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【木舟城】
高岡の守山城と共に通勤道路沿いにある城跡だが、一度も立ち寄ったことはない。
小矢部の「今石動城跡」を訪ねた際、城主の前田利継(利家の弟)親子との関わりが深い城と知り、ようやく訪ねることとなりました。
能越自動車道「福岡IC」からすぐ近くという事は知っていましたが実は勘違いで、いつも見ていた「木舟。。。。」という案内看板をてっきり「城跡」だと思い込んでいたのです。
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どう見ても民家の方向を指し示しているので、今迄訪ねなかったのでした。
今回意を決して車で侵入すると、民家とお寺の混在する境内に入り込み、そこにあったのは銀杏の大木でした。
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高岡市指定天然記念物【木舟 鐘泉寺の いちょう】
脇に建つ由来によると
樹齢は推定400年、なので木舟城に前田氏が入城したころには既にあったことになります。
前段省略
また昭和13年に境内から大量の人骨が発見され、木舟城に関係する戦い、あるいは天正大地震による被災者のものだとする話が伝承されています。現在出土地点には慰霊のための石碑が建てられています。
、、、高岡市教育委員会
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境内に建立されている慰霊碑
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木舟城主の前田利継夫妻はこの「天正大地震」により城の下敷きになって亡くなっていることを考えると、やはり木舟城との繋がりを感じないわけにはいきません。
【では、木舟城はどこに?】
鐘泉寺から福岡IC「連絡道」を超えた、すぐのところだったのです。
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【木舟城跡】
今日見られる木舟城跡は、「主郭」(本丸)の一部が地上に残ったもので、現在の史跡地の西の水田も含めて城主の住む主郭が存在したものと考えられます。
史跡地北側の市道には堀があり、その北にあった「北郭」とは「土橋」で繋がっていました。史跡地の南側の民家付近にも堀で隔てられた「南郭」が存在したと推定されます。
現在神社のある場所は、木舟城内に祀られた城の鎮守社であったと思われ、主郭との間は堀で隔てられ、神社の東側には木舟川(前川)と呼ばれた川が流れていました。
この様に木舟城は、東西を川に挟まれた大きな沼地に浮かぶ光景でしたが、軟弱な地形であったため、天正13年11月(1586)の天正大地震で城主前田利継夫妻が落命するなどの大きな危害を受けました。秀継の子、前田利秀は復興を試みたようですが、翌年「今石動城」に居城を移し、木舟城は廃城になりました。
、、、富山県教育委員会・高岡市教育委員会
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現在城跡は公園となっており、広い駐車場とトイレや案内板が整備されている。
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二か所の緑地、駐車場として現存しているのは主郭(本丸)の一部で、後は水田となっている(地震で埋没?)
櫓台と思しき土塁が見受けられるが、復元したものかは不明
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発掘調査による概要を地図に重ね合わせると
ベージュ色の部分が城郭
茶色の部分が現存している部分となります。
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神社から見た主郭
向かって右側が「北郭」
左側が「南郭」の方向となります。
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反対に主郭から見た「神社」
遺構調査(ベージュ部分)と現存部分(茶色)を地図上に置くと、もう一回り広かったようです。
水田に張った水が往時の堀に浮かぶ姿を彷彿とさせる。
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主郭と「南郭」の関係
現存する本丸に推定遺構を赤線で描いてみた。
右側の民家の辺りが当時の「南郭」にあたる。
水田に張られた水面に移る姿は、在りし日の木舟城を彷彿とさせる。
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主郭と「北郭」の関係
現存する本丸に推定遺構を赤線で描いてみた。
同じく左側の民家と道路との間の水田辺りが当時の「北郭」にあたる。
水田に張られた水面に移る姿は、在りし日の木舟城を彷彿とさせる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/5c/6082191d443c74dd0636097898c81ad5.jpg)
城郭と城下町の関係
地震により壊滅的被害を被ったのち、復興・再建を断念した利秀は「今石動城」に居を移し、城下町も移転させた。
これにより利家から拝領した木舟4万石の栄華は終焉した。
(皮肉なことにその利秀が若くして没すると、今石動の繁栄は前田利長が開帳した「高岡」に移転するのであった)
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◆前田利継夫妻の墓は小矢部市郊外宮島峡にほど近い「前田利継公記念公園」で祀られている。→こちら
◆今石動城の記事は→こちら
イメージしやすいようにしたイラスト(福岡中学校美術部制作)が敷地内に展示されている。
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【木舟城】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/73/543ff6e48904e07846bd70d8dd26840b.jpg)
名称(別名);きぶねじょう(木船城、貴船城)
所在地;富山県高岡市木舟141
城地種類;平城
築城年代;元暦元年
築城者;石黒光弘
主な城主;石黒氏、吉江宗信、佐々平左衛門、前田秀継、利秀
文化財区分;富山県指定史跡
近年の主な復元等;復元、遺構なし
天守の現状、形態;城跡、廃城、、、天正14年(1586)
地図;
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