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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
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2025-05-18 05:37:09 | 日記
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ブログタイトル;あみの3ブログ・夢のつづき
お城巡りの旅とラーメンなど、自由な写真日記


【吉田城】今川・徳川の争奪戦の城 江戸期は東海道吉田宿として城下は賑わった

2025-04-23 10:18:24 | 城歩き
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永正2年(1505)に今川氏親が牧野古白に命じて築いた今橋城が前身とされる。その後、周辺勢力による城の争奪戦が繰り返され、城主はしばしば入れ替わったが、氏親の子の義元の代には今川氏の城となり、吉田城と呼ばれた。
 義元の死後、今川氏が衰えると徳川家康が奪い、酒井忠次を城主に配した。徳川氏の関東移封後は、池田輝政が入城して改修が行われる。江戸時代には譜代小大名がめまぐるしく交代し、松平(大河内)氏のとき明治維新を迎えた。

豊川と朝倉川を北背後に、本丸を基点として南から西に二の丸、東・南・西に三の丸を配置した、いわゆる後堅固と呼ばれる梯郭式の縄張であった。本丸南側の石垣はほぼ池田輝政の改修時のものだが、その他の部分の石垣は名古屋城天下普請で余った石材を転用したとされ、石に刻印が確認できる。


場所は愛知県豊橋市今橋町
東名高速「豊川」IC下車、国道151号線を豊川市内へ。「宮下」交差点で1号線へ左折。豊川を渡り「西八町」交差点で左折、一つ目の交差点を左折して
豊川市役所東館駐車場に車を停めると、東館1F「情報館」で御城印を買うことができ、そのまま外へ出ると吉田城公園です。御城印を買った際、駐車券を出すと駐車料金が無料となります。(時間制限があったかもしれませんが)

豊橋市役所、城址公園


三の丸門、市役所東館地下駐車場入り口


東館地下駐車場


東館Fロビー


同、情報館




吉田城址平面図
※吉田城パンフレットより



三の丸門



水門
豊川から城内に物資を運び入れた船着き場。


排水溝


川手櫓跡と腰曲輪
豊川に面した部分の防御のために造られた曲輪。


北多門
本丸の豊川方面に築かれた門。内枡形虎口がよく残っています。
池田輝政が築いた、吉田城最古の石垣。


内堀




豊川越し 北多聞と腰曲輪


城址公園水路に架かる木橋(模擬)



三の丸土塁



金柑丸土塁と内堀


金柑丸石垣
馬出と呼ばれる、攻撃的な防御施設。



二の丸内・外堀石垣


二の丸内・外堀






二の丸土橋



「本丸」
四隅に櫓を配し、中央には宝永大地震で倒壊するまで、将軍上洛時の宿所にした御殿があった。
本丸裏御門枡形


本丸裏御門


本丸辰巳櫓跡


本丸入道櫓跡


北多門より鉄櫓


鉄櫓
天守として築かれ、城内最大規模の櫓。





北多門枡形
本丸の豊川方面に築かれた門。内枡形虎口がよく残っています。



千貫櫓跡



本丸南多門
本丸の正面入り口にあった門。多聞櫓と千貫櫓で守りを固めた。


南多門石垣と城址碑


南多門と内堀



本丸内堀 南東面



内堀 南西面



三の丸土塁



二の丸門跡


到着櫓跡
本丸入り口を監視し、城内に集まった兵を観察した。



【まとめ】
酒井忠次が城主となった時には土の城として改修したが、家康の関東移封に伴い、吉田城には池田輝政が入城しました。織豊系城郭を象徴する城に改修しましたが、輝政は家康の娘をめとり、関ヶ原合戦後姫路城主となりました。
現在見られる吉田城の姿はこの頃造られました。その後、譜代・親藩の大名がめまぐるしく入れ替わりましたが、東海道吉田宿として大いに賑わいを見せ、東海道五十三次の絵にも登場しています。
ヤマップ行動記録
活動時間:53分
移動距離;2100m


