銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

上水道の罠・・・その前に、宗興寺さんと浄智寺さんの結びつきを語る。両方に伊藤玄二郎が絡んでいるが

2022-10-12 20:40:44 | 政治

副題1、『2022年10月2日は、私の実家の、最後の法事だった。だが、私は出席しなかった。しかし、弟には、誠意を示したいと思い、前の日に、鶴見の弟の二つ目のマンションを訪ねている。しかし、彼には会えなかった』

 この法事に出席しないと、言う事は、伊藤玄二郎 → 浄智寺さん → 宗興寺と、言う流れで、宗興寺さんが、おかしくなっているので、それを、ブログで、二回、書いています。

 そのリンク先を見つけている時間が今はないのですが、ともかく、法事に、気を抜いた、やり方が、目立ってきていたし、鎌倉霊園と、宗興寺さんが、結託をして、そういう、いい加減な法事になっていることもわかっていたし、

 曹洞宗の、事務方の偉い人である、宗興寺さんを、一回目のブログ以降、守るためでしょう。オイコノミア(又吉直樹が、経済問題の、知識を、その専門の人に聞いて歩いていく番組で、非常に面白かったが、私のブログが、総持寺編について、あまりにも深い政治的、真実をついているので、放映が終わってしまった)が、以前、中央線沿線の、新興のお寺で、取材した、コンセプトと、まったく同じことを総持寺を舞台に、放映をしたのです。だから、二回か三回、宗興寺さんが、CIAエーじぇじぇんとの言うなりになっていることを、書いている筈です。

 でも、自覚的に、欠席をしたのですから、悲しむことはなくて、「誰が出席したか?」とか、宗興寺さんが「喝を入れたか?」とか、主人に聞いて、いろいろな、こと(特に敵が、だれを篭絡しているのか。誰を私に敵対させているのか?)ということがはっきりとわかりました。主人も、私がなぜ、欠席をしたかをうっすらと知っているので、「宗興寺さんは、お食事を一緒にとられたよ」というのです。

 最近3回か、4回ぐらい、宗興寺さんは、口実をつけて、食事を一緒にとらないと、言うことが続いていました。特にひどいと思ったのが、・・・・・「鎌倉霊園が、次に、その式場を使うので、早めに切り上げるし、お坊さんの方も別の用事があるので、峰本(鎌倉霊園から、一キロぐらい離れた駐車場付きの、料亭)での、食事会には、参加しない」・・・・・・という、前回の事でした。
 私はたまたまセーターを忘れたので、取りに帰ったのです。次のお客が式場を使うとしても、間に、30分の余裕は入れているでしょう。もしかしたら、一時間の余裕を入れている筈です。午前二組、午後二組、または、午前、三組、午後三組としても、間に、30分の余裕は入れている筈です。そして、早めに来るお客もいるので、式場は、ドアは、空いている筈で、誰かいたとしても、「前に法事をしたものです。セーターを忘れたので」といえば、だれも「だめです」というはずもないです。

 ところが、鍵が閉まっていて、誰もいないのでした。で、セーターを取り出せません。で、事務所に行って、鍵を借りました。その時、怒りのあまり、「次のお客がいるということで、早めに追い出されたのですが、次のお客はいませんね」と、言ったかというと、言わないのです。リアルな世界では、喧嘩をしない主義が、ここでも、出てきて、私は黙ってカギを受け取り、黙ってセーターを取り出し、黙ってカギを返しました。

