この章は、前報、(後注1)に続く文章です。で、副題が7から始まります。今、12日の午後6時に推敲が終わったので、恒例の△印を、総タイトルの横につけておきます。ところで、この文章は、最初のタイトルを、『横尾忠則と、島田章三なら、どっちが上?』と、しておきましたが、12日の夜九時に総タイトルを変えました。
副題7、『新垣隆と、長瀬いずみ(国画会・準会員)が、私の脳内スイッチを、入れた』
副題8、『横尾忠則は、すでに58年も、活動を、続けているのだった』
副題9、『あの破天荒な作風の横尾忠則でさえ、世間に漂う、不文律の縛りからは自由ではなかったのだ』
副題10、『横尾忠則が、感じていたであろう、無言の圧力』
副題11、『実際に、国画会内部で、イラストレーターに対する軽蔑の言葉を聞いた』
副題12、『国画会のキムヨナ、指原いく子さん』
副題13、『公募団体展内の、出世の仕組み』
副題14、『ギャラリーオカベの全壁面を、山寺重子の模倣作品で埋め尽くした、指原いく子』
副題15、『長瀬いずみに言いたいです。日本って、三すくみの社会だから、絶対に礼儀を尽くさないといけないのですよと』
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副題7、『新垣隆と、長瀬いずみ(国画会・準会員)が、私の脳内スイッチを、入れた』
今回大騒ぎになっている、新垣さんの告白ほど、音楽業界内部における、不文律としての対立を明らかにしたものはありません。
でね、これは、種々の条件が重なって起きた、大変珍しいチャンスだと思いました。何事も業界内部での争いは、外部には出てきません。だけど、今回だけは出てきたのです。そう言う不文律に基づいた争いは、無論のこと美術界にもあります。だけど、そう言う争いを語れば、美術界全体のレベルが低くなります。でも、本日から、相当奥深いことを語ろうと決意いたしました。五年ぐらい前から、ありとあらゆることを遺書として書くと、心に決めておりましたが、それでも、自己へ30%の規制はかけていたのです。
だけど、それをはずしてしまう人物が出てきました。長瀬いずみさんと言う国画会の準会員です。彼女が画廊るたんの芳名帖用デスクの前で、2014年1月13日にやった事と いったら、人を人とも思わない行動です。私は無論怒っています。だけど、彼女の目の前で、それを注意したりはしておりません。
だけど、その情報が銀座中に、すっかり伝わっているのは、銀座の画廊めぐりをしていると、ほとほとわかります。それなら、それから、時間が十分に有ったのだから、菓子折りでも、鎌倉雪ノ下に持ってきて、謝罪をしてくれればよかったのです。だが、それが無いので、語り始めます。本日だけでは終わらない筈ですが、美術界における不文律を伴った対立のことです。まずそこから、そして、国画会の実質的トップの島田章三さんへと入って行くでしょう。それは、大沼嘉津江さんに入り、杉本正子さんに入り、そして、瀬島隆三に入って行くでしょう。そうなると美術界でのいじめが、政治に基づいている事が明白に語れることとなります。長瀬いずみとは、まことに、ありがたい人物でした。
私は常に皆様に説いています。「外へ出たら、東京圏に暮らすものとして、必ず他人を平等に扱い、礼儀を失しないように」と。 大体基本的に言っても、個展をしている作家は、お客に対して失礼なことをしてはいけません。芸術とは川下中の川下の分野であって、人が生存するためのベースの必要度が低いのです。だから、芸術以外の分野に所属するかもしれない人である、お客に対して、失礼なことをやってはいけません。
それなのに、長瀬いずみさんは、私が国画会を辞めた人間だといったとたんに、自分がものすごく上だと思い込んだらしいのです。公募団体展って、そう言う意識を内部で抱きやすいみたいですね。足抜けをした人間をいじめる、ちょっと、花街とか、やくざの世界に通じる趣がある。
だけど、公募団体展に所属しない画家も日本にはたくさんいるし、公募団体展だって、数多くあるのですよ。まあ、国画会は芸大派閥が強くて、レベルは高いとはいえますが、そのたった一つの中の上下関係に依拠して他人を人間扱いしないとは、長瀬いずみとは、遮眼帯をかけた馬みたいな状態になっています。結果として、『おつむの中が、ひどく軽いし、何も社会の実相を知らないのだな』と、私に判断をされてしまっています。
その上、日本は三すくみの社会ですから、彼女にしてみれば雲の上の存在であろう、島田章三先生・・・・・を、横須賀市のお金の使い方において、断罪できる私は、その一面において、島田章三先生・・・・・・より強いのですよ。そんなことを何も知らないくせに、ちゃらちゃらと、威張りまくる。見ていて本当に恥ずかしい人間でした。
で、美術界の不文律に拠る対立とは何だと言うと、第一に挙げられるのは、イラストレーターなどデザイン部門出身の人と、油絵科出身の人との対立があげられます。ほかに、美大を出ていない人と、美大を出ている人の対立があります。音大を卒業していなくても立派な 音楽を作り出せる人間がいる様に、美大を出ていなくても美術家として有名な人はいるのです。その代表例として、横尾忠則を上げてみましょう。