ヤマップ3D


【御城印】
豊橋市役所東館1F 情報広場




【吉田城】
《》
続日本100城
名称(別名);よしだじょう(今橋城、豊橋城)
所在地;〒440-0801 愛知県豊橋市今橋町3
城地種類;平城
標高/比高;
築城年代;永正2年(1505年)か?
廃城年代;明治4年(1871年)
築城者;牧野古白か?
主な改修者;池田輝政
主な城主;牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏、竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏、山形水野氏、小笠原氏、久世氏、牧野氏、大河内松平氏、本庄松平氏、大河内松平氏
文化財区分;
主な遺構;石垣、土塁、堀
近年の主な復元等;
地図;


【宇利城】南北朝期の山城 愛知県指定史跡の第1号城郭 2025年3月31日

2025-04-21 05:28:00 | 城歩き
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宇利城は連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~1487)に今川方の熊谷重実が築城し、松平清康の侵攻によって享禄2年(1529)に落城した。その後、天文14年(1545)に今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城した。永禄11年(1568)徳川家康側に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといい、その後の宇利城の状況は定かでない。
 家康期に城郭の改修があったと考えられるが詳細は不明であり、現在は山上に主郭(本丸)、姫御殿と呼ばれる二の丸などの曲輪、土塁、堀(横堀、堀切)などの遺構が残る。

場所は愛知県新城市中宇利
新東名「新城」IC下車。「新城インター」交差点を左折、国道151号線へ。6.5Km先「野田西」交差点を左折、県道392号線へ。豊川を渡り7.9Km先「一鍬田畠中」交差点を直進し、国道301号線へ。11.8Km先「富岡」交差点を左折し県道81号線へ。14.3Km先「中宇利」交差点角が宇利城専用駐車場です。


駐車場からは民家の横を北の方向に歩きます。宇利川を渡ってすぐに農道を左折。(案内標識あり)


山の際で三叉路となるので右折。


数10メートル先に道案内の標識があるので、舗装道路から田んぼのあぜ道へ右に曲がります。


大きな現地案内板があり、案内標識に従ってあぜ道を左折し山の中に入ります。



縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆



城域手前にある「松平親盛の墓」


曲輪Ⅳの下段にある井戸跡


城道の足下、谷側に積まれた石積み





南尾根城道石積み




主郭 曲輪Ⅰと姫御殿 曲輪Ⅱの間の堀切、堀底道



主郭 曲輪Ⅰ


虎口




城址碑


熊谷備中守重實 城主碑


櫓台跡


主郭からの眺望




姫御殿 曲輪Ⅱ


虎口石垣




主郭を隔てる堀切と堀底道






腰曲輪 曲輪Ⅳ
姫御殿に通じる通路の防衛



東段郭



南西の井戸


西尾根石垣
看板







西尾根段郭



主郭北切岸


北尾根堀切




納所平 曲輪Ⅲ
主郭北側の崖下に広がる作平地。


同堀切
北尾根を遮断する



御馬屋平分岐


御馬屋平 曲輪Ⅴ
東尾根上に築かれた曲輪



同 虎口 
虎口付近には土塁がある




御馬屋平 南端を取り巻くように築かれた横堀






【まとめ】
三方を山で囲まれた天然の要害。北側と東側の防備を意識した縄張。随所に見られる石積みも見所。

ヤマップ行動記録
活動時間:1時間38分
移動距離;2800m
高低差;162m


ヤマップ3D



【御城印】
設楽原歴史資料館にて



【宇利城】
《南北朝期の山城 愛知県指定史跡の第1号城郭》

名称(別名);うりじょう
所在地;〒441-1334 愛知県新城市中宇利仁田
城地種類;山城
標高/比高;165m/90m
築城年代;不明
廃城年代;不明
築城者;熊谷氏?
主な改修者;
主な城主;熊谷氏,菅沼氏,近藤氏
文化財区分;県指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;




【塞之神城】謎に満ちた城だが、山城の遺構はしっかり残っている 2025年3月30日

2025-04-20 09:21:00 | 城歩き
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塞之神城は、来歴の不明な城の一つである。伝説も含め、古くは元亀元年(1570~73)武田氏によって、奥平氏との和睦の際、合議により築かれたとも言われ、また、奥平氏が作手に来住する以前の米福長者(三河三代長者の一人で作手に在住)時代に存在したとの推定もされている。いずれにせよ二時期にわたる構築が指摘されており、主郭とその東西の虎口の部分、二の曲輪と堀切を含むその付属部分と普請の程度に明らかな差異が見られる。、、、新城市教育委員会(現地案内板より)