 鎌倉霊園が嘘の実現に、協力したということは、堤義明さんが、からんでいて、ということは、彼のいとこだと、考えられる、石塚雅彦さんが絡んでいるのでした。浄智寺さんを動かしたのは、伊藤玄二郎です。これで、彼も、CIAエージェントであり、石塚雅彦さんも、CIAエージェントであると、言うことが、明瞭になりました。
 そして、宗興寺さんは、今回、36年ぶりに、「喝を入れた」のでした。その間、ずっと、省エネスタイルだったのです。力を惜しんだ、気のないスタイルでした。喝がなく、宗教談話も、短いものだったのです。
 しかし、父が選んだお寺です。父は、社長さんたちのグループが、運営する仏教研究会に入っていて、新門様などもお呼びして、ほかにも、いろいろなお坊さんの講話を聴いていました。で、宗興寺の前の、お坊様が、良い方で、お金儲け主義ではないし、尊敬できるから宗派を変えて、曹洞宗でもいいから、宗興寺さんを、菩提寺に定めようと、決意して、お願いをしたのでした。江戸時代は、身分によって、宗派が、きまっていたので、萩の本家の宗派を引き継いだ方が、身分の証明にはなるのでしょうが、それを変えたのです。萩の、父の実家は、曹洞宗ではないはずです。父は、次男なので、萩の墓から、独立して、自分の墓を鎌倉霊園に作りました。その際に、萩は、13歳で離れています。旧制中学入学時に、山口中学に通うために、山口市に、寄留をしたので、その時点から、ほとんどを萩以外の、場所で過ごしています。だから、萩の菩提寺の、お坊さんにも、付き合いがなくて、裏切るという気持ちなど、毛頭なくて、宗興寺さんを選んだのでした。
 それなのに、こんな激しい裏切りに会うなんて、これも、伊藤玄二郎が初発の言論弾圧だから、彼に対する怒りは深いです。

 ところで、私は、よく神様が救ってくださるといっています。その神様ですが、別にキリスト教系統の神様と、言っているわけではないのですよ。
 カンブリア宮殿で、築地の、本願寺が、取り上げられたことがありました。現在のトップは、元銀行務めの僧籍の人で、大きな改革をしたそうです。その方が、「人知を超えた存在があることを、知ってほしい」とか、または、それを知ることが大切だと、おっしゃっていたのですが、そういう神様です。


 わたくしがセーターを式場に忘れたこと、それが、神様のご采配だったのです。「あら、へんね、法事にセーターなんか着ていくのですか?」という礼節に詳しい女性が存在して、疑問を呈されるかもしれません。だから、詳しく、説明をさせてくださいませ。
 セーターといっていますが、実際には、カーディガンというスタイルです。そして、なんと、50年以上前に母が買ってくれたものです。実は、例の大・大・実質的詐欺事件である、(北久里浜の水道山1200坪が、ただで、私人(益山茂夫夫妻。彼が急死した後では、瀬島龍三とか、細君の智恵子さんの実弟仲野通巳吉が、表面に躍り出て来たが?)にわたった地積変更届の際、(1978年の、10月何日かに)それを着て法務局に行っています。登記簿謄本をとったと思うのでそれが、存在していれば、正確な日付がわかります。が、それ関連の資料が段ボール箱いっぱいあったのに、盗まれています。だから、1978年の10月だったとしか言えませんが。


 今、日本財団の、古楽器部門の実質的トップである、塩見和子さんが、「セーターが好きです」といっておられますが、まさしく、その種の作家ものセーターで、母が、当時、その作家さんを好きだったのでした。50年前に、3万円以上だったと、聞いていますので、今では、20万円以上はするものでしょう。
 しかし、値段ではないのです。

 50年前には、非常に新しい化学繊維だった、ポリエステルの糸で、編んであります。ポリエステルって、絹に似た艶を出すことができますが、絹と違って、冷たいのです。着て冷たいのです。だから、母は、「これは、サマーセーターよ」と言いながら、私に渡しました。しかし、ポリエステルの糸って、意外な長所があるのです。それは、劣化しないという事。全然古くならないのです。けば立ってきたりはしないのです。いつまでも、新品状態です。

 しかも縁取りが、幅6cm段が、5段以上の手編みの縁取りです。編み物を自分でやる人だったら、特に上等なものだとわかるでしょう。また、ウエストが絞ってあってボタンなどがなく、レースの紐などで、ウエストを絞ると、痩せているわたくしの、痩せ加減をさらに、強めて、優美さを増してくれるのでした。

