銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

私が有名教授の助手になるのを断った理由の一つを、本日急に気が付いた。スタップ細胞疑惑もICU1966年卒と関係があるだろう

2023-03-29 00:44:26 | 政治

  今は、初稿を書き終えて、三時間だけ寝て起きたところです。写真を一枚載せましょう。

 

副題α、『この章の主人公は、日本化学界きってのスターだった、有名な学者です。1961年にハーヴァード大学から、博士号を授与されていて、帰国後NHKTV3chで化学の講義もなさっていました』
 これは、1979年に奥様が編集出版をなさった追想録に載っている写真で、東大構内の、学者の集合写真の一部です。時は1965年ごろで、まさしく、私が三鷹で、ご指導をいただいていたころの写真です。先生は当時33歳でした。すでに、お子様が三人いらして、第三女子寮の舎監もなさっていたので、ご自宅に数人一緒に招かれて、奥様手作りのチーズケーキをごちそうになっていたころです。私は、この先生について、何度も、文章を実名で書いています。しかし、この章だけは、先生が命じられた実験によって、私がどれほどにひどい後遺症に悩まされているかを、相当具体的に語っているので、お名前を伏せます。
 先生の方に悪意はなかったでしょう。しかし、功名心はありました。「これは、NASAで使う目的で、作る新しいプラスチックです」と、実験の目的を最初におっしゃったので、アメリカ化学界でも、トップスターになることを意図していらっしゃったと思います。
 しかし、いわゆる亀の甲=ベンゼン核=の二重結合を切って、そして、そこから新しいプラスチック=重合物=を作ることは、いまだ実用に、帰していません。
 ネットで調べると、・・・・・通産省大阪試験場で、高温高圧下で、できた・・・・・と書いてありました。しかし、庶民が使う形式のプラスチックとはなっていません。トロ箱と、呼ばれるスチロール。透明なパイプを作るビニール。お洋服の原料となるポリエステル程には、社会には、出回っていません。NASAでも、JAXAでも、使っていないでしょう。つまり無理な実験を命じられたというわけです。
::::::::ところで、ここで挿入ですが、池袋で、暴走老人が若いママと幼い女の子をひき殺しました。なかなか、逮捕をされなかったので、・・・上級国民は、ひいきされるのか?・・・と、世間が、糾弾を激しくしたのですが、あの人は、(どこか、所属場所は、わかりませんが)、通産省試験場の所長だった方です。
 ところで、お茶大付属高校の五歳年上の先輩で、私にとって、最上のメンターだった時枝ひろ子さんは、信仰の関係で、井上ひさしに、篭絡をされて、やがて、私を捨てていく人なのですが、通産省・特許庁という霞が関勤務なので、あの暴走老人より、階級としては、偉い立場だったのかもしれないのです。本庁勤務ですから、現場勤務より、官吏の等級としては、より上だった可能性もあるのですよ。
 もし、時枝さんが、いまだに、1990年代と同じ態度で、いてくれたら、私の苦境も、相当に緩和されていたでしょう。美術界における同じ立場だった、水沢勉氏も、離れていくように手配をなされています。でね。仕方がない私は、時枝さんを超える存在=神様=に、直接おすがりをする様になったのです。

 ああ、ぶっちゃけた話を更にすれば、時枝ひろ子さんの旧姓が西大寺です。安倍晋三さん殺しは、私が「旧姓・西大寺さんに、捨てられたことを思い出せよ」と、いまだ生きている井上ひさし等が、考えて、起こした可能性はあるのでした。「その時のつらさを思い出させてやろうぜ」と、鎌倉エージェントの二人が考え出して、中央大学法学部卒の、伊藤玄二郎の方が、山上てつ也の伯父(弁護士)を通じてあれこれ、命令した可能性があります。

・・・・・統一教会への母親の寄付が原因で、元首相を殺すですって。変です。おかしな理屈です。もちろん、嘘の理由でしょう・・・・・とってつけただけの理由です。・・・・・

 その恫喝の、目的は、元の元をたどれば、・・・私のご近所住民、安野智紗夫人・・・を助けたい警察・・・というところに帰着をするので、私が常に、彼女を悪魔呼ばわりするゆえんとなっています。ほかにもいっぱい事例があります。ただし、愛知県の双子転落は、嘘で、あの日の夕方出動した、パトカーや、救急車は、やまゆり園事件と同じく、庶民をだます目的で、出動したのでした。