場所は場所は愛知県新城市作手本城
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。


道の駅から国道301号線を進み「作手総合支所東」交差点を左折。
「作手保健センター」の先に分岐があり、「文殊山城」の案内標識がありますので、左手の山に向かって林道を登ります。


周辺位置関係


文殊山城・塞之神城は尾根続きなので、頂上まで登ってから一括して走破しました。
しかし、振り返ってみると、林道の途中の水飲み場のような場所が、尾根の文殊山城・塞之神城分岐点でした。
僅かに駐車スペースもありますので、そこから登って「文殊山城」へ往復し、あるいは「塞之神城」へ往復すれば、頂上まで車で行く必要は無かったかもしれません。


水飲み場から尾根に登れば、文殊山城・塞之神城の分岐点です。



縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆



分岐から約6分
いよいよ城域です。
文殊山城側の尾根を分断する堀切


曲輪Ⅴより堀切俯瞰




曲輪Ⅴ


同土塁


土橋


堀切





曲輪Ⅳ


食い違い虎口



主郭土塁


主郭南虎口


主郭土塁上に散乱する石


主郭東虎口



主郭から尾根伝いにロープで移動


東尾根


東尾根堀切・土橋




曲輪Ⅱ



曲輪Ⅲ




【まとめ】
文殊山城に比べ遺構もたくさんって山城の醍醐味を感じるが、整備は文殊山城に比べて劣る感じは否めない。文殊山城側の大堀切から主郭までの遺構のうち、「食い違い虎口」が大きな見所となっています。

文殊山城・塞之神城一括
ヤマップ行動記録
活動時間:1時間40分
移動距離;3000m
高低差;164m


ヤマップ3D



【塞之神城】
《謎に満ちた城だが、山城の遺構はしっかり残っている》

名称(別名);さいのかみじょう(本城山砦)
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳上ノ山 クザ畑2
城地種類;山城
標高/比高;628m/80m
築城年代;永正2年(1505年)か?
廃城年代;
築城者;牧野古白?
主な改修者;池田輝政
主な城主;武田氏か?
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;





【文殊山城】奥平氏が築いた武田氏との和睦の証の一夜城 2025年3月30日

2025-04-19 07:42:00 | 城歩き
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文殊山城は、亀山城主の奥平氏の砦城で、元亀元年(1570~72)に武田氏との和睦の証として、塞之神城と共に築くはずであったが、延引したため武田氏により強談にあい奥平氏が一夜にしてこれを築いたので一夜城とも言われる。
 中央にある文殊菩薩は、江戸時代に地元有志により奉納された石像で、台石には「西須山村東市場村」と刻まれており当時村界であったことがわかる。また、宝篋印塔左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり、この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。後略、、、新城市教育委員会(現地案内板より)

場所は場所は愛知県新城市作手清岳杉本
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。


道の駅から国道301号線を進み「作手総合支所東」交差点を左折。
「作手保健センター」の先に分岐があり、「文殊山城」の案内標識がありますので、左手の山に向かって林道を登ります。


周辺位置関係



この林道の終点、頂上が文殊山城で、わずかですが駐車スペースもあります。





縄張図
※「愛知の山城ベスト50をあるく」より、加筆




駐車場より模擬櫓


主郭虎口(駐車場より階段にて)


虎口(主郭より)


主郭内部



東虎口


二の曲輪


南帯曲輪


北横堀


堀切
塞之神城に向かう尾根に築かれた堀切と土橋


堀切を過ぎ、尾根を進むと塞之神城に至ります。


【まとめ】
文殊山城・塞之神城は尾根続きなので、頂上まで登ってから一括して走破しました。
しかし、振り返ってみると、林道の途中の水飲み場のような場所が、尾根の文殊山城・塞之神城分岐点でした。
僅かに駐車スペースもありますので、そこから登って「文殊山城」へ往復し、あるいは「塞之神城」へ往復すれば、頂上まで車で行く必要は無かったかもしれません。