 母は、一時期、私をいじめていました。高給取りで、仕事も華やかな妹に比べると、私の方は、挫折した人間で、今では、専業主婦でしかないので、がっかりさせる存在だったのです。妹と結託をしていて、家庭裁判所の調停委員が、「あなたは、本当のお子さんですか?」というほどに、遺産に差がありました。数字の上では、平等でも、実質で、差があったのでした。母と妹と弟は、父の死後、賃貸収入が入る、不動産を二つずつもらって、それだけで、30年間に、一億円は、獲得したはずなのです。すごい差なのです。だから、遺言書開示の日に、弟が、当時、教育センタービル(今では、関東学院のタワービルが建っている場所)の二階にあった、スエヒロで、「僕の取り分から、二千万円上げますので、これに、印鑑を押してください」と言われて、印鑑を押しました。わたくしは、2000万円に目がくらんだわけではないのですよ。全体として、お金には、無頓着だったのです。長女として、常に、親から与えられる方だったので、無頓着なのです。父親にしても、北久里浜の家と、鎌倉の家の二つを持つに際して、買うときに援助をしているので、自分が死んだときには上げないと、言う話でした。父は、別に差別をしたわけではありません。ただ、父の葬儀にしろ、何にしろ、一切を、妹夫婦が取り決めて、私という長女夫婦を一切かませなかったこと、また、父の死後、母に七億の借金をする様に、妹夫婦が提案をしてきたことは、怒りの対象です。感情的に嫌な話でした。だが、妹の連れ合いには、なめられ切っていたと思います。しかし、このブログが、私の死後日の目を見ることもあろうかと信じています。神の本で出版される日もあろうかと信じています。で、そうなれば、妹の連れ合いと、私の地位は、逆転します。元に戻ります。

 母が、「70を超えて、7億もの借金は嫌よ」といったので、破産をせずに済みました。この二年後だったか、バブルがはじけました。借金をしていたら、破産では済まない額でしたね。両親は、堅実な人で、住宅金融公庫以外の借金はしたことがないのでした。

 妹の結婚相手は、父親が愛人の下で、暮らしていた時期が長くて、したがって、アルバイトなどできない少年期には、貧乏だったらしいのです。だから、お金にシビアで、借金をすると、遺産の相続税が安くなるという知識があり、母に「借金をして、ビルを建て、賃貸収入を得ること。それは、節税にも役立つのだから」と勧めていたのでした。そういうことも、私には、事前には、一切の相談がないのでしたが、さすがに額が大きいので、家族会議が開かれて、母の「借金は嫌よ」で、無事なその後を迎えることができるという形で、決着がつきました。よかったです。

 母と、妹の結託と、それによる私はずしの時期は、ほぼ、20年間続いたと思います。その間、駅まで、一緒に帰ったお手伝いさん(もと、霞が関勤務で、大学教授の未亡人、現代アートの作家になって、ニューヨーク暮らしをしている息子さんにお金を送りたくて、お手伝いをしている人)が、「千恵子さんも大変ですね」と、同情をしてくれました。

 そういう母が、最期の五年間ぐらい、私に傾斜することとなります。私を姉として慕い、一種の教誨師としても、慕い、私の老人ホーム訪問を、大きな期待を込めて、待つ様になったのです。そうなれば、私も母をいとしく思います。

 私は、心理的側面とか、情の在り方という側面では、非常に深いところに達しているのです。人が死に向かうときは、お金も関係がないし、社会的地位も関係がありません。もしかすると、宗興寺さんより、私の方が宗教家としては、深いかもしれませんよ。わたくしが反対の立場だったら、浄智寺さんの提案に対しても、あれほどの、軽いノリ方は、しないでしょう。絶対に自分の基本的な義務は守ると思いますよ。

 前報(後注1)の、中で、【電車の中で】というタイトルの本を出版したと、言っています。その中で、ちらっとですが、それを出版したのは、母のことを記録しておきたかったからだと、言っています。母との最終場面での、やり取りを、簡潔に書いた章、三つで、その書物を終わりとしています。本を出すというのは、やはり、何らかの強い動機が必要で、私にとっては、母との最後の日々が、とても大切なものだったから、記録にとどめたかったのでした。

 そういう母から、法事の日には、45年前にもらったセーターです。それは、それは、大切なものでした。忘れたら、絶対にとりに行くはずのものでした。でも、どうして忘れたかというと、いかにも、ぼんやりとしていて、生気も誠実さもない、宗興寺さんの、法事執行を見ていて、浄智寺さんと、伊藤玄二郎の結びつきと、それ故に宗興寺さんが、不誠実になっているのだから、それを、このブログで、どういう風に書いたらいいだろうか?と、考えていたからでした。

 そしてセーターを忘れたことによって,鎌倉霊園 また、その裏にいる、堤義明氏、その従兄弟、石塚雅彦さんのラインと、宗興寺さんと、その裏にいる、浄智寺さんと、そのまた裏にいる、伊藤玄二郎の、二つの流れが、その日結集したのを感じ取ったのです。それが、神様による恩愛の一つの現れです。