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副題β、『もう一つ、私は、この章の中で、今まで、秘めていたすさまじい真実を、ほのめかし程度だが、書いている。それは、ピューター製の花瓶が、泥棒の被害に出会って、無くなっていることで、ほぼ正しい推測だと、思われるが、理研・研究員だった笹井芳樹さんが亡くなっている=むろん他殺ですよ=ので、書きにくいことおびただしいのだった』

 ピューターとは、皆様ご存じですか? フランスのアンティーク市場で、手に入ると、wikipedia は、言っています。が、私がある友人(仮名 XXXX氏と呼んでおく)からもらったのは、東南アジアの、どこかの国で近年生産されたピカピカのプラチナ風、または、銀食器風に見えるもので、さびないことが特徴です。その友人とは、横浜国立大学付属中学時代の同期生で、当時、大商社に勤務して居ました。そして、クラス会で、「仕事の関係で、トルコに駐在していて帰国したばかりだ」と、言う話を聞いて、後日自宅を訪問をして、お話を聞いたのです。

 皆様は、トルコというとイスラム国家だと、ばかり、お考えではないですか? しかしシュリーマンがトロイを発見したことがレジェンドになっている様に、ギリシャ・ローマ文明が栄えた土地でもあるのです。国際基督教大学卒の私としては、そこが初期キリスト教の伝道の地でもあることを、旅行に行く、20年は前から、各種の本を読んで、熟知していたのです。その上、XXXX氏から、教えられた最新の知識を携えて、行くのですから、大遺跡エフェソスの真ん中、ハドリアヌス帝の、胸像前で、トルコを口汚くののしる立花隆を叱ったのでした。

 ここで、立花隆との思い出に入っていきそうになりました。しかし、そうなると、スタップ細胞疑惑にたどり着けないので、元へ戻します。

 このXXXX氏が、成岡庸司君(同じく、中学の同期、アメリカ大使館内に住んでいると、私が想像している男性で、今では、CIA側のトップエージェントの一人であろう)に頼まれて、小保方晴子さんの、父親に接触して、小保方さんをリクルートしたと推察しているのです。

 というのもネットで、「小保方晴子さんの、父親が、M商事の韓国支店長だった」と出ていたからです。XXXX氏は、M商事勤務で、ミスター小保方よりも、15歳程度年上の筈です。もし、Mr小保方が早稲田卒だったら、ますます、この想像があたりに近くなります。

 義弟が携わっていた大規模プロジェクトはアンカラ近辺の炭鉱から、交通が便利なところまで、石炭を運ぶ大規模ベルトコンベアーを設立する仕事でした。最初期の五人の日本人のうちに、XXXX氏が、含まれていたのです。しかし、軌道に乗ったら、彼は、帰国をしました。

 でね、私が、1980年かな? 彼の自宅を訪問をして、「エフェソスに行きなさい。そこは、はずさない様に」と、聞いているからこそ、スタップ細胞疑惑の筋書きが書かれたのではないかと、思っているのです。しかし、XXXX君は親切な紳士だからこそ、書きにくいのでした。表立って、いじめてきたことはないのです。ただ、トルコ旅行の詳細を書いている裏には、こういう推理も加味しているのでした。

:::::::なお、聖書、旧訳版には、【エペソ人への手紙】というのがありました。1988年刊の、改定訳版では、新約聖書、352頁に、【エフェソの、信徒への手紙】・・・・・パウロ発・・・・・として出ている、 易しく、また、短くまとめた、教義の、紹介文は、現在のエフェソス遺跡に、ローマ時代に住んでいた人々へあてた手紙という形をとっている文書です。エフェソスは、本当に大きな遺跡でした。::::::::

 という挿入を二章、29日の午前中に、入れてから、28日の深夜書いた初稿のトップに入ります。

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副題1、『私の血管の弁は、全身で、しまりが悪い。それで、1980年に、イスタンブールで、四時間も気絶をしていた』

私は、1965年の春に、国際キリスト教大学の、助手になることが決まっていました。

それは、上司になるはずの、Prof.M氏が、お決めになったことではなくて、化学科の長をなさっていたProf.O氏がお決めになったことでした。

 それは、絶対に重合が無理な物質の重合を命じられたこと・・・・・と、結果討論会の最中に、「それは、僕が、考えることで、あなたが、考えることではない」と、言う雷がおちたことが主な原因だったのです。だが、今日は別の原因にも気が付きました。それを語りたいのですが、また、途中で、たくさん寄り道をします。なお、この雷の時に、先生は、まだ、30代=33歳だったのです。今にして、驚くばかりの、成功の具現者でした。

