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あみの3ブログ

00 大聖寺藩陣屋@石川県加賀市大聖寺 令和二年(2020)4月17日

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【大聖寺藩】

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江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡および能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第3代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。

【歴史】
江戸時代の当初は、加賀藩の城代が大聖寺城で江沼郡を支配したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、この役職は郡奉行に改められた。
寛永16年(1639年)、加賀藩の第2代藩主前田利常が隠居する際、次男の利次に富山10万石を、三男の利治に大聖寺7万石を割いて、富山藩と大聖寺藩が立藩された。大聖寺藩の版図は江沼郡の大半133村(6万5700石余り)と、越中国新川郡のうち9村(4300石余り)であったが、万治3年(1660年)に領地交換で江沼郡全域と能美郡6村となった。
3代藩主の利直は、弟の利昌に新田1万石を割いて大聖寺新田藩を立藩させたが、この藩は利昌が柳本藩主織田秀親を刺殺するという乱行に及んだために切腹を命じられ、宝永6年(1709年)に取り潰しとなり、領地は大聖寺藩に復した。
9代藩主の利之は、文政4年(1821年)に7万石から10万石への高直しを行った。差の3万石は新田開発が1万石、加賀藩からの支援が2万俵(加賀藩の1俵は5斗であり、2万俵は1万石に相当、1万石の米は領地20000石に相当)で捻出した。ここで300諸侯中最大の陣屋主となった。12代藩主の利義は安政2年(1855年)に没したが、その死の公表前に養子の利行も没したため、利行の死を秘匿し、利行の13代襲封のお墨付きは名代として、富山藩主前田利聲と七日市藩藩主前田利豁が受け、利行の隠居願いを加賀藩主前田斉泰が幕府に願い出て、14代を利鬯が継いだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


【歴代藩主と宗家、富山前田家との関係】
加賀藩藩祖前田利家とまつの間にできた直系の男子は初代となった利長と利政だが、利政は関ヶ原で徳川方に組したかどで改易となり、子が無かった利長は二代目を異母弟の利常に譲った。その利常の長男光高は加賀藩三代目となり、次男利次は富山十万石藩祖、三男利治は大聖寺七万石の藩祖としてそれぞれの地で歴史を築いていくこととなった。
彼ら兄弟の母は同じ徳川二代目将軍忠秀の娘珠姫。珠姫の母といえば(浅井三姉妹)の「江」である。
すなわち彼らは徳川家康・織田信長・浅井長政・前田利家という極めつけの武将の血を引いているといえる。

宗家二代目(初代加賀藩主)利常以来将軍家との結びつきを深め、三代光高以降は藩祖利家の「利」ではなく歴代将軍から一字を頂いた名前を名乗っていた。
それに対し大聖寺藩、富山藩ともに歴代藩主は「利」の一字を名前につけ14代350年いや、現在まで連綿と歴史を紡いでいる。





富山藩は富山城、初代加賀藩主利長は高岡に隠居城の「高岡城」、加賀藩二代目利常は小松に隠居城「小松城」をそれぞれ築城したが、大聖寺藩は城郭を持たなかった。
大聖寺藩は、利長によって落とされたのち廃城となっていた大聖寺城の麓に「大聖寺陣屋」を置き藩政を取り仕切った。

【大聖寺陣屋】
大聖寺城のある城山、別名「錦城山」の麓、


現在忠魂碑と運動広場がある辺り


大聖寺城馬出曲輪から見た麓に広がる城下
県立加賀聖城高等学校、私立錦城小学校、江沼神社にかけて、かつての陣屋から藩邸、藩主居館、庭園が広がっていた。



【藩主居館 長流亭、江沼神社】
◆「江沼神社」
大聖寺藩三代目藩主前田利直が邸内に藩祖前田利治と菅原道真を祭ったのが「江沼神社」始まり。


鳥居


神殿


灯篭


稲荷





境内には趣のある歴史的建造物が多数現存・保存されています。

「竹涇館」は大聖寺藩14代藩主前田利鬯の居宅として建てられたもので木造2階建、寄棟、桟瓦葺、建築面積158㎡、入母屋屋根式台付玄関や、上段の間(床の間、違い棚)、大広間など備える格式が高く意匠も優れた近代和風建築の遺構として貴重で「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成20年(2008)に国登録有形文化財に登録されています。

「梅花亭」は江戸時代に建てられ、外壁は大壁造り漆塗り、座敷には床の間や違棚、付書院、四季草花図が描かれた天井や、絵師吉田公均による「公均の間」など意匠に優れ国登録有形文化財に指定されています。

深田久弥「山の文化館」の建物は、明治43年に建てられた絹織物工場「山長」の事務所・石蔵・門を修築したもので、平成14年12月に国の登録文化財に登録されました。
事務所は木造2階で、外壁をイギリス下見板張とした洋風建築です。現在は、1階を事務所・図書室、2階を集会場として使用しています。
石蔵はかつて生糸の保管庫として使われていたもので、木骨石造の2階建てです。現在は、1階を深田久弥遺品を中心とした展示室、2階を資料の収蔵庫として使用しています。













江沼神社は「大聖寺川支流」とそこに注ぎ込む「熊坂川」が交差する辺りにあり、大聖寺八丁道という由緒ある地名と大鳥居が目を引く。
その大鳥居前を流れる「熊坂川」に架かる太鼓橋のような木製の構造物がフォトジェニックで何枚もシャッターを切りました。




◆「江沼神社庭園」
江沼神社境内は旧大聖寺藩の藩庁が置かれた陣屋の敷地内で現在残る庭園は宝永6年(1709)に隣接する長流邸(国指定重要文化財)とともに作庭したものです。金沢兼六園の影響を受けてた池泉廻遊式武家庭園でひさご池や中島にかかる八ッ橋、石組の間から湧水などの見所があります。
(加賀市指定名勝)




宗家兼六園を模したとも言われる


藩邸船着き場跡


現在は改修され川下りの船着き場として利用されている




◆「長流亭」
大聖寺藩3代藩主前田利直が、宝永6年(1709)に、藩邸の庭園の一隅に大聖寺川に臨んで建てた別邸で、当時は「川端御亭」と呼ばれていました。


大聖寺川支流の川面に映る青い石垣と黒い板塀が美しい




長流亭から大聖寺川支流と堰堤の桜


中庭からの屋敷


屋敷内の縁側


江沼神社境内にある家紋が入った倉庫
お宝が収めてあるんでしょうか?気になります




【歴代藩主墓所】
歴代大聖寺藩主の墓は、石川県加賀市大聖寺下屋敷29 の実性院 (じっしょういん)にあります。
万治三年(1660)初代藩主前田利治公が逝去された際、利治公の戒名の院号(実性院殿機雲宗用大居士)からその名がつけられた。
大聖寺藩前田家菩提寺・白萩の寺 曹洞宗金龍山 実性院
実性院の記事は→こちら


※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加

【大聖寺城】
《城跡に建てられた大聖寺陣屋の茶室「長流亭」は、小堀遠州の設計》





名称(別名);錦城
所在地;石川県加賀市大聖寺地方町
城地種類;連郭式平山城
築城年代;鎌倉時代
築城者;狩野氏
主な城主;狩野氏、一向一揆、朝倉氏、堀江景実、簗田氏(戸次氏)、佐久間盛政、藤丸氏(上杉氏)、拝郷家嘉、溝口秀勝、山口宗永、前田氏
文化財区分;加賀市史跡
近年の主な復元等;主な改修者柴田勝家
天守の現状、形態;元和元年(1615)廃城 城址
地図;



※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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