あみの3 写真日記

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳。
更新は不定期です。

丸岡藩砲台跡@福井県坂井市三国町 令和二年(2020) 11月22日

2020-11-28 10:35:39 | 旅行・城歩き
国指定史跡 丸岡藩砲台跡




砲台は、丸岡藩が沿岸警備のために坂井市三国町梶の東方に突出した海岸部に建設したものである。外面は土砂で築き、内面と側面は石を積み上げて作られている。銘文によると嘉永5年(1852)2月、高島秋帆の門人と伝えられる栗原源左衛門の設計で築造されている。現存する遺構は、北面して弓形を呈し5つの砲眼を開く東西33m、高さ1.8mの胸墻(きょうしょう:敵の射撃をよけ、味方の射撃の便のために土を胸の高さほどに積み上げたもの)を主体としている。
、、、福井の文化財HPより転載



場所は福井の東尋坊の近く。「越前松前水族館」の辺り。ラヲタならこの写真で思い出すかも(笑)



三国東尋坊粟原線を走ると「丸岡藩砲台跡」の看板が見えてきます。駐車場やトイレも整備されています。



リアス式の海岸に出ると松林の中に「土塁」らしき土の盛り上がりを発見し気分が高揚しますヽ(^o^)丿



そこから海岸に下りていくと弓状に配置された、石垣と土塁で作った遺構が見えてきました。



日本海に向け土と石で積み上げた胸墻(きょうしょう)が並ぶ



高さは1.8mだそうで、たまたま見学に来ていた人と比較



5つの砲眼を開く
石垣の開口部に「大砲」を据え、照準は黒船に合わせていたが、果たして射程距離はどうだったんでしょうか?



崖下の釣り人と荒波



東尋坊方向を見る



日本海に突き出した小高い崖のギリギリの場所に設置されているのがわかります。



日本海沿岸を航行する黒船を迎え撃つ備えだったのでしょうね。




【丸岡藩砲台跡】
住所;福井県坂井市三国町梶
駐車場;あり
地図
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036 丸岡城@福井県坂井市丸岡町霧町 令和二年(2020)11月22日

2020-11-28 09:16:48 | 旅行・城歩き
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SNSのお城めぐりと石垣のグループに参加し、凄く啓発され生きがいを感じ始めています。(大袈裟w)
西日本の投稿が多く、行ったことのない地方の事を知ることは凄く刺激的です。

今回は2014年以来となる地元北陸の旧国宝にして現存12天守、重要文化財【丸岡城】を訪れました。




丸岡城縄張り古図



現在の丸岡城周辺航空写真



古図の青く塗った内堀が埋め立てられ、現在でもその形状通りに道路となっています。
明治維新で廃城令が施行され、多くの城が破却された中「丸岡城」も競売にかけられたそうです。城の隅にあった櫓や門は当時20~40両で落札され、個人や寺に移築されましたが天守はたったの5両だったそうです。
その天守が破却から免れたのは当時北陸巡幸の途中であった、明治天皇が発した「残しておくよう」との一言だったそうです。


昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年の福井大震災で倒壊。
昭和25年には重要文化財に指定されましたが、地元の国宝昇格の夢は高まるばかり。多くのファンも同じ気持ちだと思います。



では改めて天守内をご案内しますw
本丸から天守台のある城内へは急な石段がありますが



一直線に延びストレートに入り口に達するため守りには弱かったかも(;^ω^)



二重三階建ての天守内
一階は2間×3間が2室と、2間×2間が2室の都合4室に分かれています。(1間は約1.8m)


二階は引き戸で仕切られた「出部屋」が設けられています。


二階から三階への階段は日本一急で傾斜角度が67度もあるそうです。


三階から見た階段
階段と言うより梯子ですよね。ロープにしがみついて昇降しましたが足を滑らせ落ちそうになりました(;^ω^)



太い梁
昭和23年の福井大地震で倒壊しましたが、使える材料はそのまま使って復旧したそうです。
旧国宝時代に解体修理を実施していたので、詳細な図面が残っていたため作業が容易だったそうです。



