いしかわ城郭カード→こちら
ラーメン食べ歩きの腹ごなしにお城を巡るというお城ファンにとって不埒な行為ですが、訪ねるとそれなりに深く知りたくなり知ると楽しくなります。
知識が全く無いので先ずは訪ねた先の資料を集め、今後の活動に活かせればいいなと思い日記代わりに記録しました。
北陸・富山に住む者として一番身近なお城は「富山城」
一番身近な大名は高岡開町の祖「前田利長」
その本家本元がお隣の石川県金沢市。兼六園を庭園として有する加賀百万石の「金沢城」であり、「加賀藩主前田氏」です。
前田利家が最初に国持大名となった七尾。居城を山城の七尾城から平城の小丸山城に移し金沢へ本拠を移した後は、利家の二男利政が父より能登に所領を分与されて大名となった。
【前田利政】
天正6年(1578年)、織田氏の家臣・前田利家の次男として尾張国荒子城(愛知県名古屋市)にて生まれる。
父・利家が豊臣氏に従い加賀百万石の大名になると、利政もこれに伴い文禄2年(1593年)に能登国七尾城の城主となる。同年、豊臣姓を下賜された。
さらに、文禄4年(1595年)、羽柴氏を与えられた。慶長4年(1599年)に父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年に大坂城の詰番衆となる。
利家死後の慶長5年(1600年)、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる)。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった。その原因は妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(『象賢紀略』)、また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。見瀬和雄は利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開し、利長が出陣したために、病気と偽り出陣しなかったのではないかとし、石田方であったとする説を否定している。また、『天寛日記』の一節を引用して、利政が石田方についたと家康に訴え出たのは他ならぬ利長であったと指摘している。
関ヶ原の戦い後、西軍が敗れたために利政は能登の所領を没収され、その所領は兄に与えられた。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、西軍の誘いに乗らなかった利政の行動に家康は気に入り、利政を10万石の大名取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。ただし、利政の大名取り立てに実現しなかった背景には母の芳春院の働きかけにも関らず、家康が言を左右にしたという事情や関ヶ原の戦いの時の利政の行動を許せなかった兄・利長が拒否し続けた事情があったとする指摘もある。
寛永10年(1633年)、京都の町人・角倉与市邸(長女の婚家先)で死去。享年55。墓所は京都府京都市北区の大徳寺。
なお、利政の子・直之は叔父の加賀藩主・前田利常に仕え、前田土佐守家を立てた。
【概要】
前田利家が能登一国の国持大名として七尾入りしてから、加賀に領土を加増され金沢へ拠点を移すまでの間、前田領の政治経済の中心地であった。現在、城跡は公園として整備され、春にはソメイヨシノ、シダレザクラなどが見られる桜の名所となっている(小丸山城址)。
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【歴史】
織田信長の指示により越前国府中城10万石の領主から能登一国の国主となった利家は1581年(天正9年)、七尾城に入城した。
しかし七尾城は要害ではあったが中世の山城であったため、防御上は利点があったが港から離れていて治世・経済上の利便性に難があった。そこで利家は七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築くことを決定し七尾城から移り住んだ。1582年(天正10年)に築城。河川と海が堀の役割を果たす水城でもあった。城は能登水軍の本部の役割も成していた。利家は、さらに周囲に29の寺院(山の寺寺院群)を建立し、能登半島方面からの敵襲の守りを補った。
1583年(天正11年)、尾山城へ本拠を移した後、兄の前田安勝が七尾城代として居住した。1615年(元和元年)、一国一城令に従い廃城。
1920年(大正9年)、小丸山公園として整備される。
【形式と構造】
北側に七尾湾、東西を御祓川に囲まれた丘陵地帯に位置する平山城で、梯郭式の曲輪が配置されている。廃城に伴って建築物が撤去されており、僅かに残る石垣や、土塁に当時の面影が偲ばれる。
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【曲輪】
本丸
現在は第一公園として整備されている。当初は城址石碑のみ設置されていたが、
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NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の放映決定を受けて、2001年(平成13年)に利家と妻・芳春院(まつ)の銅像「前田利家松子之像」が設置された。櫓(巽櫓、坤櫓)跡には日像上人の銅像が設置されている。
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宮丸
愛宕山とも呼ばれ、愛宕神社が建立されていた。現在は七尾市愛宕山相撲場が整備されている。
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天性丸
第二公園として整備され、児童遊具が設置されている。
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また、本丸との間の堀上に橋が架けられている。北裾には前田家の菩提寺である宝円寺が建立されていたが失火で消失し移転・再建された。跡地には浄土宗の西光寺が建立された。
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大念寺山
御貸山とも呼ばれ、南方からの攻めに対する防御のため砦が設置されていた。現在は御祓川の拡幅や七尾線整備により掘削され、当時の面影は残っていない。
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丑寅櫓跡に建つ展望台より七尾湾、市内を望む
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乾の櫓跡に建つ展望台より寺院群と七尾湾を望む
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【公園碑文】
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この公園は、加賀藩祖前田利家が築城した小丸山城址です。利家は天正9年(1581)織田信長から能登国を与えられ、初めて国持大名となりました。一旦は能登畠山氏の居城であった七尾城に本拠を構えましたが、後に港に近い小丸山に城を築きました。築城前は円山といわれた地続きの丘陵を、小丸山・西光寺山・愛宕山・屋敷山の四山に切り割し築城しました。この四山は江戸時代の記録によれば、本丸・天性丸・宮丸・大念寺山とあり、宮丸にあった気多本宮を現在地に移転したとあります。利家は天正11年(1583)4月26日豊臣秀吉により石川・河北の2郡を加増され居城を金沢城とし、小丸山城在城は僅か2年余りでした。そこで城代として利家の兄、前田安勝・利好・知好親子が継ぎ、文禄2年(1593)能登侍従となった利家の二男利政は慶長2年(1597)から慶長5年(1600)まで城主となりました。元和元年(1615)の幕府の「一国一城令」により翌年廃城となり、後に群奉行所など行政機関が置かれました。明治4年(1871)11月20日に七尾県が置かれ、七尾県庁が設置されましたが翌年9月25日に七尾県は廃止され、石川県支庁となり、明治7年(1874)支庁制度が廃止され、民間人に払い下げられました。その後、明治20年(1887)七尾裁判所としての使用を経て、公園としての整備を行い、大正9年(1920)に一般に開放され現在に至っています。
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、、、公園入口に設置してある銘板より転載。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/f3/aa548a99537780189774961060dd39c0.jpg)
※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク追加
【小丸山城】
名称(別名);
所在地;七尾市馬出町子1-1
城地種類;平山城
築城年代;天正10年(1582年)
築城者;前田利家
主な城主;前田氏
文化財区分;未指定
近年の主な復元等;元和元年(1615年)廃城
天守の現状、形態;梯郭式廓・石垣・空堀
地図;
※出典、、、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』