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副題8、『横尾忠則は、すでに58年も、活動を、続けているのだった』
私が自分で本を出版し始めて、3年目に入り、三冊の本が出版できた後のことです。内容はいいと言われました。特に大勢の人から。特にインテリと思しき方か ら。ところが、インテリだからこそ、自分の本をすでに出版している人がいて、そう言う人から注意されたこととして、「あなた!、(こんなに一生懸命やっていても)メディアに乗ら ないと駄目なのよ」と、言われたものです。
で、今はすでに、71歳になってしまって、まだ、メディアに乗っていないわけですが、それを 残 念だと感じるよりも、それを逆手にとって、非常に独自な世界を確立したと言うことで、まあ、自己満足をして生きているわけですが、10年ぐらい前までは、 何とか、大メディアに乗りたいと思っていました。で、どうしたら、それが、できるかと考えたわけですが、一般論として言えば、
*1)、賞を取って、ブレイクする。(この前松本成長賞をとった、山口恵似子さんが、まさしくそう言う例ですね。平野啓一郎さんの芥川賞もそれに当たる)
*2)、東大を卒業する。または、芸大を卒業する。
*3)、親または、親戚がすでに偉い立場の人間としてマスメディア界につてがあり、顔が利く。
*4)、若いとき、特に結婚をしていない時期に、すでに、ブレイクをしてしまう。(宇野千代さんのように、仕事で、関係した異性とは、全部寝てしまう)
*5)、若いときに、しかるべき街に住んでいて、そこで、酒場とか、バー仲間として、有力なコネを作る。
などが、ある事を、理解ができるようになりました。でも、自分にはどれも、間に合わない上に、敵がいるわけですね。『うっ。こりゃあ、 無理だ』と、諦らめて、路線変更をして生きてるわけです。自分ができる事だけをやる・・・・・と、覚悟をして生きています。
で、最後の、住んでいる街がもたらす出世ですが、浅草を中心とするのが、井上ひさしや、びーとたけし、などであって、やや、野暮ったい人材を輩出していま す。つまり、『親世代は、貧乏でしたね』と、言う雰囲気の人々。そう言う人たちの出世を約束する場所でしょう。次に、テレビに顔を曝さないタイプの、もの書きの 養成場所として は、新宿も重用だったらしい。
次に六本木や、赤坂を中心とするのが、伊集院静とか、高野孟、三枝成彰などで、おしゃれ度の高い人物がいます。最後に表参道や、青山、原宿を中心とする、人々がいて、世代が若く、さらにおしゃれなタイプが、集っていると、私は見ています。
で、画家としては、突出してメディアからの注文も多いし、メディアで話題に上ることも多い、横尾忠則を、『きっと、六本木あたりで、遊泳した人だか ら、ここまで、ブレイクをしているのよ。親が金持ちだったから、遊ぶお金を出してもらったのでしょうね』と思っていたのです。私は物を書くのにあたって、 他人の情報をベースにするのは嫌なので、文章の組み立ての大体ができた後で、生年月日を知るために、wikipediaを開くのですが、この2014年2 月5日に初めて横尾忠則の、wikipedia を開いて、1936年生まれだと知ってびっくりしました。私は彼を、私よりずっと年上だと、勘違いしていました。『たった、6歳しか年が離れていないの だ』と知って、却ってびっくりです。
この勘違いがどこから来るかというと、横尾さんの活動歴が長いからでした。氏は18歳のときに広告会社に勤めはじめて、そこから、ずっと仕事をし続けているので、すでに、58年の活動歴があるプロだったわけです。そして、 上に挙げた条件のうち、*3) と、*4)が当てはまる人でにあるでしょう。若い日の結婚はありますが、男性の場合は、結婚は足かせにはならず、かえってサポートになるくらいなので、氏のブレイクの邪魔にはなりません。
その上、最初の会社が広告会社です。しかも、次に、たった四年勤務で、新聞社に引き抜かれています。これは、 両方とも、メディアに、作家として乗りやすいルートであり、さらに4年後に、銀座の広告会社に、転職しています。その時に26歳。すべての転職の際に、誰か が、 引いてくれたと思われるので、ものすごく運がいいわけです。この、年上の人にかわいがられると言うのは、小さいときに、おじの家に養子に行って、しかもか わいがられたということが、影響がしているのかもしれません。
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副題9、『あの破天荒な作風の横尾忠則でさえ、世間に漂う、不文律の縛りからは自由ではなかったのだ』
横尾忠則のイラストは、今までになかった破天荒さを見せています。色彩的には、日本的な、侘びさびの世界とも無縁です。また、それは、新制作展に見られるような、白を多用した、モダンさとも無縁です。派手な色彩を用いて、しかも、はっきりと輪郭を伴って描かれた極彩色の、似顔絵風なイラスト。あまりに簡単にまとめすぎるようですが、それは、氏が、美大を出ていないからこそ、生まれた作風でしょう。アカデミズムの縛りを受けていないのです。