3階天守閣
急な階段を登ると四方に開口部を持つ望楼に出ます。


廻り縁には柵も無く開放的。
欄干が付いていますが危険なため、一般客は立ち入り禁止です。



福井特産の笏谷石(しゃくだにいし)製の屋根瓦は全国でもここだけ。
2階「出部屋」の跳ね上げ式の窓(突上戸)から見下ろしたところです。



「水切り屋根」
外壁から伝わった雨を土台に侵入させない工夫。
石製瓦もそうですが、北陸の厳しい雪に対する備えです。



格子出窓と狭間
下からの侵入者に対する鉄砲や弓、石などでの攻撃が可能



南面の天守台と大手道の石垣。天守台に比べ天守が一回り小さいので設計ミスではないかと言う説もあるとか(;^ω^)



東面の天守台下の石垣は色合いも土色で優しく見える。右の井戸は、大蛇が現れ霞をかけるという「霞城」のいわれとなったもの。



西側大手道の石垣



本丸下にある「国宝霞ケ城」の石碑
昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年の福井大震災で倒壊。昭和25年に重要文化財に指定される。



北側にある「二の丸」は城主居館の御殿が建っていたそうです。
現在は平「章小学校」となっており、城壁のデザインで町並みに調和していますね。




丸岡城は越前を平定した織田信長により柴田勝家が支配し、本拠地である北ノ庄の支城として一向一揆と対峙していました。時代は豊臣から徳川に移り、城主も徳川譜代の大名が務めました。
初代城主重成の父重次が長篠の戦の陣中から妻に送った手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔で家族への愛情に満ちていることから「日本で一番短い手紙」として「一筆啓上賞」が設けられ町興しに一役買っている。
現在は「一筆啓上 日本一短い手紙の館」が開館し禍根作品も鑑賞できます。



ご当地マンホールというものがありますが、こちらでは一筆啓上溝蓋があります。



お城の入場券販売所に併設されている「ボランティアガイド案内所」では地元中学の生徒さんが製作した案内ビデオも上映され、予習には最適です。
また「御城印」は入場券売り場で買い求めできます。




【丸岡城】
《古式ゆかしい木造天守が現存する天守》


名称(別名);霞城(かすみじょう)
所在地;福井県坂井市丸岡町霞1-59
城地種類;平山城
築城年代;天正4年(1576)
築城者;柴田勝豊
主な城主;柴田氏、安井氏、青山氏、今村氏、本多氏、有馬氏
文化財区分;重要文化財
近年の主な復元等;平成14~15年店主の屋根を修理
天守の現状、形態;望楼型 二重三階 木造U(現存)
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

地図;





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033 高岡城@富山県高岡市 令和二年(2020)11月18日 高岡古城公園紅葉編

2020-11-25 05:29:23 | 旅行・城歩き
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2020年の紅葉は安近短
と言う訳で近場の名所をささっと短時間で(笑)

見ごろは意外と短くて、タイミングを逃すとイメージと全く違う姿に愕然とする。
毎日通って初めて新鮮な表情が捉えられる。

高山右近の縄張りとするが近年では異説もある。
しかし銅像まで建てれば既得権が発生する(笑)
大手口にて



高岡城は公園として整備再編されたので城郭は無いが春には桜、秋には紅葉が楽しめる。

大手門から登城し「鍛冶丸」現博物館から「三の丸」方向を見た「西内堀」と紅葉
順光なので水面に映る紅葉が本命か



ここから目を西側に転じると本丸に至る唯一の「土橋」の東面が見える。ここは高岡城らしい石垣が残るポイント。


石垣の積みなおしの跡も見える。


裏に回り、西面と紅葉



周辺は色とりどりの紅葉



ここから「三の丸」に移動
三の丸茶屋(売店)で御城印が買えますよ。御城グッズも豊富です。
「民部の井戸」と紅葉


このモミジが大きくて赤い色づきが鮮明



西内堀越しに中の島方向をみると赤い欄干の「朝陽橋」と紅葉の組み合わせが見られる。



「梅林」から「中之島」へ渡る。
この中の島は高岡城には無かったが、公園として整備された際に造営された人工島。
ここからの景色は最高です。

噴水越しの紅葉



対岸の紅葉を背景に手前の紅葉



緑を残したモミジのグラデーションも美しい。





三の丸茶屋での戦利品ヽ(^o^)丿



【高岡城】
《築城以来、水堀が完全に保存されている城》

名称(別名);
所在地;富山県高岡市古城
城地種類;平城
築城年代;慶長14年(1609)
築城者;前田利長
主な城主;前田氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;平成3~7年に水堀浄化工事
天守の現状、形態;城址
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