 この重合が無理な物質とは、芳香族炭化水素といって、ベンゼン核を含む物質で、キシレン、トルエン、ナフサといって、今では、体に悪いことが、証明をされています。それを毎晩500㏄使うのですが、装置に無理があって、突沸という現象が起きて、実験室に悪いガスが、充満するのです。実験室には、私しかいなくてね。証明する人間がいないのですが、

 体中の血管にある弁が、瞬時には、閉まらない状態になっていて、実際にトルコのイスタンブールでは、死に瀕するのです。シェラトンホテルという高級なところに泊まっていた上に、ルームサービスにイエスと、言ったまま、気絶したので、ボーイが、おかしいと思って合いかぎを使ってくれて、意識不明な私を発見したのでした。

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副題2,『私は、長女を虐待に近いほど、しかりつける義妹が嫌いである。(実際に義弟は、一時期、祖母に当たる、自分の母に長女を預けていた) そして、長女は、大学を卒業したらアメリカで、就職し、アメリカで、結婚をした。

 また、義妹は、周辺の人に影響を受けやすくて、駐在員生活で、ブランド大好きなぜいたく志向も身に着けたので、それも、嫌いな原因だった』

 主人は、弟夫婦とロビーにいたのでした。わたくしは、自分の子供に対する偏愛の人である、義妹が大っ嫌いで、合計六人で、一台の車で、旅行をすると、言う計画を、勝手に主人が決めてしまったので、主人と大喧嘩をしていたのです。

 それに、まだ、小学生だった、二人の自分の子供と猫を日本に置いて、夫婦だけで、トルコに個人旅行に行くというのも、私としては大反対でした。が、主人の弟が、日本、トルコ間の、大プロジェクトの、五人の日本人・リーダーの一人なので、超優遇をされている、今、「豪遊ができるので、行こう」と、言うのが主人の考えだったのです。「特に招待をされているのだから、乗らないというのはない」と、言うのが建前でした。

 主人というのは、絶対に譲らない人なのです。その後、2016年に心筋梗塞になったときに見舞いに来た、主人の長兄が、「千恵子さんも大変でしょう。あいつは、思い込みが激しいので」と言ってくれて、やっと、45年間の苦しみの癒しを得られました。

 世間の人は、私の方が出来が悪いと思っていますが、違うのですよ。わたくしの方が、我慢我慢の歳月です。

 この計画が決まってから、二週間で、私は疲労困憊です。だって、猫やら、子供をどこに預けますか? 娘は学校主催のキャンプに行く予定があって、その送迎は、実の親がしないといけないのですよ。誰に頼みますか? しかも義妹は、これを買ってきてくださいと、生ものを大量に注文をしてきたのです。それもブランドが決まっている。

 スジャータの生クリーム、京都、どこそこの、千枚漬け、豊橋、どこそこの、八丁味噌、など、など。

 北久里浜には、売っていません。横浜高島屋で、買ってきます。しかし、スジャータの生クリームは、横浜高島屋でも、売っていませんでした。どうして、駐在員マダムの間で、人気が高いかというと、多分、植物性です。だから、ヘルシーだと、言う事で、人気が高いのでした。しかし、私に言わせるとですね。それって、マーガリンになる前の、液状の油脂でしかないのです。

 体重50キログラムの人が、週に一度、または、月に一度、植物製の生クリームを牛乳製の生クリームの代わりに食べるんですって。人間が、一週間で、摂取する食物の総量を考えてみましょう。一日に飲み物を入れれば、優に、二キロ程度の食品を採ります。ひと箱の生クリームで、油脂固形成分は、100gに満たないです。47%の牛乳製でも、全体で、90㏄の筈ですから。

 だから、一週間で、1%の差です。日本から、わざわざ買ってきてくださいと、頼まれるのだから、一週間に一度食べるなんて言う事あり得ず、半年に一回ぐらいでしょう。それは、0.0001%の差ぐらいでしかないです。

 たまたま、義妹は、四大卒ではないのです。しかし、駐在員マダムって、大卒が多いでしょう。だから、奈良県出身で、そこにすでに、引け目を感じている義妹は、ひたすら、先輩マダムに、なびいてしまうのです。化学科出身の私にとっては、ばかばかしい事限りがないのです。今、改めてネットで確認をすると、やはり、スジャータの生クリームは、植物製でした。

スジャータホイップ

植物性脂肪で後味があっさりしていて、食べやすく、なめらかな口当たりです。 原材料, 植物油脂(国内製造)、乳製品/乳化剤、メタリン ...
 