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副題2、『私はなぜ、2022年10月2日という、直近のことを書き始めたのか? それは、10月6日に、すこぶる嫌なことに遭遇したからだった。それは、10月2日に始まり、今もずっと続いている出来事である。だが、書く必要があるのだった』

 さて、ここまでは、本当は、ずっと将来に書く予定のことでした。だって、最近、日比谷花壇における罠ということを連続して書いていますね。それもまた、伊藤玄二郎の悪を暴く話ですが、1967年の出来事です。それに比較をすると、この2022年10月2日の法事とは、たった、10日前のできごとです。しかし、そこから始まって、私は、10月6日に非常に大きな嫌がらせを受けます。またまた、それは、秘匿をされた罠でしたが、壮大なミステリーを解きつつある私にとっては、是非記録をしておく必要がある話でした。
 で、下書きとしてメモリ始めました。すると、・・・・・ああ、そうだ。これは、ハッキングをされているので、中途半端な書き方をすると、私の被害がさらに拡大するのだ・・・・・と、気が付き始めます。で、ある程度、書いたところで、公開をした方がいいと感じました。したがって、公開をします。しかし、最近の私は、兵糧攻めに対応するために、重労働の日々であり、それが、始まった、9月9日以前の様に、時間と体力を、十分にかけていることができません。

 だから、メモそのものをさらします。ただし、自分の覚書ですから、一般の人には、ちんぷんかんぷんでしょう。だから、埋め合わせをしつつ書きます。というのも、ここにも西原理恵子、大前研一などの、有名人が登場するからです。それに比べると、この雪の下二丁目に住んでいる住人というのは、有名度が少ないですね。だから、説明を加えないといけません。その説明の部分を、紫色で、書いていきます。

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副題3、『母が言う。「あんたは、(老後についてだが)大丈夫よ。息子ちゃんは、やさしいからね」と。これもありがたい言葉だった。弟は独身であり、子供がいない。妹には、娘がいた。しかし、娘に介護をしてもらえるかというと、そうでもなかった。妹は、一人娘を、最初は、自分が幼いころに倣っていた、バレーで、有名にしようと考えていた。毎年冬にスイスにスキーに行っていたが、ヨーロッパに触れさせることが目的だっただろう。ところが、小学校四年の時に、バレリーナの夢をあきらめ、普通に、受験勉強をさせて、医者にすることを考え始めたらしい。自分たち夫婦は、二人とも、千葉大という、偏差値優秀大学に入学できた。ただし、薬学部である。もっと、偏差値を落とせば、(つまり、私立でもよければ)医学部に進学できると考えたらしい。で、順調に、中学受験に成功をして、渋谷幕張に入ってからは、その夢を追って居たと、思われる。

 ところが、渋谷幕張の同級生の姉が、亡くなった。その通夜の日に、「お姉ちゃんの代わりとして、この家の娘になって頂戴」と言われて、そのまま、その家に住み続けることとなった。これを私は全然知らなかった。


 わたくしがニューヨークへ行っている最中に、その一人娘は、寄遇先(実質的な養子縁組と同じ)の男の子と結婚をした。男の子の方が、大学へ進学せず、会社を起業したので、渋谷幕張の同級生等が招かれることはなくて、姪の方も、看護大学の同級生は招かなかったらしい。だって、結婚相手がセガサミーの創業者里見さんの甥なので、看護大学の同級生とは家風が違うはずだ。富裕度のレベルが、違いすぎるだろう。普通の場合、富裕な家のお嬢さんは、看護大学を目指さないからだ。
 だから、親戚だけ招かれた。椿山荘で、少ない参列者だったが、たいへん豪華な披露宴を行ったそうだ。むろん結婚式も豪華だったのだろう。わたくしの子供二人が招かれて、富裕層の私生活(25年以上前に、おせち料理は、10万円の物を買う)とか、聞いて驚いて帰ってから、話した。
 妹は、自分が得意としている、飯田深雪さん伝授の、絹の造花で、娘のドレスを飾り、大きなウエディングブーケも作った。だが、本音のところでは、自分が手元に置いて育てれば、医学部に行けたのに、と、残念がっている。
 姪は、定年退職後の義父に、子供二人の保育所前後の面倒を見てもらって、看護師生活を卒業以来、ずっと続けている。一戸建てなのだけれど、エレベーター付きの豪邸を、東上線常盤台駅北口から、徒歩、三分のところに建てて、暮らしている。勤務先の病院は、すぐ近所らしい。夜勤をせず、したがって、婦長(師長?)にはなれないそうだが、仕事は好きなので、やめないといっている。
 姪の義母だが、セガサミーの会社で、手伝っていると聞いている。しかし、妹みたいに、「キャリアウーマンで、キリキリしゃんとしています」という感じではなくて、ふっくらとした専業主婦タイプだ。だから、姪にとって、居心地がよかったのだと思われる。妹は、ちょっときついところがあった。7歳も年上の私に対してそうなのだから、娘に対しても、命令口調で、あれこれ、指図したと、想像できる。
 それを反抗という形で、母親には示さず、さっさと、別の家の、実質的養女になってしまったのだから、姪は、母親よりもはるかに図太い。精神的に言うとタフで、大きい。