林道の頂上付近では倒木もあり、細い道なので多少の危険はあると思います。


ヤマップ行動記録
活動時間:1時間40分
移動距離;3000m
高低差;164m



【文殊山城】
《奥平氏が築いた武田氏との和睦の証の一夜城》

名称(別名);もんじゅやまじょう(一夜城)
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳杉本
城地種類;山城
標高/比高;661m/160m
築城年代;元亀年間(1570年?1572年)ころ?
廃城年代;
築城者;奥平氏?
主な改修者;
主な城主;奥平氏
文化財区分;なし
主な遺構;土塁,郭,堀
近年の主な復元等;物見櫓
地図;





【古宮城】武田信玄が三河進出の拠点として馬場美濃守に築城させた城 2025年3月30日

2025-04-18 08:10:00 | 城歩き
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場所は 愛知県新城市作手清岳宮山
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。


「道の駅つくで」(亀山城址)から国道301号線を北に1km程行くと県道436号線の交差点があります。この交差点の角にある丘陵が城址一帯となります。


白鳥神社から10m程先に専用の駐車場があります。


住宅と水田に囲まれた平地に、ぽつんとできた丘。 正面には白鳥神社があり、本殿の裏山一帯に遺構が現存しています。
※パンフレットより



白鳥神社


本殿右手より裏山に登ります。



縄張図
※「作手村史」より、加筆



登るとすぐに空堀が見えてきます
南横堀


横堀南東側


横堀南西側




堀から右上に登ると虎口が待ち構えています。
両袖枡形虎口




虎口土塁状のご神木


虎口の先は主郭
仕切り土塁で区画された東二の丸



東二の丸虎口


仕切り土塁



東本丸と櫓台


大堀切



北側横堀


大堀切のぼり土塁



水堀跡 北側


大堀切


北西側曲輪群


北西側土塁


水堀跡 北西側


水堀跡 西側


横堀 西側



西側段郭横堀


同、切岸と土塁


南側の大手道?



西区域
土塁・大堀切
この大堀切は北側と南側に築かれ、丘陵の東と西を分断している。標高の高い東側が主郭と考えられるが、一城別郭で西区域には別の役割があり、そこには西本丸があったとする見方もある。


西大手枡形虎口


土橋・大堀切


西丸馬出


枡形虎口


土塁に囲まれた西二の丸


仕切り土塁で西本丸と西二の丸に区画されている




虎口土塁


西側段郭の横堀を俯瞰



西三の丸枡形虎口




北側大堀切の尾根(縦土塁?)を分断する堀切



横堀 北東側



東側段郭群




牢屋曲輪なんてのもありました


東側斜面の竪堀



横堀 南東側



【まとめ】
外周には水堀その内側に空堀を巡らし二重の堀としています。丘の中心で東西を二分する巨大な堀切を設け、土橋で東西の連絡通路としています。西区域には丸馬出、斜面には横堀と土塁を幾重にも巡らし、厳重な防御としています。一方、東区域は大きな竪堀で分割しているものの、段郭群が築かれ居住空間のようです。それらの遺構がほぼ完全な状態で残されていることに感動します。亀山城ほど手入れ(人の手)が入っていないことも幸いしているのかもしれません。
千田先生は国の史跡に指定申請すべきだと仰っていましたが、全く同感です。一日も早く指定されるよう期待しています。

ヤマップ行動記録
活動時間:1時間
移動距離;1600m


ヤマップ3D


【御城印】
作手歴史民俗資料館にて




【古宮城】
《武田信玄が三河進出の拠点として馬場美濃守に築城させた城》

名称(別名);ふるみやじょう
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳宮山31
城地種類;平山城
標高/比高;560m/45m
築城年代;元亀2年(1571年)?
廃城年代;天正3年(1575年)ころ?
築城者;武田信玄?
主な改修者;不明
主な城主;不明
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁・曲輪・横堀・竪堀等
近年の主な復元等;
地図;