地図;

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134 富山城@富山市 令和二年(2020)11月18日 富山城址公園紅葉編

2020-11-24 06:01:41 | 旅行・城歩き
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2020年の紅葉は安近短
と言う訳で近場の名所をささっと短時間で(笑)

見ごろは意外と短くて、タイミングを逃すとイメージと全く違う姿に愕然とする。
毎日通って初めて新鮮な表情が捉えられる。

富山城と銀杏並木のコントラストの美しさを地元TVで知ってから1週間後に訪れたが、案の定銀杏は半分以上散っていて絵にならなかった。
本丸に向かって堀越しの天守に紅葉を絡めるのがベストポジションだと思うのだが、なかなか好ポイントが無くて堀沿いに東出丸の辺りまで歩く。


「三の丸」があった現国際会議場付近から堀越しに石垣と天守に街路樹の紅葉を重ねました。



ぐるっと回って、「二の丸」日医工ビル辺りから銀杏並木の隙間から天守と石垣が狙えるギリギリのポジション。



同、残り僅かな銀杏の葉っぱを絡めて。



堀越しの景色はムリと諦め城址公園内に入りました。

富山藩10代藩主前田利保が自らの隠居所として寛永2年(1849)に築いた千歳御殿の正門が「千歳御門」です。
当時は埋門と呼ばれていました。この門は大型の藥井門で総檜造りです。江戸時代の御殿の門としては、全国的に見ても数少ない遺構です。

、、、富山市郷土博物館資料より抜粋



千歳御門の屋根と緑色を残すモミジの色のグラデーションが美しく何枚もシャッターを切りました。






【富山城】
《加賀百万石前田氏の分家の居城となる》

名称(別名);
所在地;富山市本丸
城地種類;平城
築城年代;天文12年(1543)ころ
築城者;神保長職
主な城主;神保氏、佐々氏、前田氏
文化財区分;
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;2017年内部資料館リニュアル
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)

地図;

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035 金沢城@石川県金沢市 令和二年(2020)11月17日 紅葉と本丸周辺の散策

2020-11-23 06:18:48 | 旅行・城歩き
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金沢城の紅葉を写真に収めようと訪問しましたが既に見ごろは過ぎていました。
というか肝心の櫓を背景にする、紅葉などの色づく樹木が少ない。
二の丸広場、三の丸広場、三の丸北園地などはその名の通り広場であって庭園ではない。なので樹木が無いため、紅葉と櫓を絡ませた写真が撮影しずらい。
さらに現在「二の丸広場」が発掘調査中のため、フェンスで覆われています。復元された「五十間長屋」「菱櫓」がフェンスに遮られていたのも痛手でした。


ようやく見つけた紅葉で、ギリギリのアングルを狙ってみました。
極楽橋手前の玉泉院丸庭園口辺りから重要文化財の「三十間長屋」を撮影。



同じく復元された「五十間長屋」「橋爪門・続櫓」を背景に。



ぐるっと回って正面に出てみました。
「鶴の丸休憩館」のガラスに反射した「橋爪門・続櫓」



同じく庭のオブジェ越しに



同、数少ない植え込みの紅葉越しに



内堀に反射した逆さ「橋爪門・続櫓」




石川門まで移動し「三の丸広場」ごしの「五十間長屋」「橋爪門・続櫓」「菱櫓」
あ、菱櫓はちょん切れていました(笑)



さらに回り込んで河北門の辺りから内堀越しの「菱櫓」「五十間長屋」
紅葉と言うより枯れ葉(;'∀')



今回は未だ立ち入ったことのない領域の「本丸」を散策してみました。
重要文化財の「三十間長屋」から本丸園地の雑木林へ入ります。
築城当時は天守閣があったのか分かりませんが、本丸は手つかずの自然で満ちています。