 体は母親に比べると三分の二ぐらいに小さいので、「男性のリフトに耐える」と、妹は、言っていて、バレリーナにすることが、一時期の妹の夢だったが、医者に変更になっていたのだった。その夢が、少し、格が低い看護師として、実現をした。でも、姪は、現在のところ、無理がない形で仕事をする妻であり、母であり、幸せそうに暮らしているので、それでいいのだと、思う。法事にも来て、くれたそうだ。
 でも、老人ホームで暮らしている私の母は、きっとこのことを知っていたのだ。だけど、私には30年間にわたって、一言も教えなかった。ただ、母が、最晩年に、「結局、あんたのところが、一番明るくなったわね」と、わたくしに言ったのは、(夫が単身赴任で、大阪にいて)、娘は、常盤台へ行ってしまった、一時期の妹を念頭に置いて言っていた言葉だと、思う。

 ところで、私は妹のことを恨んではいない。私に対して嫉妬心を持っていて、したがって、母を取り込んで、私を阻害する傾向が強かったのだけれど、そういう人格は母が作ったともいえるのだった。

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副題4、『親になるということは、セックスをして、妊娠出産をすれば、自動的に親になるというものでもない。父親の方は、妊娠出産がないので、余計、実感が少ないだろうが、ともかく、ある程度は、学ばないと、なることができない立場だ。学びの先だが、書物とか、インターネットとか、講義で学ぶ、そういう分野とは、違って、子供との交流を通して、実際の場面で、学んでいく。そのためには、子供に対しても、低姿勢で、相手を尊重すると、言う気持ちが必要だ。

 だが、小学校六年ぐらいまでは、親の方が上で、命令口調で、指導できる。しかし、14歳(または、体格によって、13歳であったり、15歳であったりするが)を境に、立場を変えないといけないのだ。妹は、職場で、輝かしい経験を積んでいるので、子供に対して低姿勢になるという変更ができなかったのだと、思われる。特に女の子だと、反抗が目立たないので、親が、自己変革をするチャンスを失いがちだ。

 しかし、私は妹を責めたり、けなしたり、復讐をするために、こういうことを書いているわけではない。反対に、妹もかわいそうだったなあと、思っているのだ。あのせっかちで、余裕がない態度、は、私の母が作ったものだから。妹の責任ではないからだ。ただし、遺伝的に、芯が繊細な子供というのはいるのだ。妹は、そういうタイプだった。母は、そこも、最晩年には、理解をしていた。「うちの子って、どこか、繊細で、芸術的な要素があるのよね。きみちゃんなんて、ちょっと、お料理を作っても、(edible)お花を飾ったりする。だけど、それが、旦那に理解をされないのよ」と。これは、私にも当てはまる言葉だった。だが、母が死んで、12年が過ぎ、私もさらに変わった。今では、旦那に、あれこれ、文句を言ったり、喧嘩を持ちかけたりしている。で、自分の権利とか、領分を家庭内に確保しようとしている。でもそれは、主人が心筋梗塞を患ってからの出来事だった。相手の健康を思うから、こういうことを言うと、言う添えごとをつけて言っている。

 母に戻ろう。死ぬ五年ぐらい前には、妹に対しても、私に対しても深い理解を示した母だったが、妹が小さい時には、そうではなかった。妹が愛情不足で微熱が出ているのですよと、当時の小児科の権威だった、内藤寿七郎先生の診断が下っても、母は、他人事みたいに、午後のお茶飲み会で、それを披露するのだった。私は縮み上がった。お母さん、なんで、そんなことを他人の前でいうのよ。それって、お母さん自身の恥なのよ。わかっていないの?』と思ったが、リアルな世界で、喧嘩をしない主義の私は、みんなが帰った後で、母にそれを言う事もなかった。

