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若王子塚古墳、水橋金広・中馬場遺跡
この古墳は、白岩川中流右岸にある県内最大級の円墳(直径46m)です。墳裾から頂上までの高さは6mあります。古墳周溝から古墳時代前期の土師器が出土しました。
西方40mには宮塚古墳があります。白岩川流域には、竹内天神堂古墳(舟橋村)や清水堂古墳(富山市)、稚児塚古墳(立山町)などが築かれ、新川平野の耕作開発に貢献した有力者が古墳を築造したと考えられています。
古墳の南側には、鎌倉時代から江戸時代前期の大集落「水橋金広・中馬場遺跡」が広がっています。方形に区画した屋敷地内には、掘立柱建物や土坑、井戸を配し、陶磁器や漆器などの木製品が見つかりました。安土桃山時代の土坑からは、国内初の完全な厚板状双六盤が出土しました。
約200基も見つかった井戸のうち、江戸時代前期の井戸の水溜めには農具の木摺臼が転用されていました。臼の側面には漁具の「ヤス」などが刻線され、白岩川での豊漁を祈願したと考えられます。遺跡には中世には城舘、江戸時代前期には、川魚漁や新田開発によるコメ作りを行う集落へと変化したと考えられます。富山県教育委員会、、、(現地案内板より)
場所は富山市水橋中馬場
国道8号線(滑川富山バイパス)と県道15号線が交差する「北馬場」交差点を南に50mほと行くと「中馬場」交差点があり、そこを右折(富山市方向)すると「若王子塚古墳」と「宮塚古墳」が並んで見えてくる。
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両者の真ん中を北に向け県道が建設されることになり発掘調査の結果、8号線をアンダーパスする道路とその周辺が館跡であることがわかりました。
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国道8号線より両古墳と県道アンダーパス
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発掘調査風景
(富山市教育委員会、調査報告書より引用)
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安土桃山時代の土坑からは、国内初の完全な厚板状双六盤が出土しました。
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遺跡がある「中馬場」の地名の由来は細川會十郎(越中五大将の一人で室町幕府管領細川氏の一族、松倉城主椎名氏に属しており、舟橋村の仏生寺城主)が白岩川対岸のこの地に馬場をつくったことによるとされています。また、その家臣の金平氏が開墾を行ったことから「金平」の地名となったそうです。
この地は富山県の平野で唯一の古墳群が築かれ、奈良時代から室町時代にかけ荘園や将軍御料所が営まれ、白岩川の水運と領地管理の館が築かれていたそうです。
安土桃山時代の遺物の発見や、戦国期の織田・上杉両軍が激突する最前線の地であったことから、この遺跡から発掘された館の主が誰だったのか?今後の調査が待たれるところです。
※参考資料;とやまお城探検隊(北日本新聞)、富山県教育委員会発掘調査報告書
【水橋金広・中馬場遺跡】
目標物;若王子塚古墳
目標住所;〒939-0566 富山県富山市水橋中馬場115
地図;