前報では、音楽の世界におけるアカデミズムがもたらす縛りというのに触れています。ところで、これなのですが、無論、美術の世界にもあります。
それを感じ取って、両方の世界を征服しようとした顕著な例が、横尾忠則の人生軌跡です。せっかく、アカデミズムから自由に羽ばたいていた横尾ワールドが、油絵宣言で、まったく逆転をするのです。
私はかねてより、天才の活動期間は、18年だと言う説を採っています。58年間も、プロとして、活動をし続けてきた横尾忠則が、路線変更をするのはありです。だけど、それが、草間みたいに、小説を、主にとか、突然大量の鏡を使う立体へ変化すると言う方向でもなくて、油絵だったこと。・・・・・に、大きな意味を見出すのが、私です。草間の場合は、より刺激的な新しい方向でした。より派手になっています。ところが、横尾の場合はより地味に、かつ、より古っぽく、なって行くのです。それがとても珍しい。
その油絵は、種々の波があり、最近で、記憶にあるのは、故郷西脇の思い出の風景、『Y字路』を、連作していると言うこと。そして、そこから始まって、全国のY字路を、テーマとして探して歩いたとの事です。そして、その作品の色が、混色のきわみで、どんよりと暗いこと。
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副題10、『横尾忠則が、感じていたであろう、無言の圧力』
私はwikipediaを見ないようにしているので、横尾忠則が、美大を出ていない事も知らなかったし、36歳で、NYのMOMAで個展をしている事も知りませんでした。しかし、天才の活動は、18年周期で、変わると言うか、終わると見ている私 はニューヨークの個展は、横尾の活動開始18年目です。そこが、ひとつの山場となって、次のステージに行きたいと、いう思いが芽生えたと、推察します。
この頃から、既に、辻惟雄さんと、お付き合いが、あったのかな? その紹介だったのだろうか? 銀座(京橋)を含む画廊の中で、トップクラスの一つである 南天子画廊で、46歳で、個展をします。ペインティング専門であって、この時が、「横尾忠則の画家宣言」と言われているそうです。ところが、私は子供が 思春期であったので、この時の情報には気が付かず、その後で、第二波として、Y字路の連作が創作され、それが新聞などのメディアで、大きくとりあげられたころに、やっと、気が付くのですが、
FINE ARTS (純粋美術という英語で、日本でいう油絵科とか、日本画科という部門、および、彫刻や版画などを、含む)と、
それ以外のお金になりやすい、美術部門(建築科、イラストレーター養成部門を含む、デザイン科、アニメ作家養成科、ITデザイン学科、映画、映像専科)などの、方面に従事している人間との間には、言葉では表現されていないが、不文律としての、明瞭な対立があるのです。
建築学科だけは、美術大学よりも、一般大学の工学部に所属するケースが多いので、ちょっと、外れていて、真っ向からの対立をもたらさないのですが、FIME ARTSの出身者と、(大きくくくると)デザイン科と呼ばれる部門に所属する人間との間には、激しい対立と、競争心があるのです。どちらが上なのか? と言うポイントに関してです。
普通の人はエネルギーが少ないし、人的コネも不十分だし、お金も無いので、どちらかを、17歳ぐらいに選ぶと、一生をそちらの分野ですごすのですが、
横尾忠則は、エネルギーレベルが高かったと思われ、両方の分野を制覇しようと試みた模様です。だが、彼が、美大出身の画家たちの無言の圧力を感じていなければ、彼独特のカラフルな世界を油絵にも、応用したと思われるのに、彼は油絵の具を使うと、白抜きの画面ではなくて、べったりと油絵の具が塗りたくられている、古いタイプの具象画を描き、かつ、そこに利用されている色彩は、暗い混色が多いのでした。
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副題11、『実際に、国画会内部で、イラストレーターに対する軽蔑の言葉を聞いた』
上で、長瀬いずみさんが、私を徹底的に馬鹿にしたと語っています。彼女は、私が国画会に、油絵も版画も出さなくなった、2004年以降に国画会へ、作品を出品し始めたらしいので、私の事を人間としても作品としても、見た事も無かった模様です。が、私は、1991年から、そちらへ出品をはじめ、途中で版画も始めたので、時には、両方、時には、版画だけ、時には、油絵だけという形で、どちらかで、出品を続けていたのでした。だから、パーティには、13回連続出席をしていて、上野の精養軒の大舞台で、独唱をしたりした事もあり、相当に顔を売っていたはずなのですが、チラッとも知らなかった模様です。
画廊るたんにオーナー中島さんが、私を一生懸命いじめるのは、裏で、赤津ただしさんが、控えているからだと思いますが、・・・・・赤津さんが銀座で、私の悪口を触れ回っているのは、有名な話で、私も聞き及んでおります。・・・・・・その赤津さんが、私に、面と向かっては、『あんたは筆力があるからね』というほどの私に、証拠を残す形で、しかも面前で、失礼な事をするとは、長瀬いずみさんは、『川崎千恵子を知らないのは、銀座ではもぐりだ』の典型だったでしょう。
