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00大聖寺城@石川県加賀市大聖寺 令和二年(2020)4月3日 曲輪編

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大聖寺城は標高63m程度の低山ながら急峻な斜面であり、通称「錦城山」(藩政期には「古城山」と言われていた)に築城されました。この地は古代より水陸交通の要衝であり、また越前と加賀の国境に近く重要な軍事拠点であったため、南北朝時代から織豊時代まで度々合戦の舞台となりましたが、藩政期には廃城となり人々の立ち入りが禁止された「お止め山」となりました。明治以降も大きく改変されず、土づくりの城から石垣の城へ変遷する近世城郭の成立期の遺構を良好にとどめています。
※加賀市観光推進部文化振興課発行
加州大聖寺古城之図


パンフレットの縄張り図に曲輪の配置や見どころが番号順に記載されています。
当日の行程を矢印で表しています。
残念なのは⑦二の丸からの帰路「下山路」看板に従ったところ、肝心の「本丸」を見逃してしまいました。


駐車場に車を停め、登り口から進みました。


最初に目にするのは「偽金造りの洞穴」
明治新政府の命令を果たすため藩ぐるみで偽金を造ったそうです。



「切堀」
馬だし曲輪辺りにみられる大規模な切堀跡



⑮「下馬屋敷跡」
建物の遺構は確認されていない。鐘が丸、東方下段にあり本丸以南で最も重要な分岐点



⑭「番所屋敷跡」



⑬「鐘が丸跡」
鐘つき堂があったことが語源という説もある。前田軍との最大の激戦地。



⑫「骨が谷」
鐘が丸北西部にある谷で、前田利長軍に攻撃され多数の戦死者が骨になるまで放置されていたことに由来するとも言われている。



⑪「局谷」
本丸と鐘が丸の間にあった谷を切堀した一部。名前の由来は落城の際、城主に仕えていた局たちが身を投げて殉死したことによると言われている。
スタンプにある簪をした蛇はその化身だそうだ。



⑩「西の丸跡」
北西部に位置する曲輪。本丸とは大規模な横堀で分断されている。
一向一揆、織田軍入城以前の遺構が多く残る。



⑨「三の丸(北の丸)」
織田軍による改修で大掛かりな横堀で分断され、城外的役割。



⑥「馬洗い池」
本丸・二の丸・西の丸に囲まれた場所で北東部をせき止め、岩盤まで掘削するなど、籠城戦に備えた飲料水を確保する貯水池であった。



⑦「二の丸跡」
城内最大の曲輪で台所屋敷とも呼ばれていた。
土塁・空堀で防御されていた。



⑤「本丸北東虎口跡」


ここで誤って「下山道」を進んだため本丸を見逃してしまった。


途中城下町とはるか白山が見渡せる。


⑰「対面所跡」
二の丸と馬だし曲輪にはさまれた、城内最大の広さを誇る谷で大規模な造成がなされ、城主の居館があった場所と推定される。



十四代まで続いた大聖寺藩だが城郭を持たない藩であった。歴代城主は「大聖寺陣屋」に居館を構え藩政を取り仕切ってきた。
大聖寺陣屋、茶室「長流亭」はぜひ訪ねてみたい。

また歴代藩主の廟がある「曹洞宗金龍山 実性院」は大聖寺前田家の菩提寺であり・白萩の寺としても知られている。


※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンクと写真を追加

【大聖寺城】
《城跡に建てられた大聖寺陣屋の茶室「長流亭」は、小堀遠州の設計》




名称(別名);錦城
所在地;石川県加賀市大聖寺地方町
城地種類;連郭式平山城
築城年代;鎌倉時代
築城者;狩野氏
主な城主;狩野氏、一向一揆、朝倉氏、堀江景実、簗田氏(戸次氏)、佐久間盛政、藤丸氏(上杉氏)、拝郷家嘉、溝口秀勝、山口宗永、前田氏
文化財区分;加賀市史跡
近年の主な復元等;主な改修者柴田勝家
天守の現状、形態;元和元年(1615)廃城 城址
地図;



※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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