【作手 亀山城】山家三方衆から家康の信頼を得て異例の出世を果たした奥平氏の居城 2025年3月30日

2025-04-17 08:02:00 | 城歩き
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天授年間(1375~1381)、現在の群馬県から新城市作手地区に移住した奥平貞俊は、応永31年(1424)川尻城を築き、その後亀山城を築城して居城したとされている。
 初代・貞俊から貞能までの五代166年間この地に住み、天正元年(1573)8月、貞能・信昌父子は古宮城に本拠をもつ武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂などに転戦してこれを敗走させた。天正3年(1575)この戦功により、徳川家康から長篠城の城主を命ぜられた。同年5月、長篠・設楽原の戦いが勃発。長篠城は武田勢15000の猛攻を受けたが、籠城していた奥平軍はよく耐え、織田・徳川連合軍の援軍を受け大勝した。信昌はこの戦いの戦功で新城城主となり家康の長女亀姫を妻に迎えたが、家康に従い関東転封となる。
 慶長7年(1602)信昌の四男・松平忠明が、父祖の旧領である亀山城へ作手藩17000石の藩主として入城し、8年間居城としたが、慶長15年(1610)伊勢亀山藩50000石の藩主に転じた。
その後は、元和5年(1619)頃の数年間、三河代官として小川又左右衛門氏綱が入り、それ以降は廃城となり現在に至っている。

遺構は本丸、二の丸、各曲輪、土塁、空堀などが現存している。登城道への防備性の高い構造となっており、地形に即した土木工事が行われた縄張であったことが考えられる。また、本丸での発掘調査の結果から、この城は奥平氏の居館ではなく軍事的拠点であった可能性が高いと考えられている。、、、作手村史及び新城市教育委員会(現地案内板より)

場所は愛知県新城市作手清岳大
新東名「新城」IC下車、国道151号線へ左折。5.5Km先「杉山北」交差点で右折。国道301号線を山越えします。新東名のガードをくぐりるとヘアーピンカーブが連続する山岳道路となります。途中には「本宮山スカイライン」の分岐もありますが、そのまま国道301号線を進みます。約20Km先で作手町に入ると、右手に「道の駅つくで手作り村」があります。



①道の駅に車を停めて登城することもできますが、
②奥の「第2駐車場」、「五平餅」の方向に行くと「亀山城専用駐車場」があります。最近出来たとみえ、大きな案内看板が設置され、真新しい区画線によって整備されていました。





③また、道の駅から国道301号線を北に少し行くと一つ目の信号で右折。案内看板に従い小水力発電の方向に進むと、田んぼの中に駐車場があります。目の前の山に大きな城址看板が立っていますのでわかります。




④他に県道437号線から入る東駐車場もありますが、位置関係は以下のようになります。





自分は田んぼの中の駐車場に停めたので
そこから徒歩で左の方に歩くと登城口があります。



藪の中へ入っていく感じです。


すると遊歩道があります。


二の丸東側登り口遊歩道



いよいよ城域です。
縄張図
※「愛知の山城ベスト50を歩く」に加筆


二の丸東段郭


二の丸東虎口




二の丸


本丸東虎口



二の丸、中央奥は南西虎口


本丸、奥は西虎口



本丸東方向


本丸西虎口



本丸西土塁上から


本丸北面切岸



西曲輪


西壕


西竪堀


西曲輪下、小土塁を伴う平坦地
空堀か?



南空堀




南空堀に接続する虎口



東曲輪



北面腰曲輪


同、西の丸側虎口



西竪堀ののぼり土塁?


同、土塁を挟んで両側に掘



【まとめ】
今回のお城巡り、長篠・設楽原からは少し離れていますが、まさに今回の主役のお城です。奥三河では山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と言って、作手城 の 奥平氏 、 長篠城 の 菅沼氏 、 田峰城 の菅沼氏が支配しており、戦国時代今川・武田・徳川・織田のいずれに帰属するかで生き残りをかけた選択と戦いが繰り広げられました。その中でも奥平氏の出世には目を見張るものがあります。ここ亀山城は奥平氏の原点でもあります。

ヤマップ行動記録
活動時間;1時間
移動距離;1700m


ヤマップ3D



【御城印】
作手歴史民俗資料館にて販売



【作手 亀山城】
《山家三方衆から家康の信頼を得て異例の出世を果たした奥平氏の居城》

名称(別名);かめやまじょう
所在地;〒441-1414 愛知県新城市作手清岳大バロ
城地種類;平山城
標高/比高;540m/20m
築城年代;1378年(永和)
廃城年代;慶長15年(1610年)
築城者;奥平貞俊
主な改修者;
主な城主;奥平貞俊,奥平貞久,奥平貞昌,奥平貞勝,奥平貞能,松平忠明
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀
近年の主な復元等;
地図;