しかし、今では、覚悟を決めている私も、1990年代には、ずっと弱腰でした。特に10年間、画家としては、休息をしていましたので。子育てのためです。中学期が一番難しいと思います。
で、私はそう言う点で、すでに、自己犠牲を果たしているので、一之瀬智恵乎さんに対しては、厳しいのです。見ているとふわふわしすぎているばかりか、子供に対してやるべき事を、何もやっていないのに、母である事を、一種の勲章としているから、『これは、将来、とんでもないことが起きるでしょう』と、8年ぐらい前から、感じ続けていたからでした。彼女は作業としても手抜気が多かったが、それでも、大丈夫だと思う傲慢さに対する神様のお叱りというのもあるのですよ。母であることについては、とても、厳しい義務があるのです。真剣に取り組まないといけないのです。片手間仕事ではできないことです。ただ単に『体が、大きくなったから、無事に成長をしている』と思ってはいけないのです。やっていい事と、やってはいけない事を、本人に、心から理解をさせて置かないといけないのです。で、三鷹ストーカー事件から元へ戻ります。
で、弱腰ですから、すでに会員になっている、『先生と呼ばれている』人たちに批評を仰ぎました。これは、どんな公募団体展でも行われているシステムです。すると、ある人が、『その傾向を強めると、イラストになっちゃうからね』と言ったのです。
その時にあまりに驚いたので、相手が誰だったか覚えておりません。つまり、描く事の根幹に、不自由な縛りをかけようとする態度だったから、『なんと言う低劣な、助言だろう』と、思ったからです。
私の方ですが、よく、相似については触れます。銀座である作品を見た時に、「このアイデアは、誰それさんが、すでに、やっていた」と、よく言います。すると、相手は気を悪くし、顔色が変わる場合もあります。だが、後で、そちらの作家から「模倣をされた」といわれるより、事前に、後発の人の方が、その点を、確認をして置いた方がいいのです。似ているところを発見したら、後発の人の方が、黙ってアイデアを引っ込めておいた方がいいからです。その方が美術家として気高いし、とるべき方向です。
種子と、その発芽を使った作品がありました。それは、本人は、『いいアイデアを見つけた』と得意になっている模様でしたが、すでに1990年代から、それを、試みている人が、他に、います。そういう場合、後発の人は気をつけないといけません。だから、実際は、高度な親切なのです。
それに比べて、『その傾向を強めると、イラストになっちゃうよ』という批評はどうだろう。似たもの同士だろうか? しかし、私は、『駄目だ。ここ』と感じました。私は無論、顔色を変えたりはしません。だけど、音声で語る言葉よりは、ずっと深い事を心の中で考えているのです。
イラストを油絵より下に置く発想は、『なんか、狭量だな』と感じたのです。しかし、上野の都美館で、それを発言した人は、それに疑いを、いちごうも持っていませんでした。あのね、皆さん、素人の方は、日展が一番だと思っているでしょう。それから二科展も知名度が高いです。しかし、私が上野に出品する前、選択のために、数年間すべてを見た結果において、1980年代では、油絵(玄人は平面という)に関しては、
新制作が、100点とすると、国画が、95点、独立が、90点、春陽、行動、二紀、が85点、日展は70点というぐらいの配分で、国画会の質は高かったのです。それでも、そう言う具合で、自由度が無いのでした。ともかく、当時の国画会会員は、イラストレーターを下に置いて見ていたと感じます。
なお、会派のレベルというのは、流動的であって、上に挙げたランク付けは、あくまでも、1980年代のものです。最近、独立、二紀、行動は大きく伸びていますので、ランクの入れ替わりはあるでしょう。特に国画会は、盗作問題を起こしています。芸大出身で、愛知県で、大学教授をしていたW(?)とかいう人でしたね。イタリアの具象作家の絵、そのままを引き写していたのです。それは、マイナスだったと思います。
ただ、私がここで、こんなランクを上げたのは明瞭な目的があるからです。1980年代か1990年代にかけて、絵を好きな人間にとって国画会というのは相当に権威があったといいたいのです。学閥も芸大が圧倒的に強いところでしたから。そう言う権威がある団体の中で、イラストレーターを下に置くムードが、蔓延していたという事です。
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副題12、『国画会のキムヨナ、指原いく子さん』
私が国画会に絵や版画を出品していたころ、付き合った女性の中で、『この人は立派で、ございます』と思った作家が四人います。安藤れい子さん、藤岡れい子さん、進藤裕代さん、村田純江さん。
この4人は作品も人間性も優れた人です。後、作品がいいのは、島田鮎子さんですが、島田章三さんの奥さんなので、近づこうとしませんでした。私は、島田章三さんの実妹である大沼嘉津江さんと、PTAの広報委員として、一年間、毎週、3時間付き合っていて、彼女が兄を語るのを聞いているので、島田章三さんは、すっかり嫌いになっていたし、奥様を、支配しきっていて、奥様が幸せそうではないのにも気が付いているから、触れないのです。