 さて、意地悪だと、思われても構いません。私は、化学科卒だから、ばかばかしくてたまらないけれど、主人には、トルコに行くか、どうかで、喧嘩をしている最中だから、この生クリーム問題は、低次元の話となって、語り合うチャンスもないのでした。

前夜まで、冷蔵庫に入れておいて、当日の朝、スーツケースに入れなおします。結露しますよね。なんという苦労でしょう。『なんで、こんなものを頼んでくるのです。わたくしは、あなたの母親じゃあないのよ。どうして、これほどの苦労をさせられるのですか?』、 と、思うけれど、主人が、勝手に、トルコからの電話を受けて、相手の、言うことをはいはいと、聞いてしまうのです。実際の準備をするのは妻なのに、全く意見を入れてくれません。

 彼は、妻よりも他人にいい顔をする人間です。でね、イスタンブールについても、むろん私の方は、寝られません。朝の四時にはベッドを出て、ガラタ橋付近の、夜景を眺めていました。すると主人が起きだしてきて、「むろん、一緒に旅行をするよね」というので、「いいえ、絶対にしません」といいました。

 どうしてかというと前夜、義妹にあっています。下唇をとんがらかせて、コケットリー一杯です。あのね、彼女は、ある意味で、賢いのでしょう。自分より、力がある人に、どういう風に思われるかについては、自然に計算できて、上手にふるまえるのです。だから、姑の評価は高いです。だけど、姑たちが、彼女の家に泊まるのは、一日か、二日が限度です。しかし、我が家では、両親は、一週間以上逗留します。義父が、「千恵子さんって、慈母観音みたいじゃのー」と言ってくれたけれど、おむつを替えたりするのは私だけで、義妹は、お菓子やフルーツを持って行って、看護日記に記帳をするだけです。義父は、手すりに手を包帯で、縛り付けられているので、それは、おむつを外すからだろうと思って、うんちのおむつを取り替えてあげました。

 ともかく、私というのは、そばにいて、本当に問題がない人なのです。安心できる人です。義妹を有名人で表せば、ナポレオンのお・きさき・ジョゼフィーヌに、相当すると言ったら、当たっているかもしれません。

 主人は、追い詰められたらしくて、体力の限りを尽くして、言うことを聞かせようとしました。後で、腕に青あざができていましたよ。

 でも、言うことを聞きません。というのも、この後、二、三日のうちに、以下の様なことになるのが目に見えていたからです。彼女は、結構気が強いです。だから、私の気分は、当然察していて、どこかの観光地で、義弟に、「ねえ、先に出発しちゃいましょうよ。お姉さんが、生意気で、冷たくていやだから、懲らしめたい」と、提案する可能性があるのでした。いたずらのつもりでしょう。だけど、これは、1981年ごろの話で、携帯は無論ないです。それから、公衆電話ボックスなんて、トルコにはないです。タクシーもないです。路線バスもないです。そして、自動販売機がないです。暑い、暑い、8月のトルコで、のどが渇いて死ぬ思いの数時間を過ごさないといけないことになります。

 彼女は、私のことを、「なんて、不愛想で、いやな人かしら」と思っているでしょう。だけど、私は、一種の大賢は大愚に似たりというタイプなのです。人を面と向かって批判はしませんよ。だけど、自分を守るすべが何かは、知っていて、彼女と一緒の旅行など、絶対にできないと、思っているのです。三時間程度一緒に過ごすのは、できます。しかし、それ以上の時間を一緒に過ごすのは、無理です。

 それは、終始一貫して変わりません。主人が、常識を優先しすぎるのでした。こんなうまい話に乗らないなんて馬鹿だと、言うのが主人の常識です。

 なお、数年後、義妹は、サラ金に手を出します。それが、700万円に達したころ、義弟が、主人に、「低い金利で、銀行から借りて、それで、肩代わりをしてくれないか?」と、申し出でてきました。私は絶対に嫌だと、言いました。銀行って、こういう理由では、700万円も貸してくれないと思います。だけど、これが、CIAの画策で、私たちを苦しめる手立ての一つだったら、