 結局のところ、母は死ぬ直前まで妹を便利に使ってはいたが、弟に対する様な、純粋で、無垢な愛情を注いでいたかどうかは疑わしい。かわいそうな妹よと思う。妹は、母のブラウスを買ってきて あげたりしていた。形見として、それらを、もらってきたが、上等なものばかりである。母に懇親の愛情と奉仕をしていたが、純粋に愛されていたかどうかが、疑わしい。

 これは、母親が、陥りがちな、陥穽であって、二番目の子供がおろそかになりがちなのだ。今の言葉でいうとネグレクト。特に三人子供がいると、二番目の子供が看過されやすい。わたくしの子供は二人だが、やっぱり下の子の方がぞんざいな、育て方となっている。そして、それを娘から、ちゃんと指摘もされている。だけど、下が、女の子でよかった。女の子の方が男の子よりもタフなので、何とかなった。

 で、最近は何度も書いている妹分析を、本日も行ったのはなぜなのかを語りたい。 実は、ご近所の富沢夫人の態度と関係がある。ここで、やっと総タイトル、前半の【水道を使った罠】という項目に入っていく。それは、10月6日に起きたのだが、朝8時ごろ、自宅前の、道路で、富沢夫人と会話を交わした際に、感じた違和感が発端だった。

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 これから先は、ミステリーを解く常道として、答えを明かさないで、書き進めたい。時間的に順を追って書いていく。

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副題5、『私に対して、いろいろな攻撃策が準備され、実行されているのだが、まず、兵糧攻めにあっている。それは、9月9日に横浜市神奈川区のアパートの二階の住民が退去していくと、いう形で、始まった。すぐ、一階の住民の生活保護費の問題で、内容証明を出したのが、気に入らない、伊藤玄二郎の、復讐策だと、判ったが、

 ともかく、それと連動をして、北久里浜の家に置いてある生活用品を撤収することとした。それは、2016年、主人が心筋梗塞を患って、この鎌倉市雪ノ下の、家のテレビが置いてある居間まで、下から、160段も階段を上がらないといけないが、それが、できなくなるだろうと、言う予想の下に、彼の入院中に、私が、いろいろ準備をしたことだった。 

 しかし、主人が、思いがけず、回復し、80歳まで、二人とも、この雪の下の家で、生きて来たので、最終段階まで、この家で、暮らせると考えた。また、北久里浜の家が、立派な家なのに、空き家認定(これも、杉本俊一・正子夫妻の、復讐劇だが、)をされてしまい、横須賀市の、美観対策なんとやらで、勝手に横須賀市によって、壊される可能性も出てきたので、他人に貸したいと、思う様になったからだ。
 しかし、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、皿洗い機、テレビなど、多数の家電製品やら家具が持ち込まれており、それらを撤収するのが、大ごとだった。
 しかし、法事の日に家族全員で、出席していた長男が、「5日の水曜日に、手伝ってくれる」という。で、主人が電話で、それを知らせてきた。ここで、最大のにミステリーを語らないといけない。それは、我が家の電話が盗聴をされているという事。で、盗聴を利用して、以前から、準備をされていた、攻撃が、2日から始まった。何が?というと、富沢家の水道が故障をしたという形。だが、私は、それを、6日まで知ることがない。後で、2日に故障をしたと、聞いただけだ。

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副題6、『主人が、心筋梗塞手術の際に、砕かれた、小さな血栓が、脳に飛び、言語中枢を痛めたので、連想が混じった語り口になり、夫婦のコミュニケーションに齟齬をきたす様になった。しかし、主人は、5日の水曜日に北久里浜に来た長男が、6日の木曜日に、引っ越しを、してくれると、言った。手伝ってくれるというわけではなくて、してくれるといった。それで、私は、心配になった。

 引越し業者に頼むのだったら、それなりの、費用を請求されて、この雪の下の自宅一階まで、147段の石段を運んでくれるだろう。しかし、主人と息子だけで、引っ越しをするとなると、衣装ケース、15個分、ベッド用マットレス、一枚、桐の箱、チェストなど、二人では、一回では、とても運べない物を、ともかく勢いで、軽トラに積んでしまう可能性がある。