ところで、実妹の大沼嘉津江さんは兄の悪口を言ったわけではないのですよ。兄が偉い人だと信じきっていて、兄をほめまくっていたのです。だが、それを聞いていると、私なんか、まったく違った判断をします。『島田章三さんって、ずいぶん利己的な人だなあ』とか、『ずいぶん、上昇志向が強い人だなあ』と気が付いてしまいます。
島田章三さんや、大沼嘉津江さんの二人から感じ取れることは、歌人であったと言う母君に問題点があったのだろうと言うことです。歌集を出したインテリ夫人だったかもしれない。だけど、本当の意味で、よい母だったかどうかは疑わしい。
母として子供に教えるべき事は、もっと違うはずだと、私は感じています。一之瀬智恵乎さんは、母として、殺害された沙彩チャンを、心の面で、何も育てていなかったわけです。
島田章三さんは、犯罪の被害者ではありません。むしろ、国画会の実質的トップとして、美術界に君臨をしている方だけれど、島田さんの精神がきれいでない事が、国画会内部に、よどんだものとか、心理的な偽善とか、作品の模倣とか、いろいろな、汚いものを生んでいると、見ています。
今回、長瀬いずみさんの言葉によるとんでもない失礼に遭遇したわけですが、それよりも、10年以上前に、指原いく子さんの・手のひらによる、他人(=私)への侮辱・に遭遇して、『これは、書かなくてはならないね』と、決意したものです。
指原いく子さんというのは女史美を卒業した人で、お見合いで、結婚したらしいエンジニア風のご主人と一緒に、小田原に住んでいます。ご主人は、小田原地方に、工場、もしくは研究所がある、一部上場の大企業づとめでしょう。お子さんが、あるかどうかは疑わしいのだけれど、多分無いでしょう。あったら、ああいう動物的な事はできないはずです。もし、お子さんがあるのに、ああいう態度をとるのなら、お子さんは、偽善者にして、二重人格者に育ちあがるでしょうね。
画家はいっぱい知っていますが、お子さんを持ち、きちんと、ご自分の手で、育てた人は、そう言うところからくる円熟というのがあります。上の方に挙げた優れているほうの女性ですが、お子さんがない人もあるにはありますが、無くても高校教師などを経て、成長をなさっている人もいます。
だけど、指原さんは、まったく違います。彼女の中にあるのは、『最短距離で、しかも省エネで、出世しよう」と言う目論見だけです。そのためには、無駄な事は一切しないと言う方針が見事に、全身を貫いている人です。こう言うのを、賢い人というのだろうか? もしそうだったら、私は馬鹿である方がいいです。誰か、彼かから、いや、国画会に所属する全員700人程度から、『あの人って馬鹿だね』と言われても、指原流生き方とは無縁に生きた方が、すっきりするし、誇りも持ちます。
指原いく子さんの実像を知らない人のために、似た人物を挙げると、キムヨナ選手がそっくりです。一重の目、喜びや、悲しみなどの表情がうかばない顔。そして、馬によく使う言葉ですが、骨量と言うのがありますね。キムヨナ選手も、指原いく子さんも、骨量の少なそうな、小柄な体。だが、筋肉質ではなくて、なよなよとして、柔らかい体でしょう。彼女が、ご主人をたらしこみ、100%支配する能力は、体だと、感じます。キムヨナ選手だってそうでしょう。芸術点が高いと言うけれど、ただ、なよなよした体で、セックスアッピールがあるだけでは無いですか?
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副題13、『公募団体展内の、出世の仕組み』
ところで、国画会などの、公募団体展って、日本に古くからある家元制度を、換骨堕胎して、取り込んでいます。だから、厳重な、ヒエラーキーがあって、中に入ると、出世しないと、人とも思われないと言う感じがして、強迫観念的に、出世を目指すことになります。私ね、逗子に一人暮らしをしていた時に、逗子に、国画会の大物で、考え方が、柔軟な方がいて、電話でいろいろ、教えてもらったのですが、国画会内部って、大ボス小ボスと言う支配関係があるそうです。
その中には、権力を振るいたくってたまらない志向の女性もいるのです。その代表例が、山寺重子さんと言う画家です。この人は、自分の権力を誇示するために、ターゲットを作って、陰湿にいじめまくるので、銀座の画廊の中のロビーで、女性たちが話し合っていて、ただ、『あの人』と言うだけで、山寺さんのことを指すほど、有名ないじめマシーンなのですよ。
私は常に、社交的なことをしないので、その手の会話には、加わりませんが、もし、科のjy穂たちが、・山寺さん・などという固有名詞を、もし声として、そとに出したら、壁に耳ありで、いつ、誰から、密告が彼女に通じて、さらに、いじめられるかも知れないので、絶対に、彼女の名前は、音声では、出さないという不文律があるのです。
国画会に今関一馬さんと言う有名な画家がいました。日動画廊扱いの風景画家で、画料で、飯が食えると言う意味では、森本草介さんと双璧をなす方でした。森本さんは、父親も画家だったらしいとは、最近知りましたが、今関さんも、父親も画家で、しかもご本人は東大を中退か卒業だから、誇りはいっぱいだし、哲学的思考もできる人だから、『山寺重子の行動は目に余る』と思ってらっしゃいました。ところが、そう言う風を感じると、山寺さんは、すぐ防衛策に出て、島田鮎子さんを取り込んじゃうのですね。
