は酷い藪でそれ以上進むことはできませんでした。
この酷い藪は神社裏の谷の辺りで、3月31日登城で検証した藪の反対側にあたります。
◆この日みた遺構(らしきものだったのか???)は地元の保存会から標識も建ててもらえず、縄張り図にも掲載されていませんでした。
まさか新発見でもあるまいし(笑)
誰か教えて~と言いたいくらいです。
3月24日の行程は以上ですが、悲惨だったのはこの帰り道。
降り口が分からなくなってしまったのです(;^ω^)
よじ登った場所に目印をつけていなかったので、どこから上がったか分からず
谷筋を下ることにしましたが、途中立ち枯れた樹木の根の穴に転落するというアクシデントに見舞われました。
谷筋で湧水が流れ表面を覆っていた樹木が腐っていたのです。お腹の辺りまでハマったところで両手を広げて何かにつかまることができ、それ以上落下しませんでしたが、這い上がろうにも足が宙をかくばかりで足掛かりする突起がありません。つまり垂直の穴ではなく、壺のように膨らんだ穴だったのです。しかも足が付かない深さで恐怖が脳裏をよぎりました。
幸いにも両手の力で身体を持ち上げることに成功、なんとか脱出することができましたが、ドッキリの落とし穴とは訳が違って誰にも助けを求められない恐怖(;^ω^)
🐍や🐻以上にトラウマになりそうです💦
もうつの恐怖は密集した「クマザサ」と背の高い「メダケ」の藪。
笹はコシが強く、柔らかそうで手強い。密集しているとかき分けても・かき分けても、身体に絡みついて足が前に出せなくなる。しかも茎の表面が滑りやすく、坂道だと踏みつけると滑って転倒しそうになる。
見慣れた風景、低山だからと言ってナメテかかってはいけません。
事前の調査と準備が欠かせないという教訓を得ました。
脱出に成功、振り返った時に見た桜が忘れられません。
【飯久保城】
名称(別名);いいくぼじょう(南条城)
所在地;富山県氷見市飯久保
城地種類;山城
標高/比高;70m/60m
築城年代;16世紀
廃城年代;16世紀後半
築城者;狩野氏
主な改修者;
主な城主;狩野氏
文化財区分;
主な遺構;削平地・切岸・土塁・堀切・竪堀
近年の主な復元等;
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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