長篠・設楽原合戦場散策 2025年3月29日、30日

2025-04-16 07:54:12 | 城歩き
今川、徳川、武田の帰属に揺れる奥三河の豪族・山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)
三方原の戦いでは武田方として参戦した山家三方衆だが、作手城の奥平氏にたいし、織田信長の策で徳川家康の長女・亀姫との婚儀などを経て、奥平氏は徳川氏の家臣となった。武田氏に備え長篠城を築城するが、離反を知った武田勝頼は15000の大軍を率い長篠城を囲んだ。これが設楽長篠の戦いの始まりです。

僅か500の兵で籠城する奥平氏は、援軍要請の使者として鳥居強右衛門も岡崎城の家康の元に送る。

長篠城の援軍に駆けつけた織田・徳川連合軍でしたが、その4Km手前で進軍を止めました。
 織田信長は火縄銃を効率的かつ効果的に使用するために、設楽原の地に陣地と馬防柵を築き、戦国最強と謳われた武田の騎馬隊の機動力を封じ込めようと考えました。さらに、武田軍を自軍にとって好都合な立地である設楽原へとおびき寄せるため、5月20日の深夜、鳶ヶ巣山砦(ほか五砦)の奇襲攻撃を決行しました。



5月21日の早朝、徳川家康の家臣、酒井忠次が率いる攻撃隊は鳶ヶ山砦への奇襲作戦を成功させました。これにより後方を襲われた武田軍は退路を断たれる形成となり、武田勝頼は設楽原への進軍を余儀なくされました。
 信長が想定したような有利な形で戦いの主導権を握った連合軍は、大量の火縄銃と2Kmにわたる長大な馬防柵を巧みに使って、わずか8時間ほどで武田軍を退ける大勝利に導きました。
さらに断上山台地の西方から突如現れた連合軍の主力部隊の追撃戦で、退却する武田軍は多くの有能な武将を失いました。



◆織田信長 茶臼山観戦地
極楽寺に置いた本陣から茶臼山(標高約150m)に移り、戦況を観戦した。ここから決戦場の最前線は望めないが、家康本陣がある断上山台地(標高約100m)と勝頼が観戦した信玄台地(標高約100m)を見通すことができる。膝元の茶臼山山麓で断上山台地西側の平坦地に主力部隊を置き、全体の戦況把握に努めたものと考えられます。







◆徳川家康本陣
決戦場の中央に本陣を構えた。北方を連吾川や大宮川で「堀」、断上山台地を「大土塁」に見立てた『野戦築城』の戦術で防備し、南方に既存の城群群を取り込んだ堅固な防衛ラインを築き上げた。さらに馬防柵と共に「火縄銃」を駆使しながら、武田軍と前線で対峙した。



◆岡崎信康陣 
(徳川家康の嫡男・信康は岡崎城在城のため岡崎信康と呼ばれていた。)
17歳初陣の信康は、父・家康本陣から一歩下がって松尾神社に陣を構えた。その後方天神山には、信長の嫡男信忠の陣がある。



◆馬防柵
信長が連吾川のすぐ手前に馬防柵を築いたことは、設楽原に一つの巨大な城を築いたと同じ意味がありました。連合軍はその城を守るために、城に攻めてくる武田の騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのです。
 連合軍が築いた馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。戦国時代の設楽原一帯には今のように大きな木は少なかったそうです。







◆信玄塚
織田・徳川連合軍、武田軍の戦死者を祀った墓地。
この地で武田軍の脅威が失墜した意味合いと、秘匿された信玄の死を世に知らしめる意図を持って、信長が命名したとも伝わる。


大塚(伝承)
武田軍の戦死者を弔った


小塚(伝承)
織田・徳川連合軍の戦死者を弔った


また、この後に起こった蜂の発生という出来事があったことから、戦死者の祟りを恐れた村人達によって《火おんどり・県指定無形民俗文化財》が毎年8月15日のお盆に慰霊として行われています。



【御城印的なもの】
古戦場印もしくは設楽原歴史資料館来館記念印
このほかに「宇利城」、「野田城」、「新庄城址」御城印も取り扱っています。



【設楽原歴史資料館】
《火縄銃の展示を中心に、長篠設楽原の戦い前後の出来事を解説》


住所;〒441-1305 愛知県新城市竹広 字信玄原552
地図;