島田鮎子さんは、絵を描く事は大好きだし、それは、できるけれど、それ以外の事の経験が少ないので、山寺さんの悪しき人間性を見抜く事ができないのです。で、ちやほやされれば、すっかり、仲良し風になり、その仲良し振りを、山寺さん側が国画会のパーティなどで、誇示することとなります。島田章三さんは、純粋な意味では奥さんを愛していないし、奥さん以外の他の人間も、誰も愛していない人で、ただ、徳川家康的な気風はあるから、面倒くさいことはほうっておく方です。だから、山寺さんが、自分の派閥にいる事に抵抗しないのです。
私なんかから見ると、章三さんは、夫として、山寺さんを、自分たち夫婦の周辺から追い払わないと、それこそ、『その瘴気にあたって、鮎子さん、病気になっちゃいますよ』と、思うのだけれど、章三氏は、そう言う類の、気配りはできない人なのです。ある、病気に詳しい人が、「鮎子さんって、すでに病気だね」といっていましたが、本当に、痛々しい感じです。ふんわりとした、雰囲気と、パッチリした大きな目を持つやさしい天子みたいな美人ですが、実際には、『ああ、彼女は病気だね』と言われる状況です。
私にとって、大切なことは精神の安定と安心なので、鮎子さんを見ているだけで、『ああ、国画会に長居しちゃあいけないね』と、感じます。
さて、島田鮎子さんはわき道でした。この文章の本筋は、指原いく子さんであり、その先輩で、指原いく子さんを会員にする事ができる、中ボス・山寺重子さんです。だから、そちらに戻らないといけません。
ところで、山寺さんや、もう一人の中ボス、B女史の、もち票が、女性の会員だけであるとは限りません。山寺さんって、非常にきれいなのです。『もしかすると、彼女の娘さんは、某女優ではないかなー』と思うほどきれいなのです。(山寺と言うのは、結婚後の名前だから一種のペンネームなので) そして、場によって態度を変える人だから、性格がもともと単純で、ストレートな男の人なんてすぐ、たらしこまれてしまいます。すると、地方在住で、東京のことなんか、よくはわかっていない男性画家など、簡単にたらしこまれちゃうでしょう。山寺さんの、悪意を見抜くことができるのは、それなりの頭脳レベルに達した人だけなのです。
この山寺さんが、2000年当時で、10票ぐらいの票を持っているのだそうです。山寺さんと相手方男性が内々で、「二人の結びつきを、秘匿しておきましょうね」と言う様な男性会員の協力があったら、票は10では、効かない数だったかもしれません。
もう一人、女の中ボスBさんがいて、その人も10票ぐらい持っているそ うです。で、お互いに票を融通しあうそうです。たとえば、『山寺さんの手駒に、私の方の10票は譲るわ』と言う様な内約でも、ある年度ではできて いたと仮定をすると、山寺さんは、ご自分の手駒、指原いく子さんに、「今年は大丈夫よ」っと、言う様な事を言って置く可能性はあります。、
で、結論として言えば、私が『手のひら、ひらひら事件』と、呼んでいる事件に巻き込まれた年は、指原さんは、事前に、自分が会員になれることを知っている、勝負の年だったと、思われます。それで、ことさらに、自分本位に動物的になっていたのでしょう。
その12年後の、今年の、長瀬いずみさんの方は、初個展だったので、まだ、「会員になるつもりで、がんばっています」というほどの、勝負に出ていたわけではありません。だが、見事な、計算高さを見せたので、性格が汚いことでは、二人は、どっちこっちで、いい勝負です。私も気合が入ってしまって、指原さんの件も、過去に書いた時より、しっかり書けます。
本日のタイトルはすごいでしょう。こんなタイトルで、文章を書く、美術界の人間はいませんよ。だけど、長瀬いずみが、これを、書かせたのです。このタイトルは、美術の方面を好きな人にとっては、結構重要な問題です。誰もが、それを知りたがっている問題です。島田章三と、横尾忠則を比較すれば、どちらが上なのかと。
長瀬いずみが、そう言うきわどい設問を、する様に、後ろからプッシュしてくれたのです。彼女がパンドラの箱を開けたのです。
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副題14、『ギャラリーオカベの全壁面を、山寺重子の模倣作品で埋め尽くした、指原いく子』
山寺重子のある時期の作品って、濃いカドミウムレッドを多用していました。これは、製造会社によって、チューブの呼び名が違いますが、ともかく、一般的な言葉で言う『真っ赤』の事です。それで100号正方形の画面の、95%を埋め尽くし、どこかに、違う色の部分を、作り出すと言う形で、数年間、発表をしていました。この100号正方形が真っ赤だと言うことは、とても重要です。普通の人の感覚で言うと、2m正方の真っ赤な画面が目の前にあると言う感覚。