 こういう時に、雪の下の家に、泥棒が入らなければ、私も行って、現場で忠告をすることができるのだけれど、泥棒が入るので、行かれない。しかも、北久里浜の家にも泥棒が入っている。

 
 ここで、2021年、品川駅、新幹線待合室の、公衆電話そばで、尾行の、人間に、合いかぎ、四個付いたパス入れを盗まれたことが、利いてくる。悪いほうへ利いてくる。ただし、それも、例のCIAエージェントか、その手下としての警察だと思う。だから、出てこないし、JR東海はノートに記載をすることを、引き受けないで、JR東日本へ届けてくれというが、JR東日本は、届けを受理した風を装ったものの、後日行ったら、ノートに記載をしていなかった。全くめちゃくちゃで、この日本は、法治国家とは、とても言えないとなる。パス入れは、三菱銀行が、株主優待品としてくれた、革製の上等なもので、それに、四つも、鍵が付いているのだから、普通の人が見つけたのだったら、必ず、JR東海の窓口へ届けてくれるはずだ。特に北久里浜のカギは、7万円も取られた、すごいものだから。普通の人にとって、JR東海の窓口が一番近い場所だから。でも、いまだに、見つからない。

 ともかく、私は、手伝ってもらえる人を探しを始めた。5日の夜のことだ。6日の木曜日に軽トラに乗せて、荷物が届き、私が持ち上げるにしても、衣装ケース、5個が精いっぱいで、主人は、軽いもの一個がせいぜいだ。もし息子が、全部いっぺんに持ち込んできたらどうしようもない。それで、まず、三年前に手伝ってもらった絵画運搬店の、坊ちゃん二人と、連絡を取った。だが、電話がすべて、通じないこととなっていた。実は、廃業したとのこと。後で、ほかの会社の人から聞いた。で、35年前、かぐのみ幼稚園の小関ゼミで知り合った人で、今でも、公募団体展に出品している人に最近の業者情報を聞いたりした。しかし、今は秋である。美術の秋だ。すべて、とても忙しいとのこと。

 何でも屋にも電話をかけたが、これは、電話を盗聴している連中の妨害で、引き受けてもらえなかった。

 こうなると、残る手は、一つだった。大原光孝さんに頼むこと。

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副題7、『大原光孝さんと、私との関係は、1984年から、2000年まではよかった。ところが、2001年を境に、途絶えた。それは、私が、ニューヨークで、美大の大学院へ行ったり、(1999年)、ニューヨーク一古い版画工房の所長、ロバートブラックバーン氏に、高い評価を受けたり、ニューヨーク大学の当時の美術学部長レディクリシュナ氏から、高い評価を受けたりしたからだった。

 大原光孝さんは、最近、立て続けに、土木工事をしている。で、一回目の物置(=アトリエ)取り壊しは、自分のブログとしては、下書きだけで、非公開で、鎌倉市の公金か、政府の官房機密費でやった工事であろうと、書いた。しかし、それで、終わるはずだったが、この7日か、8日にポストに入っている、お知らせによると、石春産業の、引き受けで、新たな工事が始まるそうだ。家の改修だとのこと。
 しかし、奥さんの名義の家だ。奥さんは、ずっと家出をしていて、あの家にはいない。もし、お母さんが、亡くなって、そちらとの、嫁姑の、人間関係が嫌で、家出をしていたのだったら、帰ってくると、仮定して、お母さんが亡くなったのだろうか?
 でも、お母さんの死亡によって、改修するとしたら、壁紙を張り替えるぐらいが関の山で、土木工事ではない。石春産業とは土木または、コンクリート専科だ。不思議なお知らせだった。が、私が、北久里浜に泊まっている日(7日、または、8日)に、このチラシが、届いたことが、ヒントを与えた。つまり、これは、いやがらせだった。石春産業というのは、数々の嫌がらせ行為を過去にやってきた業者で、そこを使うという事は、はっきりと、この工事が、大原光孝さんのお金で、注文を出したものであはなくて、公金であることを示唆していた。むろん、伊藤玄二郎達の発案であろう。

 では、引っかけて、二回も彼のために、50万前後のお金が、CIAエージェントから出るのか?