 この鎌倉雪ノ下の家を担保にして、700万円を出してくれ、結局のところ、私たちは、自分の住む家を失ったと、思います。元のイスタンブールシェラトン・ホテル内の朝に戻ります。

 で、朝の四時から、8時まで、喧嘩をした挙句に、「私は、食堂にはいきませんよ。あなた一人でいって。わたくしは、ルームサービスをとるから」と言って、送り出しました。その時の私の希望としては、この二つの家族が、一台の車で、旅行をするという案を、主人が、蹴ってくれることが望みでしたが、もう、それを、口には出しませんでした。

 で、ルームサービスが着いたとたんに、激しいレベルの立ち眩みが起きて、気絶をしたというわけです。

 この時に義弟が頼んでくれたホテルが、トルコ、一、当時は、高級であっただろう、シェラトンであることが幸いをしました。だから、働いている人間がボーイであっても、質が高い青年だったのです。四時間後、蘇生して気が付いたときに、その青年が、窓のそばに立っていて、窓が開いていたので、そう感じます。シェラトンホテル・イスタンブールのガラタ橋方向の窓って、がけも加えると、目もくらむ様な高さで、地上から屹立しているから、お客には開けられない様になっているのでした。特殊な道具を持ってきて開けたのだと、思います。酸素吸入の代わりで、役に立つはずだと思ってくれたのだと、感じます。

 そして、大きいホテルだから、医事部門があるのか、それともお医者さんをすぐ呼べる体制になっているのか? 私は、四時間後、意識が戻りました。そして、血圧はいくらでしょう?と聞くと、「four to eightです」という答えでした。これは、日本式に直すと、たぶん、40~80のことだと、思います。

 で、部屋の中に、大勢の白衣の人が詰めている段階で、主人が帰ってきて、そりゃあ、びっくりした模様です。

 しかし、この私が、命云々という騒ぎを起こしたことで、義弟夫婦に、断る理由ができて、主人もメンツが立ったようです。

 「僕たちは、千恵子が、体が弱いので、ゆっくり旅するよ。一つの街に二日ぐらい泊まってね。だから、二人は先に行って」と、頼むことができたからです。

 私は、今は、背中が曲がっていて、弱そうに見えますが、41年前の当時は、外見は、全く普通で、内臓もどこかが、腐っている(=膿んでいる。または、腫瘍になっていて)、体臭が、臭うということもありません。だから、一見すると普通ですが、普通の人の二分の一か三分の一の体力しかありません。だから、だれかと一緒にする仕事は、なんでも断ります。チャンスは、バシバシ、逃しますが、それは、他人には、理解不可能で、臆病だとか、怠け者だと、誤解をされているでしょう。だけど甘んじて、その誤解を受けています。

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副題3,『新しい気づき・・・・・それは、まじめ人間同士が、同じ空間を共有すると、必ず、破綻が起きるのだと、言う事だった。それを、58年前に、すでに、私は、気が付いていたのだろう』

 ここで、やっと本日の新しい気づきに入ります。それはね。わたくしが断ったのには、潜在意識からの声が聞こえたからであろうと、言う点です。それは、先生と私に似た部分があるという点で、それゆえに、二人で、共同作業をすると、いずれ、ぶつかり、どちらかが、つぶれることとなり、それは、私の方であると、言う部分です。あのね、金属と金属がぶつかり合うと、きしむでしょう。そういうことです。

 私に雷が落ちてきた日に、先生の研究室には、合計四人の人間がいました。わたくし以外の二人の女性は、すでに助手になっている人で、その一人25歳ぐらいの、人が、近々、寿退職をする予定であり、その後釜として、私が採用される予定になっていたのです。そのお嬢様ですが、ご本人も、富裕層の出でしょうが、結婚相手がすごいのです。山手線のある駅前ロータリーに、面したビルを持っている家のお坊ちゃまです。多分テナント料の収入がすごい・・・・・そういうタイプのお坊ちゃまです。

 彼女がある日、「彼ったら、寅さん映画がだいすきなのよ」って、研究室で、言っていたので、ひどく驚きました。やがて、寅さん映画の評価は上がってくるのですが、1960年代って、まだ、『やくざが主役の映画だから、ICU卒業生が、どうして好きなのかしら?』と、私はいぶかしく思ったものです。そして、『ずいぶん警戒心のないお嬢様だなあ』とも、思いました。わたくしは入学時に、「あなたのお父様は、納税者として日本の上位6%以内に入っています。だから、入学試験上位20位以内の人にあげられる、奨学金は上げられませんと、言われました。まあ、たぶん、お金で、できることはいっぱいあって、海外旅行などは、両親は、自由にしていましたが、それでも、両親から下ってくる、処世上の、注意がいっぱいあって、私には、自由度はなかったのです。