指原いく子の、その個展時の作品は、8号か、10号の長方形のキャンバスを使った、連作となっていました。絵の画風と、使用してある絵の具は、山寺重子のものとそっくりでした。しかし、サイズが小さいのと、長方形であるのが、違うので、ちょっと見の印象は、山寺重子の作品とは、似てはいない様にも見えました。しかし、近寄って丁寧に見ると、マチエールと、画面構成と使ってある絵の具は、山寺重子のそれとそっくりでした。今思うと、・・・・・その方が、票を入れてくれる、山寺重子シンパの、共感を得やすいのだ・・・・・という計算の元に、そう言う設定で、同じサイズの作品を、30枚程度作ったのだと思います。
私は作家ですが、一方で、クリティーク(批評家)の側面も持っていますから、非常に真剣に絵を見ます。特にその時みたいに、大きな問題(模倣)が、隠されている時は、特に、真剣に見つめます。すると、奥から品のよい男性が近づいてきて「いかがでしょうか?」といいました。
私はすぐ『ご主人だろうなあ』と思いました。そして、『純粋で、世間知らずで、よい人だなあ』とも思いました。世の常ですが、結婚をしている一組の夫婦がいた時に、男性の方が、純真です。最近、よく取り上げて語る、お隣のご夫婦も、ご主人は、とても、純真です。そちらはご夫婦そろって、東大卒だと、推察されますが、指原いく子さんのだんなも、東大か、東工大か、それに準じる大学を出たインテリで、育ちがよい事を表面にあらわしていました。
私はすぐさま路線変更をしました。お茶大付属高校出身で、国際基督教大学の出身です。お嬢様方の間で育っていますよ。日本の上流階級のたしなみは、すべて、備えています。で、本心と言うか、本当に気が付いていることは隠して、当たり障りのない事を言い始めました。しかし、神奈川県一頭がよいと言われた子供時代のある人間が、私です。
インテリほど、私の言葉が『鋭くて、意味がある』と言うことは、理解ができるのでしょう。ご主人と私は、結構、話が弾み始めました。すると、奥のサロン風な設定のいすに座っていた指原いく子さんが、わざわざ立って来て、私には何の言葉もかけず、ただ、ご主人の方だけを向いて、背中で、手のひらをひらひらさせたのです。暗号でした。『こんな人は、相手にしなくてもいいのよ。だって会員にしてくれる票を持っていないのだから』という暗号でした。
その後の、数秒間の、ご主人の表情の凍ったこと、凍ったこと。(笑い)
ご主人には、無論、奥さんのサインは見えました。しかし、と、同時に、私がそれを見たことも、彼には、解ったのです。奥さんのいく子さんは、国画会しか目に入っていないので、自分がやっている事がおかしいとも、失礼だとも理解していません。だけど、ご主人には、それが、信じがたいほどの失礼な態度である事がしっかり判ったのです。
ただ、その頃は、私はまだ、国画会に出品をしていたのかな? となると、国画会内部の人間となるのだろうから、指原いく子に威張りかえられて、犬扱いをされても仕方ないのだろうかと、瞬時に思って、黙って、外へ出ました。
その時は、さすがに、それ以前の、軽い調子は、継続できませんでした。普通は画廊を去るときに言う、「いいものを見せてくださってありがとう」とはいえませんでしたよ。
その前に私は、一度路線変更をして、お芝居に入っていますね。会場全体が山寺重子の模倣である事は、みえみえだったと言っているでしょう。それなのに、ご主人に、ありきたりのおべんちゃら風批評を告げている事そのものが芝居だから、機嫌よく去ると言うことは、芝居の中の芝居を、二重に打つ事になるのです。それは、できませんでした。
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副題15、『長瀬いずみに言いたいです。日本って、三すくみの社会だから、絶対に礼儀を尽くさないといけないのですよと』
指原いく子とのエピソードは、すでに、済んだ事だし、当時は私自身が、その厳密すぎる、まるで、やくざみたいな、階級制度の中に組み込まれていたわけですから、仕方がない側面もあります。だが、出品をやめて、すでに、12年がたっています。だから、長瀬いずみと、私は人間として、徹底的に対等です。ところが、2014年1月13日、長瀬いずみは、私を人間扱いをしませんでした。犬扱いをしたのです。私が、あげた名詞を返して来たばかりか、自分が私にくれた名詞を反対に、「返してくれ」と言いました。
でも、私は実際の現場で、言葉で、けんかを売ったり、抗議をしたりするのは嫌いだから、その日、画廊、るたんの芳名帖用デスクの前では何も説明をしませんでした。だが、ここで文章として、言っておきたいです。
・・・・・・日本は三すくみの社会です。あなたにとって、島田章三とか、大沼映夫って、大切な人ではないですか? 目上の人でしょう。でもね。その二人を結び付けている大沼嘉津江さんは、私にとっては平等な相手です。
その人が、小学校のPTAの広報委員長だった時に、実はその任に堪えないところがありました。彼女は、自分でもそれが、解っていて、ホールサイズのケーキを焼いてきて、メンバーをいたわりました。でも、それでも、彼女の事を、「賢くないなあ。トップを担う人材ではないよ」と、感じている平役員は、いっぱいいたのです。