 それは、私の以下の文章が原因だと、推察している。

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副題8、『下書きメモの一つ、大原さんに手伝いを頼む前の、自分の心境を記したもの』

 英二さんから電話がかかってきて、明日、出が引越しをしてくれるという。それは、ありがたいが、英二さんの体が心配だ。で、彼ら二人は嫌がるとは思ったが、あれこれ、人材を探した。小人の靴がベストだと、考えたが、過去の電話番号がすべて利用できない。実は相模原へ引っ越したとのこと。岩瀬なら、頼みたいが、相模原だとアートンより遠い。

 で、まあ、思い切って花輪さんに電話をかけてみた。昔、花輪さんから、大原さんが、一件、1500円で、何でも屋を引き受けてくれると、言う話を聞いたからだ。しかし、2016年、その形で、食器棚を壊してもらった際に、その後、異様に嫌な事件が起きたので、大原さんには、頼みたくはなかった。大原さんの経済状態を知りたかった。で、アルバイトをしていないという可能性もあるからだ。特にアトリエを鎌倉市のお金で、てっきょしてもらったと思うので、酒井さんからの、お金の流入があるからだ。しかし、花輪さんは、俊足で電話を切った。という事は、腸詰屋でのお嬢さんの、個展、及び、安野さん以来の町内会、当番向けのいじめである、草ぼうぼうの件について、ブログに書いて居ることが、全部正しかったし、お嬢さんが、ブログを読んでいるという可能性が、ぐっと強まった。ともかく、断られたわけで、かつ、強い警戒心とか、嫌悪感を示されたわけだが、それは、或る意味で、花輪さんの立ち位置と、考え方が、はっきりとして、すっきりしたという事だ。それを踏まえてこれ以降行動をとる。それは宗興寺さんのケースと同じ。損をわざと引き受ける。そして、ブログを書く自由を確保する。

 ところで、大原さんを使うかどうか、は、事前に英二さんと相談をしてある。彼は、やめた方がいいといっていた。実際に、花輪さんが、非協力だったので、大原さんを使わないことになったのは、天の采配だろう。2016年食器棚を壊してもらった後で、本当にひどい展開が押し寄せた。植木鉢の怪は彼が、室外機の上の大量の植木鉢を見たことが発想の原点であろう。し。

 ところで、6日、雨が強く降ってきたら、当然に中止となるはずで、そうなったら、英二さんも休養が取れる。または、私みたいに、元気もりもりになっている可能性もあるが、その点については、よくわからない。私の方は、これで、重労働、5日、目だが、ぐんぐん、ニューヨーク時代の再現となっていて体が、動く様になっている。

 はっきり言って、花輪さんに断られたことを、山田さんは、喜んでいるらしい。それを、祝っていて、カーテンを開けて、煌々と、平屋の一階の、東の部屋の電気をつけていた。で、山田さんは、100%警察庁か、神奈川県警勤務だと、判った。それは、ラッキーだ。

 その後、大原さんがダメだと分かったので、里のうどんで、アルバイトをしていたという女流画家を探すが、見つからない。これは、地の利の意味で、一番楽に来てもらえる女性だった。し、女性でも構わない程度の仕事なのだ。ひとえに英二さんが、働かなくても済むように考えての話だから。

 その後、礫時代のお仲間で、今でも大作を描いてる人に電話をかけて、教えてもらうとアートンと、金子兄弟という業者を教えてくれた。金子兄弟に、電話を掛けると、今は、非常に忙しくて明日は無理だと言われる。アートンは知っているだけに、一時間という小さな仕事は頼みにくい。秋の美術のシーズンなので、特に頼みにくい。

 東美の市川さんは、生意気な人で、威張りまくる人で、嫌だが、頼めれば、頼んでもいいのだが、今は藤沢・東美が消えちゃったので、店舗がないと、携帯番号を知らないので、連絡のつけようがない。それに、彼に、この程度の仕事を頼むと、大作家に失礼だと、言われそうだから、頼めない。ともかく、私が、火事場のバカ力を出すほかはない。(苦笑)

 花輪さんが、すぐ誰かに電話をかけたらしくて、前田さん、山田さん、大原さん、平木さんが、大攻撃精神を発露していた。ただ、平木家を確認に行くついでに、井上家を見たが、点灯がない。これは、別の意味で、心配である。

 ここで、五時半になりました。途中ですが、寝ます。

後注1,

【阪急電車、15分の奇跡】が最近放映をされた。その原作について、あなたのご本の盗作ですよと、言ってきた方がある    2022-10-09 20:38:09 | 政治

 

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