 目の前にいる先輩助手の、自由度がまぶしかったし、と、同時に、軽い人なのだなあとも思いました。だから、がっち、がっち、まじめな、先生と、うまくやっていけるのだろうと、思いました。上の写真をご覧ください。姿勢がまっすぐですよね。そして、お顔も、真っすぐです。

 先生は、2年後、ICUを、おさりになります。

 なんとなく、風の便りに真実が伝わって、ICUに居づらくなったと、言ううわさでした。わたくしはあの雷の落ちた日に、同室にいた、二歳年上のお嬢様・先輩・助手がその雷を、見ていて、だれかに、「だから、あの子(イコール千恵子のこと)って、逃げたのよ」と、言う話をしたのではないかなと、思っています。そこから外へ漏れ出たのではないかなあ

 ただ、学者の世界にも嫉妬っていうものがあるのですよ。先生は、同僚たちから、嫉妬されていたと、感じます。

 それと先生の雷は、わたくし以外にも落ちていた可能性があります。先生は、思いがけない年齢(=44歳)で、事故によって亡くなり、ICUチャペルで、大きな、お葬式が、行こなわれました。が、その時の弔辞に、先生の弱点を知っているものの話みたいな趣があって、それを聞いていて、ちっとも先生を悼んでいないぞ、私がマイクを奪いたいと思ったほどでした。

 私は、先生ともっと親しく話し合いたかったと思っています。そして、自分が助手を辞退したことを、大きなことだったとは、全く思っておらず、「結婚式に来てください」とお願いに行って、快諾をしていただいて、立派で、あたたかいスピーチをいただいています。

 あの時に、同室にいた、もう、ひとり別の、最も若い女性助手から、その後、「あなたって、本当に・ねんね・なのだから」と言われたことがあるのですが、無自覚にして、先生の人生に、大きな波紋を起こした人間だったかもしれません。

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 ところで、先生の転籍先とは、都立大学です。都立大学は、国公立大学の一つで、知名度が高いです。だから、お子様方が、就活やら、婚活で、父の職歴を書くときに、相手方に、ICUより、わかってもらいやすいと、思います。

 ところで、宮台教授襲撃事件ですが、あれが、もし、私が今書いている事案の、応用編として起きたのだったら、双子転落と同じく、私を嫌がらせによって、委縮させようとする事件です。まあ、それは、まだ、そこまでの、真偽は、わからない段階だと、言っておきましょう。

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 ところで、1965年には、先生の下に、私と、三輪喜久代さんと館野ひろおちゃんが、学んでいました。二人とも、ずっと、簡単に、実験が終わる化学反応を与えられていて、実験は成功し、英語で、論文を書いています。それは、先生と共著の形で、日本化学会・会誌に載って、その結果、日本化学会会員に、推挙されていると思います。

 今は、ロンドン在住の三輪喜久代さんが、おぼかた、…トンデモ…(ない、)・・・・・論文を、NANATUREに、押し込んだのですが、単に英語が堪能な、高齢女性が、推奨しているというだけでは、NATUREは、動かなかったと思います。が、彼女の、日本化学会会員という資格が、箔をつけたのです。

 それが、小保方スタップ細胞疑惑の始まりであり、それが、タイ私への嫌がらせと、ひっかけだったと、証明する、一つの、筋となります.

【蛇足1】

 トルコで、立花隆を叱る。

私は、当時はテレビを見ない主義の人だったので、立花隆の顔を知りませんでした。ただ、貧乏な日本人バックパッカーだと扱ったのです。彼は、田中角栄追い落としで、大成功をしていたのですが、やはり、気がとがめたのでしょうね。トルコ旅行をして心機一転を図りたかったのです。彼があまりに強くトルコの悪口を言うので、あなたはトルコ語ができないのですか?と聞くとできないのだそうです。で、英語は?と聞くとそれもできないのだそうです。

 この先は、時間が出来たら書きます。

『エーゲ 永遠回帰の海』須田慎太郎(写真)、書籍情報社、2005年、ちくま文庫、2020年

 


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