後に、横須賀市の副市長にのし上がって行く杉本家(後注2)の奥様、正子さんだけは、山羊座の生まれで、計算高いので、大沼嘉津江さんを持ち上げていましたが、他のメンバーは、『ふん』と言う感じでした。杉本正子さんは、デパートの靴売り場で、ご主人とであったそうですから、それなりの人なのです。とてもではないが、教養が高いとはいえません。彼女には裏から、ひどいことをいろいろ、されていますので、ここで、とても教養が低いから、ああいうことが平気でできるのだろうと、書いておきます。いずれ、天がお許しくださったら、書きましょう。
『お兄さんが偉いから、彼女もその点で委員長をしているけれど、切れ味が足りないわね』と思っている平役員がいっぱいいて、その中の一人が、下駄箱で、私に、こう言うことを言いました。「ねえ、あなた知っている? 島田章三さんって、新大津の支所にあるリトグラフ、8000万円で、市に、売りつけたんですって。すごいでしょう」と。これは、30年以上前の事で、今では、物価が3~5倍になっていますので、3億から、4億で売りつけたと言う事になります。リトグラフって、紙の作品だしサイズは小さいしですから、これでは、市民は怒ってしまいます。
地元の人は、子供時代からの、島田家を知っています。だから、ぜんぜん尊敬をしていないのです。
リト一枚を、1980年代に、8000万円とは、確かにすごい話です。だけど、それを、みんなが信じてしまい、他の人へ新たな噂として流すのは、嘉津江さんが、普段話す兄の話・類から、『そう言う人でしょうね。強欲なんでしょうね』と、しみじみ感じ取れるからです。誰もが、そう、感じるからです。
嘉津江さんは、兄の悪口を言うのではないのですよ。ただ、ほめまくるのです。だが、だからこそ、島田章三さんのあざとさと、醜さが、他の人に、感じ取られてしまうのです。そう言う風に話を持っていってしまうから、嘉津江さんは頭が悪いなあと、感じる人がいるのです。
他にも、本人からも、他の人からもいろいろ、聞きました。これは、他人からですが、『ねえ、知っている。嘉津江さんて、中学まで、鎌倉の私学へ通っていたのよ。だけど、高校は県立の某某高校なの』とか。これは、理由を、その人が、言わなくても、だいたい、『お成績が悪くて、ついていかれなかったのでしょうね』と、ほとんどの人がわかってしまいます。
他にも決定的に、『そうなんだ。島田兄弟って、頭が良いとはいえないのだな』とか、『強欲なのだなあ』と、感じるエピソードはあります。が、ここで、その詳細を曝さないで、結論を先に言ってしまうと、1980年代のうちに、それを、知ってしまった島田章三の、諸欠点は、1991年以降、国画会に、作品を、出品し始めて、実物に接する様になっても、変化する事はありませんでした。よい意味で裏切られると言う事はなく、ずっと、『この人が国画会の、実質的なトップだから、下々も、とんでもなく、おかしな人が、多いなあ。ともかく、誠実とか、礼儀と言う事がわかっていない人が多い』と、感じ続けてきたのです。日本社会って、普通のサラリーマンでも、もっと、礼儀正しくて、頭がいいですよ。
こう言うエピソードをはっきりさらすのは、あなたのせいですよ。長瀬いずみさん、いかがですか? 私に言わせれば、『あなたが、あまりに頭が悪いから、ずっと、心の中で、感じ続けてきたことが、つい、外へ出てしまいました』と、なります。
それでも、『自分は、正しい事をした』とお考えになるの? そうだとしたら、もう、何をか、いわんやですね。まあ、あなたご本人がどれほど、自慢をして、自分が頭がいいと、信じてもかまいません。別の世界(別の位相)に住む人間は、違う価値観を持っていきているのですよ。
副題16、『島田章三さんは、妻鮎子さんのモチーフを応用しているけれど、そこにオリジナリティの問題は起こらないのですか?」
さて、最後に爆弾的な発言をしておきましょう。島田章三さんの絵は、実は奥様のモチーフをのっとってしまったものなのです。それだけでも、美術系作家としては、誠実ではありません。夫婦だからいい? ありえないです。こう言うことをはっきり言う美術評論家がいないけれど、私は長瀬いずみと言う何の因果関係もない人間に、驚くべき侮辱を受けたので、ここまで、はっきりと言うのですが、この事実を持って、恥の感覚がないということだけでも、島田章三さんは、誠実ではないし、頭がよくないと思うのです。
そう言う、問題作に、横須賀市は、杉本正子、大沼嘉津江ラインから、恣意的に大金を注いでいるのですよね。驚くべき世界です。ここが、本当に大切なところです。長瀬いずみは、そんな大きな芸術的真実にまで、私を導いてくれました。世の中には無駄なことは何もない。・・・・・・と、いつもながらに思いますね。
なお、このブログの、2010年より数え始めた伸べ訪問回数は、2040247です。2014年2月11日から書き始め、12日に推敲を終わる。雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
(後注1)
臨床医と、基礎医学の学者には、隠された対立がある筈だ。それは、作曲の世界だけではない筈
(後注2)杉本横須賀市福祉長が、看過した一種の詐欺問題は、何度も書いてきていますが、ひとつだけ、リンク先を見つけたのでここに付記します。