城の南端「辰巳櫓跡」


下は「お堀通り」、向かいは「兼六園」、南方向に「いもり堀」と「しいのき緑地」が広がる絶景ポイント。



密林を抜け(笑)「丑寅櫓跡」に出ます。
金沢市内が一望できます


櫓の石垣が残っています。



さらに足を延ばし、ぐるっと一周。
二の丸北西側にある「旧第六旅団司令部」
明治31年に建てられた木造平家建て、床面積196m2の建物です。
当時は、陸軍本省が各師団建物の設計をしていたため、全国に同様の建物が建てられました。
金沢大学時代には、教育開放センターとして利用されていました。
、、、県のHPより


門の奥に司令部建屋があります。この庭の紅葉が見ごろでした。


明治維新で軍の施設が各地の城内に設置され、そこからの失火で残された城郭が焼失したという事案も少なからず発生。
金沢城の遺構もほとんど焼失しています。
もったいないですな~



【金沢城】
《多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城》
名称(別名);
所在地;金沢市丸の内
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)、天正11年(1583)
築城者;佐久間盛政、前田利家
主な城主;佐久間氏、前田氏
文化財区分;平成20年金沢城址として国史跡
近年の主な復元等;平成13年に菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪一の門、
平成22年に河北門、いもり塀を復元、平成27年に橋爪二の門を復元、玉泉院丸庭園を整備
天守の現状、形態;
追記:兼六園は金沢城の外郭庭園として五代藩主綱紀が作庭、以後さらに整備され江戸時代を代表する大名庭園で、
水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで「日本三名園」のひとつに数えられている
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)


地図;

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2020年の紅葉は安近短 「丸山庵」@富山市五艘 11月15日

2020-11-22 17:36:10 | ネイチャー
五百羅漢さんと紅葉を見た後、民族民芸村の向かいにある
抹茶所丸山庵のお庭の紅葉を拝見。



座敷に上がって抹茶を戴く喫茶坊
眼下には富山市内の風景が広がり、見晴らしの良い縁側で頂く抹茶も風情があって良い。



小さな庭の紅葉はまさに見ごろ、好天にも恵まれメッチャ奇麗でした。
















抹茶所 丸山庵
住所;〒930-0881 富山県富山市安養坊47−3
電話;0764-32-4782
地図
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2020年紅葉は安近短 「長慶寺の五百羅漢」 @富山市五艘 11月15日

2020-11-22 17:08:47 | ネイチャー
称名滝の落葉を愉しんだ後はとっておきの場所で紅葉狩り。

長慶寺の五百羅漢



江戸時代の後期、富山の米穀商で廻船問屋を営む豪商が、佐渡の石工に彫刻させ松前港に米を運んだ帰りに持ち帰りここまで運んだ。寛政11年(1799)から50年余りにわたる大事業であったと言う。



紅葉や楓のトンネルと石仏



一体ずつ表情やしぐさが違い、同じものは無いという。




住所;富山県富山市五艘1882
電話;0764-41-5451
地図
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2020年紅葉は安近短 落差日本一「称名滝」@富山県中新川郡立山町芦峅寺 11月15日

2020-11-22 16:39:06 | ネイチャー
称名滝の紅葉のリベンジ!
あれから2週間たった11月15日日曜日。今度は気合を入れて早朝7時に自宅を出発!
うんうん、流石に渋滞は無いぞとほくそ笑んだのもつかの間。すでに紅葉は終了していた(笑)
寒い!
それもそのハズ、称名滝の上の方には積雪が!
谷あいなので、太陽が低い位置では日差しが差し込まず寒い!
歩く人影もまばら。



紅葉が残っていたのはこの木だけだった。



ここまで来たら「称名滝」を撮影するしかない!
立山連峰の水を集める落差350メートルの大瀑布。右側にハンノキ滝と呼ばれる別の滝が現れていた。



夏場ならマイナスイオンに包まれてリフレッシュするのだが、今回は滝つぼからの風が冷たくて早々に退散する。



落ち葉が凍ってるやんか!