【長篠城】武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城 2025年3月29日

2025-04-15 07:48:56 | 城歩き
お城検索は→こちら

長篠城は、永正5年(1508)に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城した。ここは二つの川が堀となり、断崖が城壁となる天然の要害の地となっている。菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、のちに徳川家康が城を奪い大改築した。天正3年(1575)、家康の家臣奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼軍が城を包囲し落城寸前まで攻めたが、織田・徳川連合軍がかけつけて城を死守した。現在城地の中心を鉄道が通ってしまっているが、断崖の北側にも堀・土塁が多重に残っている。、、、日本100名城公式ガイドブックより

場所は愛知県新城市長篠市場
新東名「長篠」IC下車。「新城インター」交差点で国道151号線へ右折。新東名のガードをくぐり、豊川に架かる「長篠大橋」を渡り、「長篠広面」交差点を過ぎると、右手に案内看板があります。そこを右折すると「長篠城址史跡保存館」と駐車場があります。

※発掘調査の結果、同館の地下には『三日月堀』の存在が確認されました。そのことから主郭虎口には『丸馬出」が設けられていたと考えられています。





平面図
※長篠城パンフレットより



本丸空堀


空堀と土橋


帯曲輪跡(現在の駐車場)


本丸





城址碑





宇連川に面した東側は、JR飯田線によって城址が分断されている。
飯田線と堀跡


分断された土塁


厩跡


野牛曲輪跡


本丸土塁




「後堅固な城郭」
二つの川は天然の堀となり、急峻な崖地傾斜(中央構造線の岩盤)は天然の石垣



本丸と弾正曲輪を挟む寒狭川「不忍の滝」


弾正曲輪


現在は民家が建っていますので立ち入りは自粛


土塁



《周辺散策》
弾正曲輪の向かいにある「家老屋敷跡」
こちらも現在は民家です。


馬場美濃守墓


「フォッサマグナ露頭地」から豊川に架かる国道151号線「長篠大橋」



どうしても見たいものがあって、この橋を渡り、豊川と新東名の間の田んぼを探し回りました。


ようやく見えてきました。


鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
武田の大軍に包囲されるなか、籠城の窮地を報告、援軍を要請するため城を抜け出し、岡崎の家康の元に走ったが、帰路武田方に捕縛された。『援軍は来ないと言えば助けてやる』と言われたが、大声で『援軍は来る!』と城内に向かって叫んだため磔にされた。籠城の将兵は大いに鼓舞され、徳川・織田連合軍の到着まで耐え抜いた。この死をもって鼓舞したことが忠義の証として後の世まで語り継がれることとなりました。  まるで戦国版走れメロス→こちら



磔死跡石碑



豊川を挟んだ向かい側には長篠城本丸が見える。



長篠城から見た鳥居強右衛門磔死の跡



【まとめ】
ヤマップ行動記録
活動時間:1時間51分
移動距離;4100m


ヤマップ3D



【御城印】


長篠城址史跡保存館にて販売
内部展示
子孫や地元に伝わる本物の資料がたくさん展示されています。





【長篠城】
《武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城》

名称(別名);ながしのじょう(末広城,扇城)
所在地;〒441-1634 愛知県新城市長篠市場22ー1
城地種類;平山城
標高/比高;60m/30m
築城年代;永正5年(1508年)
廃城年代;天正4年(1576年)
築城者;菅沼元成
主な改修者;奥平信昌、徳川家康
主な城主;長篠菅沼氏,奥平信昌
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;


【田峯城】模擬御殿がそびえる田峯城争乱の城 2025年3月29日

2025-04-14 08:02:00 | 城歩き
お城検索は→こちら

田峯城は県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流を遙かに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。
本丸より北西に道寿曲輪、畷曲輪、蔵屋敷、井戸曲輪が、最下段には表曲輪、裏曲輪、大手門跡が、東南方に離れ仕置き場と「厩」があったといわれています。
 本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並みがまさに大蛇のようであることから、田峯城は蛇頭城(じゃずがじょう)とも呼ばれていました。