でも日差しがあると暖かい(*´ω`)



前回引き返した辺りからは立山ホテルや


下手にはアーチ橋も見える。



麓に近くなると山の色付き多少残っていた。



称名滝
〒930-1406 富山県中新川郡立山町芦峅寺
地図

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2020年紅葉は安近短 「教算坊」@富山県中新川郡立山町芦峅寺 10月31日

2020-11-22 16:07:46 | ネイチャー
称名滝の紅葉が見ごろとのニュースを見て出かけてみたが、行くぞ!という覚悟が不十分だったため出遅れ。案の定、周辺は大渋滞(;'∀')
地鉄立山線の立山駅、ケーブルカー乗り換え駅を過ぎた辺りからビクとも動かない。アカン!引き返そう💦



立山風土記の丘資料館隣にある旧佐伯邸
教算坊という宿坊の庭園で紅葉を観てきました。

苔むした庭園と邸宅内の和室、座敷から観る庭の紅葉が見事なんですが、残念ながら撮影に失敗してしまいました。
またの機会にリベンジしたいと思います。

















名称;教算坊
住所;富山県中新川郡立山町芦峅寺
電話;0764-81-1216
地図
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00 小浜城址 @福井県小浜市 令和二年(2020)10月31日

2020-11-08 06:01:05 | 旅行・城歩き
福井県指定史跡【小浜城址】



関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始めた。別名を「雲浜城」とも呼ばれる。寛永11年(1634)京極忠高が出雲に移封となり、代わりに酒井忠勝が武州川越(埼玉県川越市)より若狭十一万三千五百石の藩主となり、天守閣の造立に着手。寛永19年(1641)40年の歳月をかけ小浜城は完成をみた。以来、酒井家十四代、237年間の居城となり廃藩置県を迎えた。
明治4年(1871)12月「大阪鎮台分営」設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を焼失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
城地総面積62492㎡
本丸面積10347㎡
昭和31年3月12日福井県史跡に指定される。城地に藩祖、酒井忠勝公を祀る小浜神社がある。
、、、小浜市


先日福井県敦賀市の「敦賀城跡」を訪ねた際、大谷刑部少輔吉継亡き後敦賀城は破却され廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれたと知り、機会あらば「小浜城」へも訪れてみたいと思っていた。
今回、福知山城の帰路に小浜城へ立ち寄れたことは大変幸運だった。


場所は海側の「フィッシャーマンズ・ワーフ」の隣。国道162号線「北川」に架かる橋から海側に入った住宅地のど真ん中。
まさにここは「城内一丁目」です。




【縄張り図】
「古絵図」
上が「西」で若狭の海
本丸を中心として四方を「北の丸」「西の丸」「二の丸・御殿」「三の丸」が取り囲み、北と南には家臣の屋敷、その外側に町家を置き、東側には農地が広がっていることがわかる。



古絵図を基に現在の地図に落とし込んだイラスト、、、「ふくいヒストリーロード」看板より転載
上記「古絵図」と向きを合わせ上を「西」にしました。
河川工事等で城域がほとんど失われたことがわかる。



【石垣】


本丸跡地に建つ小浜神社より先に、先ずは本丸を取り囲む石垣を紹介します。
一見すると普通の神社のようだが



周囲を荒々しい石垣が取り囲み、ここが元は「御城」だったことがわかる。



築城者の京極高次(正室は浅井三姉妹の次女「初」、ちなみに長女は淀君「茶々」、三女は二代将軍秀忠の正室「江」)は川と海に囲まれた「水城(みずき)」として小浜城を築いたそうですが、現在は護岸が整備され城域も削られましたが、隣を流れる「北川」から眺めると水に浮かんで見え往時が偲ばれるようでした。




【外側から見た石垣】
「西面の石垣」
若狭湾の方向から撮影。この写真は西面の中央から北西隅までの直線部
背後の杜は「稲荷神社」で右側の社の屋根は「小浜神社本殿」です。



西面の石垣は中央部で分割され本丸内に入る通路「虎口」となっていますが、古絵図では「西櫓」があった場所です。



この「西櫓跡」の「虎口」から右手(南の方向)をみますと「天守台」の石垣へと繋がりますが、途中積み方が違っているように見えるのは崩壊しかかっているからでしょうか。
寛文二年(1662)5月に発生した地震により石垣は崩壊したとあります。(近江・若狭に大きな被害をもたらした「寛文京都地震」の事でしょうか?)