奥三河で力を持っていた三氏族「山家三方衆」、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏により文明2年(1470)に田峯城は築かれた。
その後、5代目城主菅沼定忠が、天正3年(1575)武田氏に従って長篠合戦に出陣し敗退、武田氏と共に逃れた定忠は、飯田において天正10年(1582)徳川方に捕らえられ、田峯城は従兄弟(菅沼定直の子)定利が徳川の命により城主となった。天正11年(1583)定利が飯田郡代となり移住後、田峯城は廃城となった。(定忠は命を助けられ、徳川に属したと言われる)、、、田峯城パンフレットより

田峯城争乱
設楽原の合戦を前に場内は徳川か武田かの帰属を巡り意見が対立。城主定忠と家老城所道寿は、叔父定直と家老道善を城に残し、武田方として参戦。
武田勝頼軍大敗。菅沼定忠、敗将勝頼を案内し帰城するも、敗戦を知る留守居派に入城を拒まれる。
勝頼、迎えの将に守られ甲州へ帰還。
翌年、菅沼定忠、明け方の田峯城を急襲。老若男女96人を惨殺し首を晒す。


場所は愛知県北設楽郡設楽町田峯城
新東名「新城」IC下車(道の駅もっくる新城)国道151号線へ右折。「有明」交差点で左折し国道257号線へ。7.5Km先「長楽」交差点で右折し県道436号線へ。鳳来の町へ入ると県道32号線/389号線と合流。15Km先県道32号線分岐を直進。県道389号線を豊川沿いに走ります。17.7Km先「田峯」交差点を直進し国道257号線へ。19.4Km先「田峯十一面観音の入り口看板」の交差点で左折し、すぐにもう一度大きく左折して山道を進みます。「田峯小学校」で側道を左に入り、JAのお茶工場を過ぎたら側道を右に入ると田峯城駐車場となります。



駐車場から先、赤い橋を渡るとすぐ城址です。
駐車場からの城址全景


山頂から南斜面に広がる城址を俯瞰したイラスト
※田峯城パンフレットより


大手門跡
空堀に懸かる木橋と柵列で囲まれた辺りが大手門跡


名無曲輪(帯曲輪)


表曲輪
入り口近くにある曲輪


井戸曲輪
掘り抜きの井戸ではなく雨水を溜める施設があったと考えられています。


畷曲輪(あぜくるわ)
「なわてくるわ」のことを「あぜくるわ」と呼んでいる。



大手門付近俯瞰


裏曲輪


道寿曲輪
現在は墓となっていますが
五代目城主菅沼定忠とともに長篠合戦に出陣した、家老・城所道寿の屋敷跡と考えられています。



模擬御殿を見上げる


御殿の下の段にある小さい曲輪が「御台様屋敷」
城主の奥方の屋敷があった場所。


本丸に建設された模擬御殿等の施設
御殿以外は自由に見学できます。


御殿の内部は有料で見学することができます。(9時から16時まで、大人220円・中学生以下110円)
受付にて御城印を購入することができます。


御殿




物見台


搦手門と厩(実際にあった場所とは別の所に復元展示されています)


大手門(実際にあった場所とは別の所に復元展示されています)





ここまでが整備された。一般の観光客向けのルートですね

田峯城は実際に使われた山城です。
なので遺構もたくさん残っています。
本丸の裏手、東側の未整備の山中に曲輪や堀などの遺構を見ることができます。



搦手門跡


堀切


左側馬場方向、右側仕置曲輪方向


仕置場


畦曲輪


堀切俯瞰
奥は馬屋


南斜面に刻まれた竪堀


北西側搦手道


搦手道と枡形(模擬か?)



【まとめ】
ヤマップ行動記録
活動時間:51分
移動距離;1100m


ヤマップ3D



【御城印】
御殿入場受付にて




【田峯城】
《》

名称(別名);だみねじょう(蛇頭城)じゃずがじょう
所在地;〒441-2221 愛知県北設楽郡設楽町田峯城9
城地種類;山城
標高/比高;500m/50m
築城年代;文明2年(1470年)
廃城年代;天正10年(1582年)
築城者;菅沼定信
主な改修者;
主な城主;菅沼定信、菅沼定忠
文化財区分;町指定史跡
主な遺構;曲輪、堀
近年の主な復元等;御殿(入場料必要)、大手門、搦手門、物見台
御殿のみ入場料必要(9:00~16:00)
地図;