「天守台」は本丸の南西隅に配置され、西面・南面にそれぞれせり出した造りです。



「天守台」と西面の石垣を海の方向から見た写真です。
本丸が住宅と密接していることがわかります。



隅部の稜線に反りは無く、直線的に角が揃えられ算木積みですが形は不揃いです。



「南面石垣」
南東から南西隅の天守台方向を見る。
こちらも住宅が迫っている。



同じ角度からせり出した天守台の石垣を見る。
自然石を積み上げ、隙間に小石を詰め込んでいる。隅部は算木積みで稜線部には反りがあるようにも見える。




【内側から見た石垣】
南西隅に配置された「天守閣」
城壁の端面に天守へ向かう通路と階段がある



「史跡小浜城址 天守閣跡」の標識



天守閣跡には礎石の一部らしきものも残っていた。
写真は南西方向を見る。右手方向に僅かに若狭湾の海が見える。



写真は天主閣より北の方向を見る。正面に「北川」、左方向が若狭湾の海方向。



「西櫓跡の虎口」と城壁端面、奥は天守台
写真は西面虎口北側から見た南方向。
城壁は内・外から石を積んで真ん中の土をサンドイッチにしている構造が良く分かる。




「南面の城壁」
天守台から東方向を見る。住宅が迫り奥(東側)には「大手橋」が僅かに見える。
城壁は内・外から石を積んで真ん中の土をサンドイッチにしている構造が良く分かる。




「西櫓跡」の標識が建つ
西面城壁を内側から見る。右手が虎口
こちらの石垣は色白で丸みがある



西面城壁、稲荷神社裏手(北西隅)
こちらの石垣は荒々し形相



「東面の石垣」
南東隅 南方向を見る。
東面には小浜神社入り口があり、住宅街の大きな通りに面しています。



「北面の石垣」
北川に面しています。


北東隅
南方向を見る。
東面には小浜神社入り口があり、住宅街の大きな通りに面しています。




【本丸内部】
東面正面の鳥居をくぐって本丸内に入ります。

藩祖本田忠勝公を祀る「小浜神社」



「拝殿と本殿」
藩祖本田忠勝公は3代将軍・徳川家光から4代将軍徳川家綱時代の老中・大老という幕府の要職にあった。その遺徳を顕彰し明治8年に社殿を建立して御祭神として祀っている。



北西隅にある稲荷神社



社殿南側にある井戸と巨石
「古呂美橋の石」



「酒井会館」
東面の大通り沿い、神社鳥居の北側にあります。
歴代藩主酒井家の資料などを展示してあるそうです。



「組屋地蔵尊」
東面の大通り沿い、神社鳥居の南側にあります。
昭和28年9月の大風(ジューン台風か?)による水害で「衛門口」の石垣が崩れ、その後の復旧工事で石仏が石垣に転用されているのを発見。
この石仏は小浜城築城の際に人柱になった娘の霊を慰めるために建立したものと判明し、改めて祠を作り祀っている。




午前中に訪れた福知山城は多くの転用石を使った石垣で知られ、ここ最近では明智光秀ブームによりTVで取り上げられる機会も多く、初めて訪れたにも関わらず感動が大きくなかった。
しかし、この小浜城は全く前知識がなくぶっつけ本番だった為、予想以上に大きな規模の石垣に驚いた。しかも川と住宅地に挟まれ、日常の中の非日常と共存している姿にある意味感動すら覚えました。
本当に来てよかったです。


【小浜城】
《関ヶ原の戦いで功績があった京極高次が若狭国を拝領、雲浜城(うんぴんじょう)の雅号をもつ海城》

名称(別名);雲浜城(うんぴんじょう)
所在地;〒917-0095 福井県小浜市城内1丁目7-55
城地種類;平城
築城年代;慶長6年(1601年)
築城者;京極高次
主な城主;京極氏、酒井氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;
天守の現状、層塔型複合連結式3重3階(1635年築)非現存形態;輪郭式平城・海城

※出典、、、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地図;
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